福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

煩悩・菩提、もし一体ならば、ただ意に任せて惑業を起すべきや

2020-06-04 | 法話
(往生要集大文第四)
「問ふ。 煩悩・菩提、もし一体ならば、ただ意に任せて惑業を起すべきや。

答ふ。 かくのごとき解をなす、これを名づけて悪取空(空を誤って理解する)のものとなす。 もつぱら仏弟子にあらず。 いま反質していはく、なんぢ、もし煩悩即菩提なるがゆゑに欣ひて煩悩・悪業を起さば、また生死即涅槃なるがゆゑに欣ひて生死の猛苦を受くべし。 (悪取空の考えでねがって煩悩悪業を造れば生死即涅槃でまさに生死の苦をうける)
なんがゆゑぞ、刹那の苦果においては、なほ堪へがたきことを厭ひ、永劫の苦因においては、みづからほしいままに作ることを欣ふや。 このゆゑに、まさに知るべし、煩悩・菩提、体これ一なりといへども、時・用異なるがゆゑに染・浄不同なり。 水と氷とのごとく、また種と菓とのごとし。 その体これ一なれども、時に随ひて用異なるなり。 (煩悩と菩提は時と働きが異なる)
これによりて、道を修するものは本有の仏性を顕せども、道を修せざるものはつひに理を顕すことなし。 『涅槃経』の三十二にのたまふがごとし。 「善男子、もし人ありて問はく、〈この種子のなかに果ありや、果なきや〉と。 さだめて答へていふべし、〈またはあり、またはなし〉と。 なにをもつてのゆゑに。 子(たね)を離れてほかに果を生ずることあたはず。 このゆゑに〈あり〉と名づく。 子いまだ芽を出さず。 このゆゑに〈なし〉と名づく。

この義をもつてのゆゑに、〈またはあり、またはなし〉と。 所以はいかん。 時節は異なることあれども、その体はこれ一なり。 衆生の仏性もまたかくのごとし。 もし衆生のなかに、別に仏性ありといはば、この義しからず。 なにをもつてのゆゑに。 衆生すなはち仏性なり、仏性すなはち衆生なり。

ただ時の異なるをもつて、浄・不浄あり。
善男子、もしあるが問ひていはく、〈この子はよく果をなすやいなや、この果はよく子をなすやいなや〉と。 さだめて答へていふべし、〈または生じ、生ぜず〉」と。
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