いくつかの事柄について、メモを取り続け、または妄念を解き放しています。
そのうち一つについて同じ概念が、資本論において簡単に触れられています。
その事柄の概念の背景となるマルクスの「考え方」は、長谷部文雄訳、向坂逸郎訳(先日頂いた大内兵衛訳は未確認)では、輪郭が明確となりません。
言い古された「否定の否定」の思索への契機との淡い期待?があります。
当然ですが「経済学批判序説」(「経済学批判」岩波文庫) においても簡単に触れられています。
結局は、マルクスの学位論文(「デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学の差異」 筑摩書房)に立ち返ることになります。
先月、10月に大月書店より「マルクス自身の手による資本論入門」が発刊されることを知り、書店に頼んでおきました。
その本が届きましたので、結果は学位論文のなかにあることはさて置いておき、これから格闘です。
マルクス読みでない自分自身との否定の絡み合いなのかもしれません。
ヨハン・モスト原著 カール・マルクス加筆・改定 大谷 禎之介訳
目を通したかぎりでは、マルクスは、「商品の物神的性格」については触れて(書かれていない)いません。
マルクス読みでない僕は、資本論における「商品」は、高次高階微分方程式における演算子Dの役回りであると思っています。(マルクス読みの方の顰蹙が ・ ・ ・ )
何故書かれていないのか等は、マルクス読みの方の領域です。
そのうち一つについて同じ概念が、資本論において簡単に触れられています。
その事柄の概念の背景となるマルクスの「考え方」は、長谷部文雄訳、向坂逸郎訳(先日頂いた大内兵衛訳は未確認)では、輪郭が明確となりません。
言い古された「否定の否定」の思索への契機との淡い期待?があります。
当然ですが「経済学批判序説」(「経済学批判」岩波文庫) においても簡単に触れられています。
結局は、マルクスの学位論文(「デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学の差異」 筑摩書房)に立ち返ることになります。
先月、10月に大月書店より「マルクス自身の手による資本論入門」が発刊されることを知り、書店に頼んでおきました。
その本が届きましたので、結果は学位論文のなかにあることはさて置いておき、これから格闘です。
マルクス読みでない自分自身との否定の絡み合いなのかもしれません。
ヨハン・モスト原著 カール・マルクス加筆・改定 大谷 禎之介訳
目を通したかぎりでは、マルクスは、「商品の物神的性格」については触れて(書かれていない)いません。
マルクス読みでない僕は、資本論における「商品」は、高次高階微分方程式における演算子Dの役回りであると思っています。(マルクス読みの方の顰蹙が ・ ・ ・ )
何故書かれていないのか等は、マルクス読みの方の領域です。