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明日を楽しく

釣り、カメラ、アマチュア無線、アウトドア、DIY、何でも思いっきり、明日の楽しさを求めて今日を生きる徒然日記

キーレス・エントリー・キーのメィンテナンス

2010-12-30 | その他

新しく買った古い車と言うと何となくゴロが悪いですが、エンジンキーがいわゆる「キーレス・エントリー・キー」ですが、ドアを開け閉めに何度も押さないと巧く行かないので少々腹が立って来ました。

最初は中古車だからこんな物かと割り切っていた筈ですが、1ヶ月も使って居ると「何とか成らないか」って気持ちに成ってくる物ですね。

それで、電池の点検を兼ねてカバーを外してみる事にしました。

小さな+ネジをトライバーで外すと簡単にカバーが外れました。中にはボタン電池とプリント基板が見えています。この辺は電子技術で飯を喰っていた私にとっては先刻想像の範囲内で、早速電池の点検をしました。電池は3Vあり、問題無しでした。

どうせバラシたんだから、更に分解して見ると、押しボタンスイッチの付近にゴミがこびり付いていました。

この写真は、いったん綿棒にアルコールを付けて拭き取った後の画像で、綺麗ですが、開けた直後は酷い物でした。

基板の下の方、左右に真ん中が丸いボッチの付いた物が開閉時に押す「押しボタンスイッチ」です。綿棒にアルコールを付けてごしごし擦って緑色の固着物をはぎ取りました。

ゴム蓋の裏側にも、同様に緑色の固着物が固まって付着していました。小さなマイナスドライバーの先で刮ぎ取って、アルコールで拭き取りました。画像の左側押しボタンの当たる部分には、まだ汚れが付着していますが、更に綺麗に取り去りました。

再組み立てのあと、車のドアの開閉テストは、勿論 バッチリ!! でした。これからは快適に乗れるでしょう。

気持ちの佳い正月が迎えられそうです。


さよなら パジェロ  32万キロにご苦労様

2010-11-28 | その他

我が家のパジェロは、平成3年3月末に、それまで乗っていたデリカスターワゴンに代わって私の脚になった。

それから足掛け18年、何時も私を遠い果てまで連れて行ってくれたのだが、寄る年波か、疲れ果ててしまった様なだ。

そろそろご苦労様してやらねばと思って居た矢先、燃料ポンプの故障が表面化したので思い切って選手交代を決断した。

走行距離数は、325,120 Km に達していた。  よく走った物だ!

最近は、ボンネットの上が塗装が剥げて、塗装屋さんのお世話にならねば等と考えて居たのだが、今年の春に車検を依頼した修理工場から「何とか通ったけど、次の車検は駄目だね」って引導を渡されてしまった。 排ガスが基準値に納まらなくなってしまったらしく、大幅な改修をせねば成らないとの事だった。

32万キロも、よくもよくも走ってくれたものだ。 エンジンは元気だし、まだまだ走れそうなんだが、充分に働いて貰ったのだから、そろそろ「ご苦労様でした」って言ってやる時期きと決心を固めたのだ。

パジェロに乗り始めた頃は、仕事の合間に、アウトドアや、釣りなどのレジャーに活躍していたが、リタイヤ後は、北海道から四国まで全国を飛び回る”私の脚”として、時にはホテルの役まで忠実に勤めてくれた。

 

 

1998年(平成10年)秋、リタイヤを機に家内を伴って仙台港からフェリーで苫小牧へ渡り、東回りで北海道一周の旅をした。

苫小牧でアマチュア無線の友人達4人に出迎えられ初対面を果たしてスタート、帯広の近く、音更町の友人宅に寄り、阿寒国立公園、釧路湿原、根室、野付半島、そして知床峠を経て網走へ

網走では、友人の案内で市内のアマチュア無線ののオールドタイマー宅を訪問し、美術館などを見て回り楽しみだのだが、おりしも台風が接近、サロマ湖畔の近くに住む友人宅に緊急避難で泊めて頂き、大変感謝した事も忘れられない。

 

オホーツク海沿いに北へ北へと向かい、遂に日本最北端「宗谷岬」に、そして稚内から日本海沿いに南下 右に日本海をみて一気に石狩、そして札幌を経て小樽から再び船で新潟へ、約10日間の旅だった。

 

1999年は、四国と山陰地方の旅をした。

最初の目的が日本アマチュア無線連盟の総会出席のため松山市へ、そして終了後にこの旅が始まった。

松山を出て四国の西端「佐多岬」へ、私の旅は出来る限り海岸沿いの小さな村や町を辿るのが常だ。

流石にこの辺りでは、本格的な活きのいいカツオのタタキが格別な想い出になった。

 

そして遂に四国の南端「足摺岬」へ、それから高知の桂浜で友人と会い、室戸岬や徳島へは次の機会に譲る事にして高知から一気に北上してこの年に開通したばかりの「しまなみ海道・来島海峡大橋」を渡って尾道から出雲へ

