Retriever Legend's blog

散歩好き、本好き、惰眠好き、犬大好きの彼(旦那)の戯言を僕が代弁します。

萎れた現代詩

2012-01-31 06:56:19 | 未分類
黒春の頃、何をトチ狂ったか近代詩、現代詩にのめり込んでいた時期がありました。
新刊、全集など買えないものですから、アンソロジーと文庫本の詩集をひたすら読み暮らしていました。

青臭いですから、読み考える糸口の感性には鼻持ちならぬ自信めいたものがありながら、次第に読まなくなりました。
読まなくなった理由は、現代詩自ら萎れてしまったためです。この情況は現在も続いています。

極端な書き方をしますと、現代詩のスキルで抒情すら伺えない感傷のレベルの文字の羅列には耐えられなくなったためです。
長年定期購読している詩誌も、よほどの特集でなければ目が素通りしてしまいます。


朝日新聞2012年1月24日夕刊に「現在の詩人を痛烈批判/同業の荒川洋治、著作で」という白石明彦署名記事が載っていました。

荒川洋治曰く

「今の詩人が熱心なのは、保守的な仲間づくり、自己満足と自己陶酔の朗読会、うわべだけの国際交流」
また、「文字言語を選び、闘ってきた詩にとって朗読は自殺行為だ。朗読を意識したら詩の言語が甘くなる。」と。

現代詩の朗読会なんて、悪寒しか覚えませんので興味はありませんので、荒川洋治に対する批判の言説を読みたいものです。

現代詩自ら萎れてしまった情況において、朗読のための詩は現代詩ではなく、パフォーマンスのひとつと考えています。

詩人とか自称詩人の方々に「銃弾が一瞬にして氷りつく一行を書けよ。」と。



円城塔「道化師の蝶」が芥川賞を受賞しました。道新、朝日、日経の書評等は好意的な書き方をしています。
ただ、難解だ、前衛的だと修辞され受賞作そのものの論評は皆無です。

「これは文字です2012.01.11」で、円城塔『これはペンです』について「書かれている事柄の次のフェーズもそうですが、その糸口についても書かれていませんので、過大な期待は肩透かしを食らいます」と書きましたが、受賞作に書かれているか興味はありますが、読もうかどうか迷っています。

円城塔自身、書けないことを自覚しているとも思えます。


書かれていない物語

2012-01-30 18:15:45 | 酔生夢死
いわゆる小説と言われる類に手を出したのは中学生になってからですが、高校時代から本とまじめに向かい始めたと思うところがあります。
集中的に読んだ著者もいれば、関心が薄れまったく手にしなくなった著者もいれば、思いだしたように読み続けている著者もいます。

思い出したように読み続けている(読み返している)著者の一人に、カール・マルクスがいます。
全著作を読む気は毛頭なく、関心領域にトゲとなるところに関する著作を読むという、主義者の嘲笑を得る為のような読み方です。

高校時代から断続的に読み続けているマルクスですが、当時からスポッと抜け落ちている、書かれていない領域が気になっています。
マルクス読みでないので断定などできませんが、プルードンに対峙していたことが原因の一つと密かに考えています。

書かれていない領域、大きな物語の足掛かりは、他の哲学者、思想家に垣間見ることができます。プルードンはその内の一人と考えています。
ただ、プルードンの著作はほとんど翻訳出版されていないことから、数冊の著作と断片的な又聞きのような知識しかありませんし、そもそもルイブラン批判の『経済的諸矛盾の体系』(いわゆる「貧困の哲学」)すら翻訳出版されていません。

数年前に購入し見もしていなかった「プルードン・セレクション」 (平凡社ライブラリー)が、崩れた本の間から出て来たのを機会に読み始めました。多分に生誕200年を意識して出版されたのでしょう。(彼女が文庫本整理をしていて出てきました。)

コミュニティを妄念する位相からは、政治的、社会的、実存的要素があり、マルクスは政治的スタンスに、プルードンは社会的スタンスに重心があると言えます。

読み終えていないので、マルクス「哲学の貧困」からの射程がどのような質なのか言及できませんが、マルクスはプルードンに対して論争(理論的な闘い)のためではなく、政治闘争をしたと言えます。1868年の国際労働者協会ブリュッセル大会でプルードン主義者は政治的に敗退しました。


「プルードン・セレクション」 (河野 健二編集 平凡社)

