「・・我々が加持感応の原理を理解するにはまず真言教学の世界観を思い出さねばならない。無限なる宇宙を一大曼荼羅とし現象の萬物を宇宙曼荼羅の顕現とすることはすでに述べたとおりであるが、このように世界が一大曼荼羅であるとすれば萬物は互いに相通じる間柄にあるとしなければならない。それを三密平等という。自分の三密と如来の三密と一切衆生の三密と、この三者の三密は互いに融合し、本来一如平等のものである。この三密 . . . 本文を読む
日本紀略 / 長元六年(1033)五月十四日戊寅条「十四日戊寅 於神泉苑被修請雨経法」これは旱魃により神泉苑で請雨経法を修したものです。
弘仁十五年(824年)大師がここで請雨経法を修されて以来神泉苑は雨乞いの道場でした。
天皇は後一条天皇。
万寿五年1028七月二十五日、疫病、炎旱の天変地異を断ち切るために長元に改元されています。
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まだ悪の果報が熟していないうちは、 悪人でも幸せに巡り合うことがある。 しかし悪の果報が熟したときには、 悪人はわざわいに巡り合うことになる。 まだ善の果報が熟していないうちは、 善人でもわざわいに巡り合うことがある。 しかし善の果報が熟したときには 善人は幸せに巡り合うこ . . . 本文を読む
日本紀略 / 寛平五年(893)閏五月十四日辛巳条「十四日辛巳 勅諸国停貢相撲人 依疫癘之患」今日は疫病で相撲を止めさせた日です。このほかにも疫病の時は相撲を止めさせているデータが多くあります。 . . . 本文を読む
日本紀略 / 長徳元年(995)五月十四日己未条「十四日己未 大般若経御読経始 又有賑給事」長徳元年は改元前後に全国で疫病が起き、貧民救済のため賑給をし大般若を読誦しています。天皇は一条天皇。 . . . 本文を読む
史料綜覧 巻五 / 弘安四年(1281)五月十四日条「十四日 院宣を下して 春日社・興福寺等をして 外寇を祈禳せしむ」この年弘安四年(1281 )正月には第 8代執権の時宗が、建長寺無学祖元に「莫煩悩」といわれています。弘安四年(1281) 5月3日には、いよいよ蒙古軍が朝鮮半島合浦を出航しています。 . . . 本文を読む
今日は伝教大師が山家学生式を製された日です。「天台法華宗年分度学生式一首国の宝とは何物ぞ、宝とは道心なり。道心ある人を名づけて国宝と為す。故に古人言わく、径寸十枚、是れ国宝にあらず、一隅を照す、此れ則ち国宝なりと。古哲また云く、能く言いて行うこと能わざるは国の師なり、能く行いて言うこと能わざるは国の用なり、能く行い能く言うは国の宝なり。三品の内、唯言うこと能わず、行うこと能わざるを国の賊と為す。乃 . . . 本文を読む
『文徳天皇実録』仁寿三年(853)五月壬寅(13日)条
「亦た大宰府に詔して、観音弥勒両寺并に四王院・香椎廟・管内国分寺において。大般若経を読ましむ」。
(香椎宮(かしいぐう)は福岡市北部、立花山南西麓に鎮座。仲哀天皇・神功皇后を祀る。)
聖武天皇の頃から天然痘は大陸との交易で九州から入ってくることが多かったのでこの頃も大宰府管内が猖獗をきわめていたのではないかと思われます。 . . . 本文を読む
今日は疫病封じのために般若心経を神泉苑等で読誦した日。三代実録 / 貞観七年(865)五月十三日癸巳条「十三日癸巳 僧四口を神泉苑に延期べ 般若心経を読ましむ (注1)又僧六口を 七条大路の衢、朱雀道東西に分配し 朝夕二時に般若心経を読ましむ。 夜、佐比寺(注2)の僧恵照に疫神祭を修さしめ以って災疫を防がしむ。 預め左右京職に仰せて 東西九箇条の男女に人別に一銭を輸させ 以って僧の布施供養に充てし . . . 本文を読む
今日承和三年五月十三日は真然・真済両大徳が遣唐使船に乗り込まれた日高野春秋「(承和三年五月)十三日、壬子(みずのえね、じんし)、両大徳(真然・真済)遣唐使と難波津を発船。国史に云、遣唐大使藤原常嗣、副使小野篁、及び判官長峰高名、録事高岑継、共に纜を解き難波海口を発す。真言請益僧真然真済両大徳は第三船・・」(この後、難破し九月に帰京します) . . . 本文を読む
今日は真言・法相を究めた三修遷化の日です。以下ウキぺデア等に依ります。三修は昌泰二(899)年5月13日73歳で遷化。近江国伊吹山(滋賀県坂田郡)の護国寺を定額寺としまた伊吹山に長尾,弥高,太平の3寺を創建したと伝えられる。東大寺に属したが,宗叡に従って真言宗を兼学。寛平6(894)年に維摩会講師,翌年に三会已講(維摩会,最勝会,御斎会の講師を勤めた者)の労によって権律師に任ぜられた。 . . . 本文を読む
今日は道昭が遣唐使に派遣された日です。白雉4年5月12日 - 道昭が遣唐使に派遣され(吉士長丹、高田根麻呂、定恵らと共に)のちに帰国して法相宗を伝えます。日本書紀・孝徳天皇の条に「四年夏五月辛亥朔壬戌、發遣大唐大使小山上吉士長丹・副使小乙上吉士駒駒、更名絲・學問僧道嚴・道通・道光・惠施・覺勝・辨正・惠照・僧忍・知聰・道昭・定惠定惠內大臣之長子也・安達安達中臣渠毎連之子・道觀道觀春日粟田臣百濟之子・ . . . 本文を読む
今日は後宇多法皇が灌頂一印明六巻を授けられた日。今日は後宇多法皇が仁和寺真光院禅助から灌頂一印明六巻を授かり書写を始められた日です。「重文・後宇多法皇宸翰灌頂一印明六巻 大覚寺蔵」より「徳治三年1308、五月十二日 前大僧正(仁和寺真光院禅助)之を授く。 委口傳了 阿闍梨バザラジャ(梵字で金剛性のこと)同十三日朝筆を馳せて書写畢、同じく十七日、校合、朱點幷注等加了、一字相違無者也(御花押)、昨日 . . . 本文を読む
(史料綜覧 巻九 / 享禄四年(1531)五月)「十二日・・・疾疫流布ニ依リ 青蓮院入道尊鎮親王(注1) 勧修寺尚顕(勧修寺家の11代当主)第(邸)に千巻心経を読誦せらる」
天皇は後奈良天皇。室町幕府は足利義晴。この頃特に疫病の記録はありませんが享禄五年七月には戦乱等で享禄から天文へ改元しています。 . . . 本文を読む
今日は細川晴元が疾疫で施餓鬼を修した日。史料綜覧巻十 / 天文九年(1540)五月十二日条「十二日 諸国疫疾流布スルニ依リ 細川晴元 幕府ニ請ヒ 施餓鬼ヲ北野経王堂ニ修ス」(・天文九年は前年天文八年(1539年)に発生した大雨・洪水・蝗害に天文九年春の大雨・洪水で疫病も大流行していた年です。・「細川晴元」は第34代室町幕府管領。血で血を洗う争いを繰り返していた戦国大名もこういう施餓鬼を行うなどの信 . . . 本文を読む