出雲大社をお参りして、いよいよ日本海沿いに宍道湖を見て島根から鳥取へ山陰海岸国立公園など海沿いの町や村を辿って東へ東へ

兵庫県へ入り、若い頃に読んだ「単独行」の主人公加藤文太郎の生まれ故郷「浜坂ってこんな所だったのだ」などと想ったり。

やがて京都府へはいって「天橋立」は、車を降りて歩いて散策、福井では若狭湾の静かな海辺でキャンプをした。

そして東尋坊を見て、この先は何度も来ているので一気に新潟を経て我が家へ、約一週間の旅だった。

 

2000年は、青森県大間からフェリで函館から洞爺湖へ、この年に噴火した有珠山などを見て、日本海に抜け、前回の北海道一周で残した道南部を旅した。

2001年は、私の人生で未だに未踏の地「和歌山県」の旅にでた。

この時も最初の目的地が日本アマチュア無線連盟「長良川総会」で岐阜に行き、その後に伊勢参りをして、鳥羽から海岸線を通る国道260号線を西に向かったのだが、この国道は凄い狭い道で、途中でダンプカーとすれ違うのに路肩に寄せたが急な杉林の路肩が崩れそうで何度か焦る場面が有ったが、やがて国道42号線に合流してからは快適な旅を続ける事が出来た。

 

私にとっては未踏の地だった和歌山県に入った訳で、真っ先に向かったのは本州最南端の「潮岬灯台」であった。

青空が素晴らしいかった。

「ここは串本、向かいは大島」とあること位は誰でも知っている民謡の一節だ、当然大島にも立ち寄った。

その後は那智大社、本宮大社をお参りして奈良へ向かった。この時何故か速玉大社が頭の中に無かったため、一つ忘れ物をしてしまったと気付いたのは和歌山から奈良に入ってからであった。

熊野川沿いに北上、途中十津川に掛かる大吊り橋を歩いて渡ったりして、途中に何も無い山越えで信楽へ着いた頃は真っ暗になってしまった。 幸い信楽に「教育キャンプ場」なる所が有ったので一晩ここでお世話になったが、何も無い山の中で、熊に注意の立て札があったり大変面白い経験をさせて頂いた。

信楽から琵琶湖畔までももうひと山越えねばならなかった。 信楽とはこんな山の中とは! そう言えば信楽へはローカル鉄道で結ばれていて、昔信号事故があった所だったなどとおもいだしたりしもした。

琵琶湖東岸を北上、普通なら国道8号線を敦賀に向かう訳だが、ここでも一つの目的が有って敢えて不便な国道355号線を選んだ。

可成り昔だが、此処の途中に「栃の木峠」が有って、そこから更に山道を1時間ほど歩いた場所に自分の設計で造った無停電電源装置をヘリコプターで運んで設置し、最初の試運転に訪れた事が有った。既にそれから可成りな年月を経ているのだが、もう一度栃の木峠を訪れて見たい気持ちが沸き上がっての選択だった。

峠は昔とは違って立派な立て看板が出来て居たし、道路も良くなって居たのでこの場所に立っても何処から山へ入ったか思い出せなかったが、懐かしい気持ちで満足して敦賀への下りを楽しんだ。

 

この後も、家内と共に乗鞍や飛騨高山、八ヶ岳、千曲川の源流から秩父への林道の旅、等々、パジェロにまつわる想い出は尽きない。

代わりの車と入れ替えに中古車屋さんに渡ったが、多分この老体だからその先は解体屋さんのお世話になるのだろう。

新車で買って足掛け18年、役目を終えた今は、唯々「ご苦労様」を言って送り出した。  「さようなら!」


のうぜんかづら

2010-07-20 | その他

我が家の庭に今年も暑い夏がやってきた

この花が咲くと夏本番だ!

ノウゼンカヅラ」夏の暑い日差しの中で、強烈に自己主張するが如く沢山の花を次から次へと咲かせて一夏を彩る、夏の主役だ


旬の肴

2010-07-19 | その他
私にとっては、懐かしい旬の肴なのだが、見る人には「何だこんなものっ」て言うものでご披露するほどのものでも無いかとも思う。



春に出回る新生姜、縦に裂け目を入れて、甘味噌を挟んで七輪の火で焼いたものだ。
戦後、物が無かった時代に、八百屋に新生姜が並ぶとお袋が親父の酒の肴に作って、おこぼれを貰ってかじった記憶が懐かしい。
家内に話しても聞き流されて何時にも食べた事が無く、遠い昔の想い出で終わって仕舞いそうだったが、何を思ったか突然目の前に出てきてビックリ、久しぶりに味わった懐かしい味だった。

昨夜のお客さん

2010-07-07 | その他
昨日、夕方の雨は並では無かった。
「もの凄い」って感じで、網戸一枚では雨音がうるさくてテレビの音声が全く聞こえなくて困った。閉めれば暑いし、開ければうるさいし・・・



庭に面した網戸に雨蛙くんが4匹もご訪問あられた。
画像には3匹だが、右横の戸の陰に1匹隠れていた。



あっちを向いたり、



こっちを向いたり、



様々な方向を向いてじっと中を伺っている?
いや、べつに中を伺っている訳で無いだろうが、実に淡々と、動くでもなし、しかし時々見ると微妙に位置が変わっていたり・・



今日、昼間になって庭の石塀の上にてお休みでした。
何を思っているのか、もしかしたら「今夜も行くよ!」なんて言ってんのかも・・・?