書かれている事柄(知識取得)と事柄の捉え方(思惟方法)とはまったくの別物で、書かれている事柄に心酔、傾倒、崇拝、夢中等にならなければ主義者にはなれません。(いわゆる「かぶれる」という奴)

自己肯定の視点は、非論理的あぶら汗に見舞われつづけ、主義者への素質十分ですが、自己否定の視点は、論理的苦渋に見舞われ続けますが、主義者とは無縁の位相を保持し続けます。

で、様々な哲学者、思想家の膨大な著作は、書かれている事柄ではなく事柄の捉え方(思惟方法)が重要なのであって、書かれている事柄は弁証法における(正反=相互媒介は自ずと合=止揚はしません。)正反が相互媒介となる触媒(契機)そのものです。

ヘーゲルの著作にはヤハウェを確認できますが,マルクスの著作にヤハウェを感じるときがあり、自分自身にそのような幻想があるのかもしれません。

様々な先哲の著作は、止揚が留まることなく永久機関たらしめる触媒のひとつと考えます。


同じ穴の狢

2012-01-28 08:24:39 | 東電 柏崎・福島原発の放射能漏れ
NHKの定時ニュース(「原発事故 国本部の議事録作成せず」2012.01.22 17:45 20:45等)で、NHKが政府に情報公開請求をしていた、原子力安全委員会等の議事録は、一切記録されておらず、専門家の「これは国民的な損失である」の発言と合わせ報道していました。

原子力災害対策本部は、総理大臣を本部長とし、経済産業大臣をはじめ全閣僚をメンバーとするもので、原発事故当日の去年3月11日に設けられ、避難区域や除染の基本方針、農作物の出荷制限など原発事故を巡る重要な決定を行ってきました。

事故直後に建物に目張りをし、兵士の家族は米国に避難させ基地職員の日本人たちには家族の分までヨウ素剤を配布していることが報道され奇異に(大袈裟に)思えましたが、放射性物質の拡散状況を予測する緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)による試算結果は、いち早く米軍に伝えられていました。(「拡散予測、米軍に提供 事故直後に文科省」2011.01.16共同)

不安を助長する情報を隠蔽することは、安心を蔓延させますが、市井人を危険にさらし続けており、あまりにも無責任です。
情報の隠蔽が堂々と話し合われている議事録など作れません、補佐している事務方はICレコーダを持ち込んでいて当然と考えますが、曖昧にするでしょう。

福島第1原発事故で放射性物質の断続的な大量放出が約1年続くとする「最悪シナリオ」を記した文書が、菅直人首相ら一握りの政権幹部に首相執務室で示された後、「なかったこと」として封印されました。
「公文書として扱われず」(2012.01.22 共同)より抜粋

原子力委員会の近藤駿介委員長が作成した昨年3月25日付の「福島第1原子力発電所の不測事態シナリオの素描」。水素爆発で1号機の原子炉格納容器が壊れ、放射線量が上昇して作業員全員が撤退したと想定。注水による冷却ができなくなった2号機、3号機の原子炉や1~4号機の使用済み燃料プールから放射性物質が放出され、強制移転区域は半径170キロ以上、希望者の移転を認める区域が東京都を含む半径250キロに及ぶ可能性があるとしている。

 政府高官の一人は「ものすごい内容だったので、文書はなかったことにした」と言明。別の政府関係者は「文書が示された際、文書の存在自体を秘匿する選択肢が論じられた」と語った。

民主党は政策集INDEX2009で『政策決定の過程も透明化』を掲げているのですがね。



2011.03.12NHKニュース(12時)で、奇妙な報道がありました。(YouTubeより文字起こし< >内 youtube.com/watch?v=H8r4K-xOjGQ)

<福島第一原子力発電所一号機では、原子炉を冷やす水の高さが下がり午前11時20分現在で、核燃料棒を束ねた燃料集合体が、水面の上最大で90センチほど露出する危険な状態になった>、の旨のあと8秒ぐらいの無音があり、別人の声で<ちょとね今の原稿使っちゃいけないんだって>と聞こえます。
その後、
<福島第一原子力発電所の1号機では原子炉が入った格納容器の圧力が高まっているため東京電力が容器内の空気を外部に放出する作業を始めました>とあたりさわりのない内容となりました。

NHKは如何にも調査報道でもあるかのように議事録のないことを得意そうに(そのように見えました)伝えていますが、所詮民主党もNHKはも同じ穴の狢です。

民主党もNHKも情報の隠蔽は、確信犯として行ったと言えます。


白色テロ

2012-01-27 06:14:48 | 未分類
ブログを初めて5年余りになりますが、PCの横にブログ用資料として用いた新聞、新聞の切り抜きがふた山ありました。

