Retriever Legend's blog

散歩好き、本好き、惰眠好き、犬大好きの彼(旦那)の戯言を僕が代弁します。

共・有時試論 その8

2011-09-08 06:49:16 | 異形の滓
3―3 労働について

人間として生まれてきた、その人間とは、また一人の自己として何なのでしょう。

10人、100人、1万人、1億人、10億人みな同じなのでしょうか。

類的存在として括る前に、一人ひとり異なる多様性を前提に、さらにその前に、そのように考える自分自身の赤裸々な深い思惟があって初めて入り口に立ちます。

労働過程は人と自然との物質代謝の一般的条件である、労働そのものに価値がある、労働は費用である、また、働くことは神聖である、働くことは喜びであるとか様々に言われます。

自分はこのような労働は、しないで済むならしたくありません。

労働者による体制(国家)は、プロレタリア革命から国家の死滅(共産主義)への過渡期のプロレタリアート独裁を意味しますが(ゴータ綱領批判)、ソ連では、あの方が社会主義(共産主義の低い段階)が実現したと変節させました。
バクーニンが国家死滅論は逆に国家の強化をもたらすと批判したことは別な意味で的を得ていたと言えます。



夜勤の工場勤めは、食事に有りつけて、更に賃金が良いことから飲料水とか氷菓とか自動車の工場でバイトをしたことがあります。
ベルトコンベアの傍らで商品の極一部を加工する自分に、工具そのものしかみることはできません。

資本による搾取が無くなろうと、福利厚生が充実していようと、人民のためであろうと、自分はこのような労働であってもしないで済むならしたくありません。

喜びの労働ごときは、洗脳そのものと考えます。