Retriever Legend's blog

散歩好き、本好き、惰眠好き、犬大好きの彼(旦那)の戯言を僕が代弁します。

小沢無罪

2012-04-27 09:20:23 | 未分類
マスコミについて

今朝の朝日に社会部長山中季広署名記事で「勝者なき無罪判決」がありましたが、「敗者」は「朝日新聞」です。
また、社会面で「検証 陸山会事件報道」が掲載されていますが、我田引水の居直りとしか読めません。

NHKの「ニュースウオッチ9」大越健介アナのコメントが知りたく、録画しておき先ほど見ましたが、邪推の数々の暴言に対しての説明は皆無で、「政治的責任、道義的責任」と他人事のような発言に終始し、視聴者に対する説明責任、および自らの「道義的責任」には発言はありませんでした。

テレビ各局の報道は「政局」に移りつつありますが、第三者による報道に係る検証が必要です。

検察審査会について

二回目の「起訴相当」の判断をした検察審査会は、実際に審議されたのか疑問があります。(結論ありきの持ち回りをしたのではと考えます。)
検察審査会は必要と考えていますが、その前提として議事録は作成し公開すべきです。

以前にも書きましたが、小沢自体は「黒」と考えており、巧妙に脱法行為を策していると考えています。
このことと、「有罪願望報道」をすることとはまったくの別物です。

右派と左派



「賃労働と資本」(マルクス 岩波文庫)

今朝録画を見た後、愛犬との散歩前に「賃労働と資本」(マルクス 岩波文庫)を読み出して、確か先月に「資本主義が嫌いな人のための経済学」(ジョセフ・ヒース NTT出版)を購入したことを思い出し、テレビ前の積読丘陵からやっと見つけ出して、そちらを先に読み出しました。

まだ、読み終えていませんが、経済学の右派と左派に対してなかなかの質を持っており、後日レビューをものにしたいと考えてしまいました。



「資本主義が嫌いな人のための経済学」(ジョセフ・ヒース NTT出版)


二羽の白鳥

2012-04-19 08:12:27 | 未分類
夜明けとともに起き出して、雑読と妄念と珈琲と煙草とのひととき。
やがて起きて来た愛犬とともに、朝靄の中の散歩。

白鳥の鳴き声に頭上を見上げると、二羽の白鳥が西に飛んでいきました。
明らかに迷っています、それとも北帰行からドロップアウトしたのかも。

昨日は、某大学の用事を済ませた後、紀伊国屋書店に直行しいつもの大量買いに興じ、彼女に頼まれた本は忘れないようにしました。



今朝はそのうちの一冊「般若心経」(中村元 東京書籍)を、サンスクリット(梵字)の訳と解釈から始まって、様々な訳に対しての考察が書かれています。

読み終えて、愛犬との朝靄の中の散歩。

自由、平等、互助に直結する概念は書かれていませんが、その基底そのものが書かれています。(考え尽くされています。)

また、フォイエルバッハの「キリスト教の本質」から止揚されたマルクスの「経済学・哲学草稿」に書かれている「類的存在」(人と人との関係における人間的本質)の人間的本質そのものが書かれています。(考え尽くされています。)

等々が頭の中を駆け巡りながらの、愛犬との朝靄の中の散歩。

さてと、これから彼女のお気に入りの家具が九州から届くとのこと、受け入れの整理をしなければ、その前に彼女との朝食の準備です。

(2012.04.19記)


カタバミ様へ

2012-04-17 21:23:44 | 未分類
コメントありがとうございます。
コメント欄に収まらないため、こちらに書きます。

哲学は、知、智、知恵とかを愛することと考えています。(知識ではありません。)
ヘルマン・ヘッセの「ナルチスとゴルトムント」(知と愛)も「知」と「愛」の友情の物語ですが、哲学のひとつのスタイルと考えます。

僕は、人は「ひとり」で生まれてきて「ひとり」で死んでいくと考えています。
その間に(とても長い時間それとも瞬く間のことなのか?)、様々な人々(両親、兄弟、クラスメート、知人、友人、同僚、、配偶者、子供等)と出会い別れ、そして喜び、悲しみ、悩み、希望、絶望等が生じては消えていきます。

また、貧困、殺戮、戦争、不平等、不自由、差別など社会(体制)の「ゆがみ」に組み込まれています。

これらの喜び、悲しみ、苦悩、怒り、希望、絶望等は、神様、仏様、霊などが与えた試練、褒美とは考えていません、無神論者です。

この例えの良し悪しは問わないでください。

ひとつの林檎「ふじ」を切り分けて何人かで食べたとします。ひとりは「ふじ」の中でも飛び切り美味しい、ひとりは果肉の歯触りは良いが果汁に奥行きがない、ひとりは「むつ」にはかなわない、ひとりは果物はイチゴ等千差万別です。

後日、同じ生産農家の「ふじ」を食べたときに、まったく別の感じ方をするときがあります、このことは人の奥行きが現れることで、困難な事柄が含まれています。

姿かたちは人間なのですが、その時の自分は他人と異なっていることに、以前の自分と、昨日の自分と、今の自分と異なっています。
そのような自分を「□□です。」と言うことができません。