結果的に、彼女の白色テロにあったと思えるのですが、そのふた山を整理しました。
彼女に手伝ってもらいながら記事の切り抜きと区分けを完了しました。
(「資本主義の発展と革命と」2012.0106)

中から30冊近い書籍と3枚のCD-ROMを発掘しました。
その書籍をTV前の何百冊かの丘に連ねようとしたときに、彼女の視線が背後から。

思わず「二階にスペースをつくり、ここの本は整理するから。」と言ってしまいました。
彼女は「ここは後にしたら。」と視線が和室に向かいました。
和室にも場違いな書籍の山があります。

彼女の、無造作に進出してきている書籍の山に対して、一時的な感情ではなく長い間に醸成された気分が、無言の銃弾として飛んできたものであり、非言語の意思疎通(一方的な威圧≒白色テロ?)です。

対して、どのような言葉も自爆のなにものでもありません。



例えば、愛憎とされる感情は、血縁選択、性的対立、親子の対立等の要因によって変化してきたと言えますし、精神(一般認知能力)から距離のあるところで瞬間的に自律的に生起(一目ぼれ?)しますので・・・・

感情を表す言葉はたくさんあります。

例えば「うれしい」気分の自分は、さまざまな抱え込んだ事柄のその一つが、突然主張を始めたり、ざらざらした事柄が極小と化したり、思い描いたことの関係が顕わになったり、微妙につぶつぶと化したり等、果てがないかのように要因が多数あります。

ふたつ気になることがあります。(心理学の領域は門外漢ですので。)
同じことがあっても別な感情がわくことと、同じ感情(うれしい、かなしい、くるしい等)が他者と比較でないこと

感情を表す数十の言葉を見ますと、様々な期待(欲望)に対して叶った時とそうでない時に、喜怒哀楽、愛、慈しみ等が生起していると考えることが出来ます。

ただ、期待、欲望の語彙も感情を表す言葉ですが・・・・・



文庫、新書の類が錯乱しています。

以前は、壁と壁との間を長い書架として何段にも積み上げていましたが、下の方の文庫を抜き取ると次第に崩れ出し、現在は錯乱状態です。

彼女が著者別、内容別に整理に取り掛かってくれました。
彼女がひと言「古本屋の匂いがする。」と。


共・有時試論 補遺その14

2012-01-26 06:48:10 | 異形の滓
フェーズ( Phase) その1

日常生活の中では多くの物語が語られていますが、そのうちのひとつの物語が語られると、ほかの多くの物語は言葉を失います。

言葉を失いますので確認はできませんが、生活の中でもつれ(語られる物語の断裂)が現われることから、同時にめり込み続けていることが伺えます。

一つのことが語られる(思惟)ことは、多くの他の語られないこと(思惟)が生起します。
常に語られなかった事柄の果ては何なのかに好奇心があり続けます。
覗き見たいと常に考えていますが、夢想に絡め取られ続けます。

他の方には、意味不明、戯言、難解、寝言等であり、日々の生活にとって糠に釘の言説として溢れています。
当人にとっては、信仰にも似た(信仰そのもの?)位相として日常生活にあります。

問そのものが体をなさない、成り立たない領域が背後にあります。

例えば「□□□」について様々な考え方が表象されていますが、そのひとつを知り自分なりに落とし込むことは、自分のひとつの物語が紡ぎだされるだけのことです。
 「□□□」について用意されていた他の物語は、言葉が与えられないだけのことでありながら紡ぎ続けられます。

ですから、十人いますと十の物語が語られますが(十人十色)、たったひとつの思惟であることが分かります。「□□□」には、関心のある事柄の言葉、「愛、搾取、悲哀、生死、資本、労働、精神、階級、存在・・・・」を入れることが出来ますので。

これと異なって、十の物語を一つの物語とすることは、ファシズムでありまたは信仰です。



* * *

昨年の夏から書き続けてちょうど40回となりました。
あと何回分は書きあげているのですが、年も代わりましたことからちょっと中断します。

日常生活の中から、例えば喜怒哀楽の肉汁のような発語が必要なのですが、どんどん切り捨てているところがあり、自分ながら不本意を覚えています。

「共・有時試論 その26」でも書きました一行をメモして中断します。

在るは、問うても問わなくとも在る。

つづく