Retriever Legend's blog

散歩好き、本好き、惰眠好き、犬大好きの彼(旦那)の戯言を僕が代弁します。

愛犬は完全復調

2009-07-27 06:16:20 | 未分類
今日(09.07.25)、狂犬病予防注射を打たない証明と心嚢水の確認のため、商い仲間から『ヤブ』だから行くべきでないと忠告をうけた動物病院に行ってきました。

担当獣医師は、愛犬の様子を見て驚いていました。
「ペルサンチン」の副作用と判断し、服用を止めてから症状が改善した旨話しました。
担当獣医師は、副作用と考えられるし、当病院では初めての症例です、と話していました。

彼女は、複雑な気持ちで僕と獣医師との会話を聞いていたようです。
僕の独断で「ペルサンチン」を止めたことから心嚢水が気になっていましたが,心嚢水はなく完全復調です。

愛犬は元気一杯に、病院の階段を2段,3段と飛んでました。
前回来院した時は、二人掛りで上り下りさせたことが、別次元のようです。



僕は元気になりました、ワオォーン!


資本の腐臭

2009-07-25 21:17:02 | 未分類
ちょっと一服 No.64

地方選惨敗続きで、都議選で御臨終の自民党、8月30日総選挙に動き出しました。

政権交代が行われても、立憲君主制の国家の枠組みが解体される訳ではなく,首相の写真が変わるぐらいの変化しか起きないでしょう。

以前にも書きましたが、政権交代の常態化がこの島国の民主主義の質を変貌させ、究極は民主主義の本質があらわになることを期待しています。

安東仁兵衛の問い「先生の政治的立場は一言で言えば何ですか?」に、丸山真男は、「民主主義の永久革命」と応じました。(96.11.18 ETV特集丸山眞男と戦後日本 未見のため孫引き)

「永久革命」とくれば「永続革命論」(トロッキー選集第5巻 現代思潮社)と、貧弱な発想に陥りますので、このメモは終わります。

今朝の朝日朝刊(09.07.25)の紙面から引用します。
経団連の軽井沢で開かれた「夏季フォーラム」の様子ですが、経済界首脳のご婦人方が写っています。
この写真には、ある種の「腐臭」が漂っています。



朝日新聞13版3面より(09.07.25)


詩は孤立している

2009-07-22 06:33:57 | 未分類
ちょっと一服

黒春の頃から飽きもせず購読している雑誌があります。
と言うより、本屋が律儀に届けてくれる所為なのかもしれませんが。
その雑誌「現代詩手帖」が、創刊50周年を迎えました。

何百冊かの「現代詩手帖」は、本置き場に平積み状態です。
先住猫は、本の天で爪とぎをしていましたし、今の愛猫は、崩れそうな場所なのに、仰向けで寝転がっています。
猫も好きな「現代詩手帖」なのかもしれません。

記念シンポジウムの様子が、講演した吉本隆明の写真入で朝日に掲載されていました。

『詩は今、孤立している 「現代詩手帖」創刊50周年シンポ』(09.07.08朝日)抜粋

北川透氏「ノイズに近い言葉で、果たして時間的空間的に遠くに届く言葉でありうるか、切実な問題」
「中原中也の詩は分かりにくさを超えて届く。孤立自体は恐れなくてもいい」

荒川洋治氏「私たちは99%が散文という中で暮らしている。60年代などと比べ、詩的言語が片隅に追いやられている」

松浦寿輝氏「世界は大きなテキストで、それを凝縮したものが詩だ」

吉本隆明氏「教科書を壁にして両親には勉強していると思わせ、詩を書いた。自分を納得させるために詩を書いた」。尊敬する高村光太郎や西行らの作品を模倣することで「詩の書き方を覚え込んだ」。でも、簡単には書けず、「毎日、机の前に座った。そのうちに脱出口が分かった気がして自分の詩を書くことができるようになっていった」という。


好きな詩人とかはいませんが、好きな詩作品とか詩集は数知れずあります。
現代詩の良い所(悪い所?)は、読み手に「思考」を強いますので、北川透氏の中原中也の詩評は、そのことを的確に話したと考えます。



後日、シンポジウムの採録が現代詩手帖に掲載されればと思います。


早足

2009-07-20 07:58:46 | 未分類
近所の公園まで、朝、昼、夜と三回散歩に行きます。
僕も彼女も、愛犬の体調に不安を持っており、また四十数Kgの愛犬を抱えて帰宅は無理なため、超ショートコースです。
ニオイ探索を終えると、乗馬で言うところの早足になります。

独特のリズムで、周りを見渡しながら、尾っぽもご機嫌に振れます。
僕には、身体が意思の通り自由に動けることを、楽しんでいるように見えます。

時々、僕を上目遣いで確認します。
「上目遣いは止めなさい。」と言うのですが効果はありません。
* 顔を僕に向けて確認するときと、目だけで確認するときがあります。



久々に、仲通から牧草畑の広がる農道に行きました。
尾っぽの振れ具合をみて、途中から引き返しましたが、従順です。
以前ですと、農道を一周するコースで、途中で帰るとなると、一歩も動かないものでしたが。


エピクロス

2009-07-19 09:36:03 | 読書ノート
僕は、マルクス読みではありません。
カール・マルクスの学位論文「デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学の差異」(マルクス・コレクション1より 中山元訳 筑摩書房)を読み、いくつかメモします。

久々に、残りページ数が気になった雑読でした。
僅か百数十ページの論文ですが,附箋紙だらけになりました。

通読して、デモクリトスとエピクロスの自然哲学を分析・考察し、マルクスの自然哲学として止揚しています。

また、「ほんとうの人間になるのは、たんに他の存在者と関係するときではない。人間は、たとえまだ精神になっていないとしても、みずから一人の個別的な人間である存在と関係するときに、はじめて人間になるのである。」(79P)と、また、エピクロスは「自然が自立的なものとなると、個別的な自意識はみずからのうちで反省し、自立的な形式という固有の姿において、自然に立ち向かう。」(138P)とし、「自己意識の絶対性と自由こそが、エピクロスの哲学の原理」(139P)であるが、「自意識は、その個別性の形式でしか捉えられていない」(139P)と批判しており、『類的存在』の基本的概念が洞察されています。

また、エピクロスの原子が直線から「逸れる」法則について、「この法則は、それが適用される領域ごとに、異なった規定性として姿をみせている。」(72P)と指摘しており、マルクスが以後に展開される思想のスタンスを示唆しています。
序において、「この論文は、わたしのもっと大きな著作の前書きのようなものと考えていただきたい。」(8P)と記されています。

また、「普遍性」についての洞察ですが・・・、このような質で思弁したいと重い知らされました。
切りが無いので、このメモは終わります。

この学位論文は、「デモクリトスとエピクロスの自然哲学は同じものであり、エピクロスの自然哲学は恣意的な思いつきで、デモクリトスの自然哲学を作り替えたものにすぎないという古くからの偏見があるからだ。」(19P)として、考察されていますが、僕は、マルクスがどのような思想を持って書かれているかに関心があって読んだものです。

確かに言えることは、唯物論と弁証法によって考察されていました。

最後に、中山元氏の訳は、附箋紙だらけの個所を僕的に妄念が増幅するに足る質があり、秀逸と考えます。


マルクス・コレクション1 筑摩書房