Retriever Legend's blog

散歩好き、本好き、惰眠好き、犬大好きの彼(旦那)の戯言を僕が代弁します。

深夜食堂

2009-11-26 06:40:15 | 未分類
以前取り上げました『深夜食堂』(安倍夜郎)がテレビドラマ化され、首都圏では10月初旬から放送されていました。

半ば諦めていたのですが、約1ヶ月遅れで11月12日深夜01:26から第一話が放映されました。

ドラマの舞台である「めしや」のマスターは、小林薫です。

寡黙なマスターと寡黙な客、事情ある客、意味ありげな客、そして賑やかな酔客とワンパターンの設定です。

小林薫の客への目線、台詞の間、暖簾の上げ方など、押さえ切った、枯れた味が渋い(痺れる)です。

第1回、第2回で「忠さん」役で不破万作が出ています。
状況劇場からは、「うまい」俳優がでています。

他の脇も効いており質の良いドラマとなっています。

ワンカット、ワンカットが絵になっており、ストリーは添え物の感がします。
新宿の場末の人情噺なのですが、雑念を解き放す時間となっています。

久し振りに、最終回まで見てしまいそうなドラマです。


「第一話 赤いウインナ-と卵焼き」より

今月の初め(11/03)にTBS「唐招提寺1200年の謎」が放送されました。
スキンヘッドの中村獅童の如宝役はいまいちでしたが、鑑真役の中村嘉葎雄の演技には、言葉を絶するものがありました。


ブルジョワ革命 その4/4

2009-11-24 06:43:01 | 未分類
ポスト唯物論

訳者(増田一夫)は、「唯物論」は脱構築の対象とはならないと書かれていますが、脱構築の対象とならないのは、「唯物論」ではなく「弁証法」ではと考えます。(再掲)

「物質」そのものの概念が極められつつある現在において、「唯物論」そのものは一度バラバラに解体する必要があります。

「クォーク」は「エネルギー」であり、「物質の存在」は「エネルギーの差異」と捉え直すことが可能です。

・ ・ ・ と、メモを書き上げてあるのですが、余りにも長文かつドクマを払拭しきれていません。(アップする前に再読してみて。)

主に「哲学事典」(平凡社1413P~)、「現代マルクス=レーニン主義事典」(社会思想社 下巻2159P~)、また、雑多に先哲の書籍を参照しましたが、オリジナルの思考と引用した思考の境界が曖昧と化したため、再び妄念のスープに戻しました。



今朝の散歩で。

冬枯れの にわかに飛び立つ 雉の声


ブルジョワ革命 その3/4

2009-11-23 08:34:30 | 未分類
ジャック・デリダ

ジャック・デリダの著作を漁っている訳でないため、「マルクスの亡霊たち」(ジャック・デリダ藤原書店)は、何時もの如く付箋紙だらけですが、まだ自分に落とし込めていません。

訳者(増田一夫)解説にある他者からの批判と期待に応えている旨記されていますが、その背景について無知のため、(考え方の)難解さに一層拍車がかかっています。

同書第2章においてフランシス・フクヤマとマルクス主義的言説空間との両方を批判しています。

以前メモしました「不可逆」、「可逆」と、捉えることもできます。

ジャック・デリダは、フランシス・フクヤマの論理は、巧妙な構造(左または右から批判されることを想定し、批判をかわす文章が必ず付けられている。)を持つと指摘しており、また、彼の言説を「福音書」と名づけています。
ジャック・デリダの指摘とは別に、フランシス・フクヤマの引用文を読んで、「戦争」の語彙は出てきませんが、資本主義は成長と行き詰まりを繰り返し、行き詰まりを打破するアイテムは「戦争」であり、「戦争」を肯定している論理と考えました。

また、ジャック・デリダはオルタナティブ・グローバリゼーションを具体的に描いていないと考えます。

訳者(増田一夫)の解説で「唯物論」は脱構築の対象とはならないと書かれていますが、脱構築の対象とならないのは、「唯物論」ではなく「弁証法」ではと考えます。

前掲同書の第5章において「ドイツ・イデオロギー」・「資本論」について書かれていますが、著者は経済には関心がなく(マルクス経済学)、読んで考えたところは、別に機会があればアップしたいと考えます。


「マルクスの亡霊たち」(ジャック・デリダ藤原書店)


ブルジョワ革命 その2/4

2009-11-22 08:55:06 | 未分類
的場昭弘

先日、雑誌コーナーの「朝日ジャーナル1989-2009」を見つけ、昔日の習性で買っていました。

同誌掲載の的場昭弘「資本主義の神話を撃つ──〈反革命〉としての地殻変動」読んでの雑感です。*

的場昭弘は、フランシス・フクヤマの言説をなぞっているだけです。
現在の資本主義の状況に対して、的場昭弘自らのオルタナティブ・グローバリゼーション提示することなく「資本主義は始まって以来の深い谷間へと進みつつある。これは資本主義の終りかもしれない。」(同誌45Pより)と締めくくっています。

ジャック・デリダ前掲同書147P「われわれがマルクス的伝統に依拠した問題提起と言っているのは、まさしく、その特徴となっているべきであり今後も特徴となるべきである開口と絶えざる変形とをともなった問題提起のことであり、正統マルクス主義の沈滞と装置の数々に結びつくマルクス主義の教義のことを言っているのではない。」で批判している典型の主義者と考えます。

例えば、南米を見ると、世界のグローバル資本主義化の反動で、反新自由主義の左派政権の誕生が相次いでおり、フランシス・フクヤマの言説は先進諸国中心の視点でしかなく、約200の地域・国家全てが先進国になるはずもありません。

このような座標からもフランシス・フクヤマの言説を批判できると考えます。

*的場昭弘の著書は未読です。Wikipediaによると新MEGAの日本編集委員会・歴史グループ代表とあります。


「朝日ジャーナル1989-2009」


ブルジョワ革命 その1/4

2009-11-21 08:56:07 | 未分類
フランシス・ヨシヒロ・フクヤマ

再び、当ブログの一番の読者である彼女から「更新は?」と言われました。
慌てて、妄念から摘み食いをして書きましたので、誤謬はご理解を。

社会主義国の崩壊に伴い、共産主義を否定する思潮が大きな流れになっています。

フランス革命は「ブルジョア革命」ではなく「人民の反乱」とし、弁証法的唯物史観を否定する動きが領域を広げています。(ヘーゲルを否定することによるマルクスを否定する構造)

また、1989年7月の仏アルシュ・サミットでは、東欧の民主化支援を打ち出す政治宣言が採択され、共産主義に対して資本主義が勝利した構図を描いています。

さらに、1992年にフランシス・フクヤマの「歴史の終わり」において民主主義・資本主義が最終的な勝利を収めることで社会制度の発展が終わり、人類発展としての歴史が「終わる」という仮説を提示し、ネオコン思想家として脚光を浴びました。*

つまり、フランス革命の自由、平等、博愛、民主主義の政治体制は、人類の最後の体制であり、これ以上発展(オルタナティブはない。)はしない、と。


この画像はアマゾンより引用しています。

*「歴史の終わり」訳者を見て、購入も読む気も失せたものです。このため、Wikipediaの「歴史の終わり」と「マルクスの亡霊たち」(ジャック・デリダ藤原書店)を参照しています。