福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

「人生道」を求める

2021-06-28 | 法話

「人生は苦である」とは仏典にも聖書にもあることばですが、此の苦の人生をいやがおうでも送らざるを得ない凡夫は「苦の人生を送る中で道を発見する」しか苦を転換することは出来ないと思うこの頃です。

そう思ったきっかけは以下の「野球道」の話です。

川上哲治が初めて梶浦逸外老師に会ったのは、正力松太郎の紹介がきっかけです。(正力松太郎は昭和34年10月号の「大法輪」に「私がはじめて座禅を組んだのは24歳帝大2年に進学したばかりのときであった。・・・その後戦争犯罪人として巣鴨に収容されることになった。・・ともあれ私は(南禅寺管長勝峰大徹)師のことを思い出して在監1年9ヶ月の間座禅を続けた。」と。)

 当時川上は、現役をやめるか、続けるか、コーチとして残るか、あるいはユニホームを脱いで評論家としてやっていくか、いくつかの選択に迫られていました。氏は二十余年間の野球生活から離れて、別の角度から人生を見直してみたい、という気持であったといいます。

ところが正力は、「まだやれる。そう引退を急ぐことはない」といい、また水原監督からは、「現役でやれないとしてもコーチでやってくれないか」ともいわれ、迷っていたそうです。正力は「そんなに結論を急がないで、ワシが紹介するから、日本で一番やかましくて高潔といわれる梶浦逸外という老師のもとで、1ヵ月ぐらい坐禅をしてみて、それから今後の方針を決めたらどうか」とすすめました。

昭和三十三年の十二月、正力の添書をもって正眼寺を訪ねた川上は逸外老師に「球が止まって見えた」と言います。老師は「よし、君は野球で一応のところは得ている。しかし、それだけでは駄目だ。それをもっと掘り下げて、諸事万般に応用が効くように修行することだ。今、自分が見えるところに酔っていたら、野球だけの人生で終わってしまう。技術の面では本物であることには間違いないが、しかし氷のように固まってしまっている。これから私も指導するから、君もそのつもりで氷を水に溶かす修行をしなさい。水に成り切れば、高い所も低い所も自由に流れることができ、顔も洗えれば飲むこともできる。野球は、野球野球と呼び捨てではないか。最終的に、野球道というものをつくり上げていくことを約束するなら許そう」といわれました。
川上はその後約一か月の僧堂生活に入り、老師の指導を受けています。遷化されるまでの二十余年間、その指導は続いたといいます。この「野球道を求めよ」という言葉に発奮した川上は前人未到の成果を残すことになります。そして「禅と日本野球」等多くの禅と野球に関する本を出しています。
考えると古来日本人はそれぞれのおかれた立場でこの「道」をもとめてきたはずです。茶道、書道、柔道、剣道に始まり、商人道とか役人道という言葉まであります。いまはこういう言葉が死語になり様々な不祥事が頻出して、毎日誰かが頭を下げています。明恵上人は「あるべきようは」といわれました。社長は社長の「あるべきよう」を求めて「社長道」を邁進し。課長は「課長道」を求め、社員も「社員道」をもとめ、主婦は「主婦道」を求め、政治家は「政治家道」を求め,庶民は人生を送る中で「人生道」を求めることです。そうすればそれぞれがその人生を終える時素晴しい成果(積徳)を残すことができ死後も子孫を守り社会や国を守ることができるのではないかと思います。

かく言う自分自身も「高野聖」として改めて「高野聖道」を求めねばと自戒している次第です。これが難しいとしても「人生道」だけはいやがおうでも求めざるを得ません。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 秘密安心往生要集・・28/42 | トップ | 秘密安心往生要集・・29/42 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

法話」カテゴリの最新記事