Retriever Legend's blog

散歩好き、本好き、惰眠好き、犬大好きの彼(旦那)の戯言を僕が代弁します。

お知らせ

2014-12-30 23:54:14 | 酔生夢死

当ブログの主である愛犬は、12月29日03時43分に永眠しました。享年15歳9ヶ月(斎場の方の話では、人間に例えると110歳から120歳とのこと。)でした。

獣医師から食欲が無くなったら覚悟して下さいと言われていましたが、食欲旺盛で食い意地の張った愛犬には、無縁のことと安易に考えていました。


愛犬の主食は、彼女手作りの湯がいた鳥胸肉と牛赤身で、おやつはササミジャーキー、メロンパン、シュークリーム等です。

26日の夕食時、肉を口元に触れさせても顔を背け、おやつ用にストックしてあったマグロ切り身を口元に、マグロは完食し一安心していました。


27日、28日(庭でのオシッコタイムに倒れ、数分気を失う。)は主食をまったく口にせず、細切れのパンとシュークリームを少々と水を僅かに口にするだけでした。

12月30日に、愛犬の大好きだったゴジラ(ぬいぐるみ)と共に、荼毘に付しました。


愛猫HALは、愛犬の異変に気付いたのか、冷たくなった愛犬から離れようとしませんでした。

 

愛犬により、哲学、思想の様々な概念、「存在(論)」、「類的(存在)」、「唯物(論)」、「形而上(学)」等々についてラディカルに更にラディカルにと、思索させられたところがありました。

愛犬との関係は、類を超えて、家族の本質である「対幻想」そのものと考えることが出来ます。

これらの僕と愛犬との関係性に気付いたのは、愛犬が10歳を越えた頃で、今思えばひとつひとつメモを取り続けていれば、Alternativeの視座の手掛かりに位置し、マーク・ローランズ(「哲学者とオオカミ」の著者)とは異質な人間存在のあり方に連なったのでは、と考えるところがあります。

今の僕には、その残滓しかありませんが、愛犬にひと言。

ありがとう!

 

 


愛犬大暴走

2014-08-18 10:23:41 | 酔生夢死

木田元氏が2014年8月16日亡くなられました。

ハイデッガー・フッサール・メルローポンティ等の現代西洋哲学の第一人者であり、哲学者そのものと考えています。
友人から「自分自身を考える糸口」となる本の紹介を依頼され、同氏の著作を一冊紹介したことがあります。
後日、友人から読後感とお礼の言葉がありました。

ご冥福をお祈りします。

 

愛犬は3月23日で15歳になり、老化が進んでいます。

3月某日 腹水が異様に溜まっており病院へ。5.5ℓ抜き体重が42kgから37kgに。心臓と利尿の薬処方される。

5月某日 腹部が張り出したため病院へ。身体への負担を考え腹水抜かず。ふらつく足腰のため炎症剤を注射。愛犬を見た獣医師は驚いた表情をしました、多分まだ生きていることに、だと思いました。

6月某日 自ら立ち上がることが出来ないときがあり、ハーネス代わりにバスタオルを腰に、常時巻くようになりました。利尿剤のため寝入るまでの間、頻繁に庭へ。

8月某日 ふらつく足腰なのですが、突然居間、庭で吼えながら疾走し続けること小一時間。多分に頭のネジが一本外れたのでしょう。その後、自ら立ち上がることがほとんど出来なくなりました。それまでは近くの公園へ散歩に行っていたのですが、以後、家の前をうろつく散歩を約30分くらい楽しんでいます。

8月某日 腹部が張り出したため病院へ行き腹水を抜きました。2.2ℓ抜き体重が33kgから31kgに。急激に痩せています、撫でると骨がリアルです。前回と同様に愛犬を見た獣医師は驚いた表情をしました。
獣医師が「食欲がある間は大丈夫です、食欲がなくなったら覚悟してください。」と。

ほとんど自ら立ち上がれませんが、手助けをして立ち上がると歩き回り、階段の上り下りをふらつきながらします。側溝を飛び越えようとして身体まるごと落ちたり、ちょっとした凸凹に躓いて腰砕けになったりしますが、散歩は大好きです。

そして、食欲だけは旺盛です。


書かれていない物語

2012-01-30 18:15:45 | 酔生夢死
いわゆる小説と言われる類に手を出したのは中学生になってからですが、高校時代から本とまじめに向かい始めたと思うところがあります。
集中的に読んだ著者もいれば、関心が薄れまったく手にしなくなった著者もいれば、思いだしたように読み続けている著者もいます。

思い出したように読み続けている(読み返している)著者の一人に、カール・マルクスがいます。
全著作を読む気は毛頭なく、関心領域にトゲとなるところに関する著作を読むという、主義者の嘲笑を得る為のような読み方です。

