mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

指標と自信

2019-09-22 09:50:54 | 日記
 
 新しい体重計が来た。「体組成計」と名称がついていて、体重ばかりか、11項目の「体組成」を図り表示してくれる。体重とかBMIというのは、わかる。計算式があるからだ。だが、体脂肪率、筋肉量、内臓脂肪、基礎代謝、推定骨量、カルシュウム推奨量となると、すべてブラックボックス。むろん、この体組成計をつくっている会社の算定式があり、それがこの計器のマイクロコンピュータに組み込まれているのであろうから、お任せするしかない。
 
 上記の外に、体内年齢と足腰年齢と体型判定というのは、たぶん統計的な平均値を組み込んで、あなたはどこに位置していますと、判断してくれるのであろう。最初に個人登録をしておけば、あとは計器に乗るだけで、計測がすすむ。
 
 ひとつ疑問なのは、古い計器も同じ会社の製品だったのだが、それで測ってきた「体脂肪率」と新しいそれとが、2ポイントほど違う。古い方では「17」ほどだったのが、「19」になっている。新しい計算式になったのかどうか、疑問のまゝだ。
 
 でも、測ってみて心理的に大きな作用があると思ったのは、統計的平均値を組み込んだ最後の3項目だ。私もカミサンも、体内年齢は15歳ほども若く出た。足腰年齢は、私は7歳ほど、カミサンは11歳も若く表示された。体型は「標準」と、言われないでもわかるから、別に心理的作用はない。
 
 カミサンは、俄然、自信をもった。これまでの食事や飲み物、日ごろの出歩き方、寝っ転がって本を読むのが少しまずいかなと口にしながら、自分をほめているのがわかる。何より足腰年齢が私より若かったのが、自信に結びついているのかもしれない。何しろ、私はいまだに山歩きをつづけている。カミサンは、軽い日帰りの山行には付き合えるが、厳しい山歩きはここ数年、控えている。というより、もうムリ、と言ってつきあわない。どこがどうというわけではないが脚に不安があるという。それなのに、私の足腰年齢より5歳も若く表示されたことで、昔日の日本百名山を踏破した実績が甦ったのかもしれない。
 
 不思議なものだ。ただの統計的数値の表示に過ぎない。当然、男と女では値も異なり、山歩きの力量とは異なってくる。にもかかわらず、なぜこれほどの自信に結びつくのであろうか。「指標」というのは、専門家が認定した「状態」の判定である。ふだん「お元気ですね」と他人に言われたり、「調子がいいよ」と自賛したりするのは、主観的な印象であり、客観性がないと考えられている。ところが専門家の(統計的処理を含む)「判定」となると、客観的だと受け止められる。世界に自分を位置づけることが客観的にできているという位置づけの安定感が、自信につながると言えるようだ。
 
 計測するというのは自己を外化することだ。それ自体が客観化と言ってもいいが、それが数値に変換されて表現されることで、自己の輪郭を対象化して(自己に)みせ、それによって自己の主観的評価を強く内面化していく作用が、起こっているようだ。人の精神活動の不思議ともいえるが、自分の身体の状態とこころの状態が相関して動くという意味では、まさに「身」の処し方にぴったり適っている。

自然科学は「偏見」から自由か

2019-09-21 10:04:29 | 日記
 
 林憲正『宇宙からみた生命史』(ちくま新書、2016年)は、地球の生命史からみた宇宙を解きほぐしていて、面白かった。
 
 地球における生命が、いつ、どのように誕生したのか、それがどのように「進化」を遂げてきたのかを考察するとき、地球という限られた舞台だけで考えて来たのが、従来の生物学であった。ところが、宇宙が解き明かされてくるにしたがって、生物と非生物、無機物と有機物の端境がくっきり線引きされるものではなく、分子生物学が発展をみせ、化学と生物学の相互浸透がすすむ。こうして、生命誕生の証であるタンパク質を構成するアミノ酸を、実験室で誕生させられるかにとりかかる。生命誕生のときの地球の「状態」を再現するということは、じつは、地球の誕生を解きほぐすことであり、それはまた、太陽系を、銀河系を、宇宙の誕生であるビッグバンを解きほぐすことと無縁ではないうちゅう。こうして、地球生物学は、アストロバイオロジーへと展開してきたと、著者・小林は平明に記述している。
 
 その冒頭において小林は、「われわれは宇宙の中心か」と問いをたて、太陽系が数千億個の構成の一つにすぎず、銀河系の片隅の存在にすぎず、その銀河系すら宇宙にある数千億個のほんの一つにすぎないこと、さらにビッグバンのインフレーション理論から推定すると、宇宙はただ一つ(uni-ユニ)ではなくたくさん(multi-マルチ)であること、つまりユニバースではなくマルチバースであると考えられると、そう考えられるに至った発見の過程を簡略に記しつつ、生命を関心の中心に置いて宇宙がどう解きほぐされてきたかを解説する。
 
