mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

言語以前と言語以後の端境(4)日本人の自然観とその変容

2019-05-03 21:06:32 | 日記
 
 昨日の「心覚えとして」記したことで、ひとつ思い浮かんだこと。民主主義社会における国民の分裂の典型が、韓国政府の、今の振る舞いではないか、と。徴用工の事件にせよ、慰安婦問題にせよ、前の政府が他の国と合意していたことを、こともなげに投げ捨てて、韓国民の苦しみと悲しみを理解しようとしない日本を非難するというのは、まさに韓国社会の分裂が極まっているからではないのか。つまり、政府が変われば、その政府の取り交わしていた「外交的な取り決め」は反故にして当然という振る舞いは、政権の継続性も正当性/正統性も、国民国家としてはもっていないことになる。まさにどのParty(部分)が政権をとったかということによって、揺れ動くポピュリズム・ゲームだ。
 
 そう考えている私は、しかし、なぜ日本人は政府が合意したことなんだから仕方がないと、唯々諾々と認めてしまうのか。つまり政府をわたしたち「日本人」を代表する権能をもちそれを実行していると、継続性と正当性において全面的に承認しているではないか。もちろんそれを、国民国家というのだと西欧の端緒をもつ近代的国家概念を私たちは学んできたからに相違ない。だが、韓国民は、あるいはアメリカ国民は、さらにはアラブ諸国の人々は国民国家概念を知らないのかというと、そうではあるまい。ひょっとすると彼らは、国民国家概念を突き抜けて、グローバル化時代の社会関係として世界の主権国家の動きを再構成しようとしているのかもしれない、と思った。フランス革命以後にかたちづくられた国民国家概念が、その後200年を経て変わりつつある。旧来の概念に引きずられているのは、わたしたち日本人。どうして? というときに、思い浮かぶのは島国・日本。海に守られて孤立していたことが、逆に地勢的な一体感を醸しだし、いつしか文化や言語における一体性として感知されるようになったのではないか。
 
 網野善彦にいわせれば、記紀神話にはじまる農耕民族という創作的共同幻想が、ついには列島の歴史家をも覆いつくし、民族的観念にまで昇華したということになろうか。とすると、ここ1200年程の間の列島統治の、身体性に及ぼした精華が、わたしたちの無意識にまで浸透し、民主主義的統治体制を支える身体性として作用している、と。ことばを変えると、わたしたちの身に着けてきた自然観が万物の一体性を組み込んでおり、それが究極における系統性と継続性と正当性を保障している。単に民族的、民俗的、文化的、言語的一体性というよりも、生きとし生けるものの一体性を組み込んだ自然観を育ててきたのだ。
 
 そういう意味で言えば、日本人のアイデンティティというよりも、人間のアイデンティティをわりと単純に受け入れる気質を備えており、さらに生命体の一体性にまでおよぶ感性を身につけてきているといえる。これがIT化の生産現場に作用したとき、欧米とちがって容易にロボット化を受け容れ、1980年代のジャパン・アズ・ナンバー・ワンを築いたことは、よく知られた事実だ。また、その後のIT化とグローバリズムの時代に適応しようと、自らの身体性を変えてくることにも抵抗を持っていないことも、認めなくてはならない。そのようにしてわたしたちは「自然に」身を作り替えてきているのである。
 
 一年前の5/3のこのブログ記事で、AIを取り上げて次のように述べている。
 
《AIが価値判断するときのモチベーションが「利得」というとき、それこそトランプさんの振舞いのように「わが利得ファースト」となると、「このAI」と「そのAI」との衝突が起こらないとも限らない。ただ、AIはなんとなく、汎用性を持っていると想定されているから、「(人間社会にとっての)倫理的な振る舞いにふさわしい利得」と枠をはめておかねばならない。でも今の国際情勢を見ていると、とうてい、そのようなことは望めそうもない。当分、人間社会の利害を反映した「断片的な利得」を求めるAIフラグマンの「確執」を何十年か経て、2045年を迎えるのかなと、思う。
 もうこの事態になれば、私らがどう考えるかなどは、ほとんど何の影響も与えない。ただただ、AIが自己進化していく過程で、アナログ的な(電子工学研究者からすると、取り除くべきノイズと考えられている)電磁的な漏出などを組み込んだ「謎」の回路を経験則的に、つまり試行錯誤的に取り入れて、「確執」を活かしていってもらいたいと願うばかりである。》
 
 わかっていただけるであろうか。分断された「国民観念」に代わって、AIの「汎用性」が、文句を言わせない社会インフラとして登場しつつある。そのときの「わが利得ファースト」なのか「公共の福祉ファースト」なのかという、AI進化のモチベーションの座に、何が座るかが争われるのであろうか。とすると、AIレベルにおけるイデオロギー論争が引き起こされるのであろうか。それとも、それさえもデータベースとして共有されて、なぜかわからないが何がしかの作用をすると思われる「ノイズ」を組み込むAI論理における「不条理」が横行するのであろうか。
 
 人の身体性をAIがどう読み込むのか。興味があると同時に、それをAI任せにしておいていいのかと、わたしの身体が異議申し立てをしているように感じている。
コメント