高校時代から断続的に読み続けているマルクスですが、当時からスポッと抜け落ちている、書かれていない領域が気になっています。
マルクス読みでないので断定などできませんが、プルードンに対峙していたことが原因の一つと密かに考えています。

書かれていない領域、大きな物語の足掛かりは、他の哲学者、思想家に垣間見ることができます。プルードンはその内の一人と考えています。
ただ、プルードンの著作はほとんど翻訳出版されていないことから、数冊の著作と断片的な又聞きのような知識しかありませんし、そもそもルイブラン批判の『経済的諸矛盾の体系』(いわゆる「貧困の哲学」)すら翻訳出版されていません。

数年前に購入し見もしていなかった「プルードン・セレクション」 (平凡社ライブラリー)が、崩れた本の間から出て来たのを機会に読み始めました。多分に生誕200年を意識して出版されたのでしょう。(彼女が文庫本整理をしていて出てきました。)

コミュニティを妄念する位相からは、政治的、社会的、実存的要素があり、マルクスは政治的スタンスに、プルードンは社会的スタンスに重心があると言えます。

読み終えていないので、マルクス「哲学の貧困」からの射程がどのような質なのか言及できませんが、マルクスはプルードンに対して論争(理論的な闘い)のためではなく、政治闘争をしたと言えます。1868年の国際労働者協会ブリュッセル大会でプルードン主義者は政治的に敗退しました。


「プルードン・セレクション」 (河野 健二編集 平凡社)

書かれている事柄(知識取得)と事柄の捉え方(思惟方法)とはまったくの別物で、書かれている事柄に心酔、傾倒、崇拝、夢中等にならなければ主義者にはなれません。(いわゆる「かぶれる」という奴)

自己肯定の視点は、非論理的あぶら汗に見舞われつづけ、主義者への素質十分ですが、自己否定の視点は、論理的苦渋に見舞われ続けますが、主義者とは無縁の位相を保持し続けます。

で、様々な哲学者、思想家の膨大な著作は、書かれている事柄ではなく事柄の捉え方(思惟方法)が重要なのであって、書かれている事柄は弁証法における(正反=相互媒介は自ずと合=止揚はしません。)正反が相互媒介となる触媒(契機)そのものです。

ヘーゲルの著作にはヤハウェを確認できますが,マルクスの著作にヤハウェを感じるときがあり、自分自身にそのような幻想があるのかもしれません。

様々な先哲の著作は、止揚が留まることなく永久機関たらしめる触媒のひとつと考えます。


資本主義の発展と革命と

2012-01-06 23:39:16 | 酔生夢死
はじめに

超大国の覇権によるグローバルな秩序の出現により、「労働を商品」とする人間の層から具現性(教条的な労働者の定義の限界)が剥ぎ取られたと考えていますので、視点の異なる概念の表出を妄念しています。

プロレタリアート

マルクスは、「プロレタリアート」は「労働貧民」と軽蔑的な言葉(資本論第七編第二四章第六節)で呼ばれ、ブルジョワジーとプロレタリアートとの階級対立はプロレタリア革命によりプロレタリアートが勝利すると予言(共産党宣言)しました。

また、受救貧民の社会層は、労働能力ある者 孤児および受救貧民の子供 零落者、ルンペン、労働無能力者(転業能力の無い人、高年齢の人、傷害者、病人、寡婦)の三つの部類からなる、とも。

敗戦後のこの島国の高度成長、失われた10年の人々の生活は、衣食住に困窮する人々が減少しました。被保護人員昭和26年204万人、平成7年88万人(福祉行政報告より)。

プレカリアート

新自由主義経済が蔓延る中、派遣、パート、契約社員、アルバイト、失業者、ニート、フリーター等の貧困層をprecario(不安定な)と Proletariato(プロレタリアート)からプレカリアート(不安定なプロレタリアート)と。被保護人員平成23年9月に207万人と増加しています。

労働組合について教条的に書きますと「労働組合は、前衛党の闘争を介して、生産現場において資本との日常的な闘いをとおして労働者を階級として団結させ革命主体として鍛える(訓育、啓蒙、教育)共産主義の、革命の、学校」と位置付けることができます。(自ら書いているのですが、不快感が生起します。)

が、生活保護の被保護人員増からは、労働組合は当該組合員の雇用と収入を守るためだけに資本に絡め取られていることが炙り出されています。

マルチチュード

「プロレタリアート」と「プレカリアート」に近似を見ることができますが、マキャベリが使い始めスピノザが用いた「マルチチュード(Multitude)」の概念が、アントニオ・ネグリ、マイケル・ハートの『帝国』(以文社)、『マルチチュード(上・下)』(日本放送出版協会)において現代に蘇りました。