 知らなかった世界が次々と展開していく様子を目の当たりにするのは、わが身が広がっていくような感触をともなって、面白い。と同時に読み進みながら(小林自身も常にそういう留保を持っていると感じさせる表現を用いているが)、「仮説」が介在していることを感じる。「仮説」というのは、そう考えることで説明のつかなかったいくつかの事柄が論理的に理解できることを意味している。じっさい、実証などできない領野があるのだ。
 
 それを小林はどう乗り越えているか。物理学は地球上だけで成り立つものではなく、宇宙全体で成立する普遍的な真理である。化学もまた、宇宙のどこでも成立する事象だと、「普遍性」を拠り所にする。と同時に小林は、次の補足を忘れない。
 
《もしマルチバース説が正しく、私たちの「宇宙系」以外の「宇宙」があるならば、そこでの物理学は「宇宙系」での物理学と異なると考えられる》
 
 「宇宙からの視点で地球や地球生命をみると、地球上からだけ見ていたのではわからないことがわかってくる。そのような学問分野をアストロバイオロジーとよんでいる」そうだ。小林は「地球生物学」の観点では常識と思われていたことが、宇宙でも本当にふつうなのかを考えてみる」とし、《生物学を「地動説」の立場から調べてみる》と位置づける。だが学問分野の広がりは、地球からみた関心ばかりが動機ではない。そこが「天動説」ではなく「地動説」の地動説たるゆえんでもあるが、宇宙への進展がすすむにつれて、「もし地球の生命体が宇宙の生命体に影響を与えるとしたら重大に過ぎる」として「圏外生物学」の研究が提唱され、それがアストロバイオロジーへとつながった経緯も記されている。つまり、宇宙生命体の側からみた宇宙開発のモンダイとして宇宙生命体の研究が行われはじめたのでもある。地球生命体の解明は、宇宙生命体の解明と手を携えて展開することになった。
 
 本書の記述は、上記の概要を前提にして、生物学における生命体の研究を解きほぐす。分子生物学が化学と生物学の融合であると言われ、遺伝子の解析がすすみ、DNA/RNAがほぼ解読されていく過程と同時進行で、生命の誕生への探求も進行する。読む者にとっては、いわば、物理化学生物学という自然科学の統合的な理解が求められ、それに(生命科学という分野から)応える見事な解説が行われている。だが、それを受け止めている私自身の理解からいうと、著者の記述が何を意図して行われているかは理解できるが、その記述されている展開が事実に即して精確なのかどうか、じつは、まったくわからない。それを理解するには、アミノ酸の構造式やその変異のことごとの意味がつかめていなければならないが、それを検証する力などは、まったくない。つまり私は、「専門家がこう記述しているのだから、その論理展開でたぶん精確なのだろう」と信頼を寄せているにすぎない。ここに「わたし」の「権威」がおかれている。これは私にとっては、「仮説」にすぎないことなのだ。だがその「仮説」であることを忘れた瞬間、「わたしの仮説」は「偏見」になる。「妄信」になり、それを他に向けて発信すると「妄言」となる。
 著者・小林もアストロバイオロジーの専門家たちのあいだの力点の仕方に違いがあると指摘している。専門家たちの「ふるさと」が生物学であるか化学であるか宇宙物理学であるかによって、傾きが異なる、と。そこに地球を宇宙の中心とみる(天動説的な)「傾き」があると。しかしそれは、モノを考えているのが、今ここにいる「わたし」であるという存在論的事由によるのであって、だれもそれを避けて通れない。つまり何がしかの「仮説」にたってものごとを見ているという「制約」を免れることはできないのだ。
 
 「わたしの仮説」は、じつは、「わたし」の知的集積の「せかい」である。だからそれをつねに「ひらく」方向へ保つことが、「わたしの仮説」を「偏見」から救い出すせめてもの営みとなる。本書の終わりの方で小林は面白い記述展開をして、読む者を面白がらせる。ヒトは地球を代表する生物か、と問う。そうして、長寿の年数で較べたり、数で比較したり、総重量で計算してみたりして、他の生物と比べている。むろん動物としての長寿年数においては、ホンビノスガイにははるかに敵わない。植物まで含めるととうてい比ではない。重量計算で面白いのは、地下生物と呼ぶ微生物の存在が200兆トンと算出されている。人類の総重量3.5億トンどころか、地表生物の総トン数1兆トンをはるかにしのぐ。それはまた、過去4回起こって生命体を脅かした地球の全球凍結があっても、あるいは、恐竜を滅ぼしたのと同様かそれ以上の彗星の猛爆撃が、将来4回起きると見たてられているが、それらの災害があって、地上の生物が死に絶えることがあっても、地下生物である微生物は生き延びるとみているのも、ちょっと「地動説」的な立ち位置を広げているようで、面白いと思った。

