福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

坂東観音霊場記(亮盛)・・・24/31

2023-08-24 | 先祖供養

 

第廿六番常州清瀧(現在も第26番は南明山清瀧寺)

干立國(ひたちのくに)筑波郡小野村南明山清瀧寺は筑波権現降遊の砌、行基大士艸創の地也。本尊正観世音菩薩は御長丈六(5m)、同じく開山大士の彫造。今の堂地中興の事は、花山法皇御叡慮也。清瀧寺の北背に筑波根に續く山あり。土俗是を小野山と称す。山の高さ一里半余り、東西は長く南北は狭し。是の故に又布引山と云。當初筑波二柱神諸神を率いて此の遊び、頻りに渇の意地し玉ふに、元より地勢乾燥にして曽て水を求るに由なし。爰に於いて去来諾(いざなぎ)尊、天の鉾を持ちて山を突玉へば、忽ち地裂けて清水湧出、流れて南北へ漲落る。二神諸神是を喜て雌神は瀧口の北に立ち、雄神は瀧の南に立ち玉ふ。(土俗傳言、人の妻座を北の方と称するは、此の時雄神、雌神を呼玉ふ、此の事の元也と。礼記に曰、士の昏礼に婦洗ふて北堂に在り、有司云(ここに)爵を主婦に致すと。詩に曰、焉んぞ萱艸を得て言に之を背に樹し([詩経衛風、伯兮「焉いずくにか諼草けんそうを得て、言われ之を背に樹うえん」](諼は萱で忘草、背は北堂で母の起居する所)母の雅称))、注に、背は北堂なり。堂は房の半以北を北堂と為す。房の半以南を南堂と為す。韓愈が曰、主婦北堂を治す故に母を北堂と称す。)此の二神は元陰陽の靈なれば、北の瀧は陰に閇て矇く、南の瀧は陽に開いて明かなり。斯て千歳の後に至り、行基大士此に浄刹を剏め、南の瀧の清明なるを取りて、南明山清瀧寺と号す。大士常に此瀧水に臨み水想観を為玉ふに、一句の呪文瀧壺に浮かぶ。沐浴種上 内外清浄。又一時漲落ちる瀧の中に、大悲の聖容彷彿として見玉ふ。乃大士感見の靈容を模して手親(てずか)ら丈六の形像(正観世音)を作り山頂の瀧口に就いて安置し玉ふ。此れ清瀧寺の艸創の因縁なり。自尒(それより)、土人大悲水と号し競来て此を飲、是に浴するに必ず疾病を治し、災厄を祓ふ。然るに大同年中に至て、不料(はからざる)に忽ち瀧口塞り水涸て一滴も流出ず。土人曽て其の故を知者なし。瀧口塞し事を守山某の物語に曰、筑波権現此の水を移して水戸守山の神社へ賜と。于今守山の社頭には清水常に湧いて池に溢る。水の出る門戸と云意にて、土地の惣名を水戸と称す。其の水の流れを泉川と云。彼の「みかのはら わきて ながるる」と云る古歌(みかの原 わきて流るる 泉川 いつみきとてか 恋しかるらむ。新古今集・中納言兼輔)に擬へて、名くる乎。行基大士開基の後、一百七十余歳を經て花山の法皇御巡礼の時、此の靈場の因縁を聞召れ、険阻の山頂に在しては、老若の結縁普く及ずと、御堂を山の麓へ移玉ふ。是尚大悲者の内鑑に叶ひ實に永世の大利益なり。

巡禮詠歌「我心 今よりのちは 濁らじな 清瀧寺へまいる身なれば」此歌の意、按に法華の一稱南無阿弥陀佛以成道(『法華経』方便品)の文は微善も捨玉はざる佛の大悲なり。凢人佛縁に値て善心を起までを、佛は優曇花盲亀に喩玉ふ。今此清瀧寺へ詣る者は已造の罪を消滅すれば、未作の悪意は尚不起、後生清浄土の身と成。故に我心今より後は濁らずと云。妄想の垢穢を大悲の清瀧にて洗ひ、菩提の心水澄彌て、佛日の影を現ずると也。尚又唯心の弥陀、已身の浄土の意(「己身の弥陀唯心の浄土」は阿弥陀仏も極楽浄土も共に、自己の身心のうちに本具する性徳であるという意で、華厳・天台・禅宗等の聖道門の説)古歌に「浮き艸を揆分(かきわけ)みれば水の月、爰にありとは誰か知るべき」。法華の中に一眼の亀云は、常の両眼は盲ひて見へず、惟腹の中に一目あり、此の亀大海に浮出て遇(たまたま)浮木に値て乗、風有って是を吹還す。彼の浮木を抱て仰き、腹の一眼木の穴に中り、初めて日月の光を見る。然るに此の亀海上に浮き出ても浮木に逢こと難し。縦ひ穴の有る木に値ても腹の眼の穴に中ること難し。腹の眼木の穴に中ても風の吹返す事難し。右の衆縁を皆もg天の曇たる時なれば、日月の光を見ること不能。是佛法には甚だ叵難(あひがたき)譬なり。涅槃経の中にも世に生るに人身は叵得、之を得ても佛には叵値、譬ば浮木の亀の如しと。(大般涅槃經卷第二十三光明遍照高貴徳王菩薩品第十之三「人身難得如優曇花。我今