「マルチチュード」は、「プロレタリアート」と「プレカリアート」と連なっていると見ることも可能ですが、「労働の商品」の概念が希薄で、「マルチチュード」=「多様な個の群れ」の概念でグロパールな資本主義に挑んでいると考えます。

前記しました二冊からは、多様性と差異性を無視した19世紀以降の社会主義(革命)とは異なった、ひとつの統合された勢力であるが多様性がありかつ同一性と差異性の矛盾を内包した存在、また、グローバルな世界秩序である帝国主義に対抗し、変革し得る存在等の旨が述べられていますが、イメージが鮮明にならず論理的説明が困難です。

アントニオ・ネグリ

前置きが長くなりましたが、朝日新聞1/4朝刊に「新しい民主主義へ」のタイトルでアントニオ・ネグリのインタビュー記事が一面に掲載されました。

記事の中で『「ノー」ということこそ、最初にすべき、論理的な行動です。』と語っています。

「ノー」の発語は、対象(資本、体制)を否定する、異議申し立ての意思表示ですが、同じように自分に対しても「ノー」と発語されますので、同一性と差異性の矛盾を内包せざるを得ません。

同記事(読み易いですが難解です。)を何度か読み返しましたが、イメージが鮮明にならず論理的説明が困難です。
取材者(刀祢館正明)は、ネグリは次の民主主義が見えてくるはずだが「私にはわからない」と言うが、この人には見えているのかもしれない、と思ったと記しています。

「プロレタリアートが勝利する」と同質の発語は避けているのかもしれません。


朝日新聞(2012.01.04 朝刊より)


*引用もとを明示したいのですが、探し出すのが難儀のためうろ覚えでメモしていますので誤謬はご容赦下さい。

*万冊を超えた頃から我が家は本の解放区となっていますが、彼女の白色テロにより独裁政権が樹立されそうな ・ ・ ・


小鳥の闖入

2011-08-02 07:50:18 | 酔生夢死
雑読に耽っていると、目の前を黒い影が横切りました。
もっと、もっと、考えなければ
先人たちの教えたことを、なぞっているだけではないのか
教えたことを消耗しているだけだ
開け放されたベランダから小鳥が闖入してきました。



そのうち出て行くだろうと、雑読に戻っていると、鳴き翼を激しくばたつかせ、嵌め殺し窓から外に出ようとして出られません。
さらに、さらに、考えなければ
先哲たちの考えたことを、なぞっているだけではないのか
考えたことを消耗しているだけだ
庭の物干し竿に、親鳥とおもわれる鳥が室内を伺っています。

両手で覆うように誘導して、殺気を感じたのか鳴き声が大きく翼を激しくばたつかせますが、促されてベランダから出て行きました。
ふかく、ふかく、考えなければ
同時代の人たちの生き様を、なぞっているだけではないのか
言葉を消耗しているだけだ
その間、親鳥は僕を凝視していました。



庭のイチイの枝に、仲良く止まっていました。
消耗されつくした、共同体、関係、体制、変革、労働 資本 革命、国家、存在、自由、前衛、主義、Alternative  Utopia等の言葉の数々
親子で何を話しているのやら。

小鳥が闖入し出て行くまでに、本をデジカメに持ち替えて、いつものありふれた事柄が過りました。
ベランダからの涼しげな風を覚えながら、雑読に戻りました。

ふかく、ふかく、考えなければ、ふかく

(2011.07.31 記)


商いに小一時間ほどの間ができたので紀伊国屋へ直行。
物色し1冊あったのですが、あまりにも分厚く書類入れバックに入らないため後日に。

INODAの2階カウンターで珈琲と雑読。
このカウンター席の窓からの風景はいただけませんが、店員の方々の物腰と言葉使いには好感がもてます。


INODAのHPより

この雑読の新書(「権威と権力」なだ いなだ 岩波)は、40年前に出された本ですが、言葉が自分の体温になる様が書かれています。

□□□の何ページには△△△と書かれており、◎◎◎は△△△を▲▲▲と解釈しており僕もそう考える、の類が溢れています。
これらの類は、言語ゲームでしかなく言葉を消耗している典型です。

この新書には、言葉の一つひとつが落としこまれ、その人の体温と化したところからの発語が書かれており、違和なく読めます。

「まとまりのない、調和のとれた社会」と、ある言葉の使用が避けられ表現されています。
時代がそうさせたのかもしれません。
読み終えて、紀伊国屋をあとにしました。

今日は商いを休み眼科です、そんなに酷使はしていないのですが。

追記(2011.08.02)