Retriever Legend's blog

散歩好き、本好き、惰眠好き、犬大好きの彼(旦那)の戯言を僕が代弁します。

福島原発事故

2011-09-27 00:35:50 | 東電 柏崎・福島原発の放射能漏れ
「福島の原発事故をめぐって」(山本義隆 みすず書房)と「福島原発でいま起きている本当のこと」(淺川凌 宝島社)を念頭に『死の町』(2011.09.13アップ)で『東電、政府と市井人との間には、「溝」、「ねじれ」があります。』と書きました。

リンクしています晴走雨読氏が取り上げており(「福島の原発事故をめぐって」2011-09-18付け)、自分なりの読後感をメモしてみます。

「福島の原発事故をめぐって」(山本義隆 みすず書房)は、国、政治屋、通産官僚、御用学者、東電、マスコミと市井人とはネジレていますが、その市井人ともネジレています。



同著の引っ掛かったフレーズを幾つかを『 』で抜き出します。

・『科学技術とは科学理論の生産実践への適用』  27P
・もんじゅのナトリウム漏洩事故の原因である『温度計のさや管の設計ミスに、町工場の職工さん自身が自身の経験から気づき』47P
・ベーコンの『職人や技術者による発明が理論的な指針にもとづかず「偶然でふとしたはずみによるもの」であったという目的意識や計画性の欠如を、その限界として指摘する。』67P
・核爆弾と原子炉は『完全に科学理論に領導された純粋な科学技術が生まれたことになる。』、『職人や技術者が経験主義的に身につけてきた人間のキャパシティの許容範囲の見際めを踏み越えたと思われる。』89P
・ 大地震、大津波、原発事故は『科学技術は万能という十九世紀の幻想を打ち砕いた。』『私たちは古来、人類が有していた自然に対する畏れの感覚をもう一度とりもどすべきであろう。』91P

「科学技術とは科学理論の生産実践への適用」と「自然に対する畏れ」とが断裂しています、また、科学技術が万能なんて机上の幻想に過ぎず市井人には戯言の類で打ち砕く以前のものです。

・先進国の資源、エネルギーの消費は許されるのではなく『根本的に新しい社会のあり方を見出すべ時がすでに来ていたと考えるべきである。』93P
・ この国は『脱原発社会、脱原爆社会を宣言し、そのモデルを世界に示すべきであろう。』94P

この二つのフレーズを書く立ち位置は思考停止そのものであることに気づかないのでしょうか、モデルのアウトラインくらいは提言すべきであり、単に著者の裡での科学、自然、文明、自己の思惟が停止しているだけです。

・「あとがき」に『あらためて考えた原子力発電に反対する理由です。』

ひと言、「あらためて考えた」にしてはお粗末すぎます。

「福島原発でいま起きている本当のこと」(淺川凌 宝島社)の読後感ですが、国、政治屋、通産官僚、御用学者、東電、マスコミと市井人とがネジレていることが如実に浮かびあがります。

同著に、東電のスタンスは市井人に福島原発事故への関心を無くすることであり、また、御用学者より信頼できるとしている小出裕章氏の「地下ダム」の見解は液状化する危険性があり、現場の常識を知らない学者の限界を指摘しています。



引っ掛かったフレーズをひとつだけ『 』で抜き出します。

・除染は、作業員、主任指導員の著者自身も『シャワー室で身体を洗い流した後、ヒゲや体毛の毛穴から入った放射性物質を流すため、硬いタワシでゴシゴシと血が出るまでこするのです。』52P

同著を読みますと「福島の原発事故をめぐって」(山本義隆)は机上の戯言であり思考停止そのものであることが鮮明になります。

好きなことを書きましたが、自分自身は「非原発、非原爆」であり、自分の生活の問題そのものと考えていますので、山本義隆の著書に「知識」を、淺川凌の著書に「知」を読みました。

生活が質ある「今」となるのは、「知識」ではなく「知」そのものです。

(2011.09.23記)