已得。如來難値過優曇花。我今已値。清淨法寶難得見聞。我今已聞。猶如盲龜値浮木

孔。」)明慧上人の歌に「盲ひたる亀の 浮木にあへる哉 遇得たる法の ふ子はし」。今我等生死の海に浮出、歴然と両眼あれども邪見にして正理を要(もとめ)ず。所謂海中の盲亀の如し。腹の一眼は一心の佛性也。日月の光とは浄菩提心也。

智度論に云、天竺舎衛城に九億の家あり。三億の家は目に佛を見上り、三億の家は耳に佛有と聞て而も目に見ず。三億の家は不聞不見。佛の舎衛城に二十五年而も此の衆生は見ず聞かず。何に況や遠き者を乎。西域記に云、舎衛國、周六千里。又云、佛阿難と舎衛城の入り、乞食したまふ。一の貧老婆有り、道の頭りに立てり。阿難佛に白して言さく、此の人を度すべし、と。佛の曰、因縁無ん、と。阿難の言く、佛往て之に近き玉はば、彼佛の相好光明を見て、歓喜心を發さば因縁と為ん、と。佛往て之に近くに、身を廻らして佛に背く。佛四邊より出れば、両手をもって眼を覆ひ、あへて佛を見ず。佛更に度する因縁無し。佛阿難に告玉はく、佛には値を得ること難し。優曇波羅樹華の如しと云々。

一時、廻國巡礼の者、納経の為に我寺に来り、此の記に就いて問て曰、彼の地に瀧の有るを見ず。然るに寺を清瀧と云。亦本山を南明と号す。此の所由何なる故やと。予答るに、彼の寺の縁起を説。因に天竺の復眼寺、唐土の白馬寺の事を示す。巡礼者此を聞て喜び、鉦鼓を鳴らし、念佛を稱て去る。乃し其の二事を于茲に誌す。玄奘三蔵天竺に在す時、一百八十余國を廻。所有霊地𦾔跡を遊歴し玉ふ。或國に復眼寺と云あり。本尊は聖観世音菩薩、柳の枝に両眼を付て、持玉ふ。玄奘子細を問玉へば、寺僧其の因縁を説て曰、昔此の國の王、重病を受く。一の醫師奏して曰く、男子の十四五歳の眼を抜き、我製法の藥に加味せば、大王の病必ず痊玉はんと。時に太子此の由を聞玉ひ他人の身命を損害して我が身の安穏を求るは上君たる寛愛の仁に非ず。我幸に今茲十五歳なれば、父王の御藥に成るべしと、太子自ら両眼を抜取、密に醫師の方へ贈玉ふ。尒後、王太子の事を聞召れ、悲嘆して佛弟子に問玉ふ。佛弟子王に教諭して曰、観音は求世の大悲を主り、能く衆生の為に依怙し玉ふ。王若し専信に祈り玉はば、所願は鐘谷の應ずるが如し、と。是に於いて大王、太子と共に七日断食して、観音を念じ玉ふ。然るに或夜王父子の夢に大悲者王宮に示現し柳の枝に両眼の玉を著持し、太子の雙眼へ入玉ふ。王父子驚き覚めて是を見るに、太子の両眼本復して明らかなり。王父子及群臣共に不思議の霊験を感ける。即ち此の霊験の形像を造り、伽藍を営みて、複眼寺と名くるとぞ。此れ天竺にて故事を寺に名く。其の所以なり。法華直談等。

漢の明帝東都の城門外に於いて、精舎を建て摩騰笠法蘭を處摂す。即ち白馬寺也。騰始め西域より白馬を以て經を駄して来る。初め鴻臚寺に止る。遂に寺の名を取りて剏て白馬寺を置く。即ち僧寺の始也。事物紀原巻の七に、寺は元、僧寺の号に非ず。官吏所居の名也。即ち官舎を鴻臚寺と云。摩騰笠法蘭より始めて佛氏の所住に名也。復眼寺白馬寺共に其の故實を名とす。今此の清瀧寺も、二神奇特の所由を即ち寺山号と為す。三國一致の例に非ず耶。

(巻八終)

 

 

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