「女心と秋の空」

2019-09-20 17:27:53 | 日記
 
 来週の山は奥日光に泊って、太郎山と日光白根山の二山を登る予定であった。宿もとった。ところが、日光湯元の天気は悪くないのに、白根山の天気が「C」(不適)だ。風が強いせいかもしれない。とうとう宿のキャンセル料が発生する期限までよくならないので、中止にしようかと同行者へメールを打った。電話がかかってきて、「じつは体調が良くない」という。先週、鶴ヶ鳥屋山へ行った二日後に高尾山へ軽いハイキングをしたところ、調子を崩したという。夏の表銀座縦走が案外まだ、尾を引いているのかもしれない。白根山の日帰りならいけるかもしれないが、両方は無理だというので、まず宿はキャンセルした。日光白根山の天気が悪いなら、こちらはどうかと調べてみたら、富士山の西側、静岡県富士宮市の毛無山が「A」(適)だ。こちらにしようかと算段していた。
 
 ところが昨日の夜になって、台風がやってくるという。どこへくるの? いつくるの? と見ていたら、なんと来週火曜日には北海道にまで行ってしまっているようだ。ならば、ひょっとすると日光白根山は、台風一過で「A」になるのではないかと「てんきとくらす」を覗いて見ると、みごと来週水曜日だけ「A」になっている。行こ行こ。
 
 早速、西部地区の同行者は沼田経由で行く。南部地区の人を浦和駅で拾っていけば、現地の登山口で合流するのに、時間的に不都合はない。時刻を調べ、アクセスの案内を合わせて、先ほど送信した。ホントに「女心と秋の空」。目まぐるしく移り変わり、気が許せない。台風の進み方によっては、また一転するかもしれない。それを注視しておくことにしましたと書き添えて、「ご案内」を送った。
 
 やれやれ。もう女心に気遣うことはなくなった。せいぜいお天気に気を遣って、晴れた日に山へ行くくらいの贅沢を味わおうではないかと、思っている。もっともカミサンは、「前日に行って泊まって登ってくればいいのに」と、年寄りの登り方をにもっと念をいれよとアドバイスしてくれる。そうか、ならば下山してから泊まってくるのもいいかもしれない、とまた思案している。

逆かもしれない

2019-09-19 07:06:12 | 日記
 昨日、大沢在昌『帰去来』の読後感を、次のように締めくくった。
 
 《それとも、異なる次元に移動する前の「現代社会」が「田園」だというのであろうか。そうか、そうなのか、大沢在昌にとっては。いま、そう思いついた。》
 
 でも一晩おいて考えてみると、逆かもしれない。大沢在昌にとっては、混沌無法の新宿こそが「でんえん」であって、そこを争いながら仕切っていた二つのヤクザ勢力が官憲の取り締まりによって瓦解していくのを、「でんえん、まさにあれなんとす」とみていたのではないか。そうみると、いかにも大沢らしい構成である。ヒトの生きる姿の原初の形が、ヤクザ差配とはいえ官憲から自立していること。それのよって立つ基盤が暴力と欲望とをモメントとして構成されていることを、むしろ誇らしく思ってきたというのは、生きる根源に足をつけている。その根源を見失って、官憲に預けてのほほんと暮らす現代社会の人間はすでに死んだも同然の姿だぞと、心のどこかで感じている。その感懐を作品にしたら、こうなったというのかもしれない。
 
 そこまで寝ながら考えて、後者の方に、この作品の面白さをおいてみることにした。そうすると、なるほど「帰去来」というタイトルが異彩を放つように思えた。

置かれた「場」で人は変わるが

2019-09-18 19:28:46 | 日記
 
 大沢在昌『帰去来』(朝日新聞出版、2019年)を読む。タイトルを見て「かえりなん、いざ。でんえんまさにあれなんとす」を想いうかべて、大沢在昌もやっとそういう気分になる年になったかと思った。ちがった。
 
 次元の違う世界を対照させて、同じ人物の二つの顔をあぶりだし、その人としての「かんけい」の味わいをみせるというハードボイルドタッチのアクションもの。痛快かどうかは、どっちでもよいというあしらい方が、昔日の彼の作品と違うところ。ヒトを描く要素へ傾いている。
 
 次元を異にした「わたし」が、置かれた立場で気質まで変わる。いや、変わることができるかどうかを作品上で試しているという作家の筆致が、読ませた。混沌無法の新宿の情景は、さすが歴戦の大沢と思わせる筆運びだが、高度消費社会の現代では筆の走りも緩い。  
 
 現代社会への批判精神が薄いせいか、混沌無法の支配する世界への肩入れも希薄になっている。どこが「かえりなん、いざ。でんえん、まさにあれなんとす」の「でんえん」なのか、わからなかった。置かれた「場」で人が変わるという見たては面白いが、「場」のどこに「でんえん」を感じているかによってタイトルの「帰去来」が消え去ってしまう。
 
 それとも、異なる次元に移動する前の「現代社会」が「田園」だというのであろうか。そうか、そうなのか、大沢在昌にとっては。いまそう思いついた。