惜しかった

2010-06-30 | その他
日本のサッカーも大したもんだなぁ。
最後のPK戦は惜しかったが、夫れ迄の経過は素晴らしいとしか言い様が無い。
日本のサッカーが野球並みに世界に通用するレベルに為ったんだと、つくづく感じた。
選手諸君、ご苦労様!
ゆっくり疲れを癒し給え!

旧堀切邸   福島市飯坂

2010-06-13 | その他
福島市の飯坂温泉のど真ん中に、今年4月にオープンした「旧堀切邸」を見学した。

昔勤めた会社の退職者友の会が毎年温泉旅行をするが、今年は42名が福島市穴原温泉で楽しく過ごしたあと、帰路今年公開されたばかりの旧堀切邸を訪れた。



堀切家は、1578年に若狭の国(福井県)から飯坂に移り住んだが、近くの川が大雨の氾濫を堀を切って防いだ事に因んで性を「堀切」と名乗ったそうだ。

江戸時代には、大庄屋として財を成し地域に貢献したと伝えられている。

一族からは、堀切善兵衛(衆議院議員・駐イタリア大使)、堀切善治郎(東京市長・内務大臣、関東大震災復興に尽力)など傑出した人物を排出したと案内板に記されていた。



門内に入って真っ先に目に付いたのがこの大ケヤキだった。



主屋は、明治14年に建てられたとされ、今回の公開に先立って屋根周りや腰板など多く修復されたと思われる外観には新しい素材が見受けられたが、内部は明治期の近代和風建築の様子を彷彿させる落ち着いた趣が感じられる素晴らしい佇まいであった。



案内板に示された敷地内図の広さは昔の約1/2だそうだが、県内最古の現存土蔵など貴重な建造物が含まれている。



座敷



書などの謂われは説明書きがなかったので不明だが、飯坂温泉のど真ん中にこの様な立派なお屋敷が有ったとは驚きである。

須賀川の牡丹園     5月18日

2010-05-20 | その他
私の住む須賀川市には、昭和7年(1932年)に国の名勝に指定された牡丹園がある。

http://www.botan.or.jp/

地元に住むと、何時でも行けるのでシーズン中は遠くから来る方達で混雑するので滅多に園を訪れないのだが、花期も一段落した平日の18日午後、久しぶりにカメラを持って出掛けてみた。不思議なくらいすいて居た。

園内には友好都市の園を結んだ中国洛陽から贈られた貴重な花も有り、最近では色々と交配など盛んに行われて新しい品種も増えていたので多彩な姿、形、色の牡丹を楽しむ事ができた。



今年は季節の訪れが遅れているとはいえ、少し時期的には遅くなったのだが、結構素晴らしい牡丹を堪能することが出来た。



牡丹園の広さは東京ドームの3倍くらいの広さに約290種、7000株の牡丹が時を盛りと競って咲いていて、多くの観光客が訪れていた。
百年以上の古木は早咲きの物が多いのだが、今が見頃の花を選んで写して来たので此処にその一部を紹介しよう。



世に言う「牡丹色」代表的な牡丹の花だ。
100年以上経つ古木の花もこの系統の色が多い様に思う。



緋、赤、茜、あかにも色々ある。



日本画などに描かれる牡丹にはこの様な明るい花が多い様に思う。



見事な純白の牡丹も清楚な美しさを感じる。



これはまた、何と言う深い赤だろうか・・



色もさることながら、幾重にも重なる沢山の花びらが特徴の牡丹が多い中でこの様なサッパリした感じも捨て難い趣だ。



まるで、一見バラの花の様な・・・



新種の代表格なのだろうか、牡丹にあらざる牡丹?



素晴らしく明るい赤だ。この他にバラ色の様なピンクや、その他、多彩な色、形など紹介仕切れない

月と金星 大接近     5月16日

2010-05-16 | その他
今夜、7時半頃に庭に出てみたところ、月の少し上に明るい星が輝いてした。



慌ててカメラと三脚を引っ張り出して撮影した。
部屋に入って調べたら、金星が月に大接近の見出しのWEBを見つけて、偶然のチャンスに感激した。
手持ちの一番大きな三脚に乗せたのだが、シャッターを押した時のショックで手ぶれを生じた影響で星の画像がゆがんでしまった。リモートスイッチを使うべきだったのだが画像のぶれに気付いて再度の撮影に外に出た時には既に月は視界から消えてしまった後だった。

http://www.nao.ac.jp/hoshizora/topics.html

に月と金星が大接近する。16日が最接近の日だと出て居た。
今夜は偶然出会ったラーキーチャンスだったのだ。