様々な人々との係わり合い、社会(体制)の「ゆがみ」にまみれてしまっている自分を「□□です。」と言うことができません。
異なっている自分は「何か」、「何者なのか」について考えること、深く、深く考えることがその人の「哲学」です。

ですから、他の人が考える(考えてくれる)ことでもなく、社会(体制)の「ゆがみ」を正すことでもありません。

大学(院)の哲学担当教授の著作を読みますと、研究対象の哲学者の考えたことについてはとてつもない知識量を持っていることが分かりますが、教授自身は単なる研究者であり、哲学者でない場合がほとんどです。

初めに書きましたように、知、智、知恵とかを愛することであって、哲学書を読むことでも、精緻な言語で文章をひねり出すことでもありません。

考え方のルールはありません、難解な言葉を使う必要もありません、何を考えるのかも決まっていません、日々の生活(これは大切です)の中で、自分自身ふっと立ち止まる、ちょと疑問を持つ、ちょっとだけ褒めてみる等が哲学入門です。

ですから、カタバミさんの中に、既に哲学入門書、哲学書は書かれており、それを読む(考える、深く考える)だけのことと考えます。

蛇 足

政党等、宗教等の理念が実現すれば、人間として解放されると呪文のように言われますが、ひとりひとりの「個」が尊重されますと政党等、宗教等の組織は成り立ちませんので、本来の人間の実現とは間逆のカルト(洗脳)です。
ですから逆からのアプローチが不可欠となります。

取り急ぎメモしましたので、分かりづらい点はご容赦ください。


史上最強の哲学入門

2012-04-12 05:34:20 | 未分類
今日(昨日?)の朝刊(04/11)に著者飲茶のマガジン・マガジン刊の「史上最強の哲学入門」(以下、西哲編と略)、「史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち」(以下、東哲編と略)の広告が大きく掲載されており、雑務を終えてから買いに行き、ざーっと目を通しました。

簡単なメモをします。

読後感は、入門編の入門書といったところです。
2012.03.28にアップした「Let it be」にメモした「森の知」と「汝それなり」の俯瞰図(まだできていません)の、空白部分の一部を補遺することは出来ました。

「東哲編」において、「哲学」と「思想」とを定義していますが、「西哲編」において『デモクリスト』の原子論を取り上げ、『エピクロス』に引き継がれると、簡単に書かれており、『マルクス』にいたってはその思想が簡略化され、『マルクス』の哲学そのものは一切書かれていません。

せっかく『デモクリスト』と『エピクロス』とを取り上げているのですから、『マルクス』の弁証法、唯物論そのものを俯瞰できたと考えます。

古代ギリシャ哲学になると名前すら知らない人物が出てきます。


「史上最強の哲学入門」(飲茶のマガジン・マガジン)

「東哲編」は、インド哲学(悟り)、中国哲学(タオ)、日本哲学(禅)と展開して行きます。

締めくくりにあの「十牛図」が取り上げられています、仏陀でもあるまいに奇妙な縁を覚えました。

『龍樹』の約600巻の「般若経」を262文字にした「般若心経」は、丁寧に読まなければと思いました。

知人で、人生は「ラジオ」と「般若心経」があれば良いと語る方がいます。


「史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち」(飲茶のマガジン・マガジン)

(2012.04.12記)


弁証法では その2

2012-04-10 08:50:41 | 未分類
「ソ連史」

目を通した感想は、極力党派性を排除し、淡々と革命前夜から崩壊までを書いています。

日共の民主集中制(各国により異なります。)は、レーニンの考えとは異質でスターリンの考えに相似していると考えます。


「ソ連史」(松戸清裕 ちくま新書)

先月、年配の党員の方とそのような話しをしたところ、スターリンの名に生理的とも言える嫌悪を露にしました、内心近親憎悪と考えました。

それとマルクスの著作の話になりましたが、内容に係る話しになると、突然曖昧な言葉となり、内心ほとんど著作は読んでいないなと過ぎりました。

挙句に、不破の古典講読に参加しませんかとお誘いが、内心不破の読み方ではなくあなた自身がどのように読まれ考えられるのかが問われるのだと過ぎりましたが、丁寧にお断りしました。

マルクス主義は否定されようが崩壊しようが、その程度のことです。
ただ、マルクスは不滅とメモしておきます。

「弁証法では」

前に取り上げた「十牛図」の92P以降に、「自己ならざる自己」は「自己ならざる」と「自己」との弁証法をなすように見え、「自己ならざる自己」が過程的に成立するのではなく、直入現成する(絶対否定即絶対肯定=絶対肯定即絶対否定における「即」)旨が書かれています。

「人間」、「物質」、「現象」等を認識するときに、認識する視点は単一の視点ではなく、他の「もの、こと」を見る他の視点(ひとつとは限りません。)があります。

ふたつ以上の「もの、こと」は、相互媒介となり止揚し、その止揚がやがて相互媒介となり、続きますが、その止揚は論理的に予定されるのではなく、一人ひとりの「直入現成」と同質のものがあると考えます。(水素と酸素があれば、当然の如く水が生成するのではないように。)



中高年無業者の記念に頂いた胡蝶蘭です。

(2012.04.08 記)