Retriever Legend's blog

散歩好き、本好き、惰眠好き、犬大好きの彼(旦那)の戯言を僕が代弁します。

炎は生である

2010-10-11 21:21:49 | 未分類
死は炎である

子の思い起こす父の事柄の数々
刻み込まれ続けた時の現在

母の妻としての想起される父の事柄の数々
撚り織り続けた時の現在

母の父へ繰り返される終の言葉

炎は生である



故に、暫くアップを休みます。


ワイ本

2010-10-08 07:13:21 | 未分類
ちょっと一服

書店で平積みされていた「イラスト・哲学「仮想ヴァーチャル」大討論会」 (鷲田小彌太 彩流社)を購入しました。
鷲田小彌太が何者かしりませんでしたが。

何も読みたくない、何も考えたくない時の時間潰しになりました。

購入した理由は、あるテーマについて様々な哲学者を討議させるスタイルが引っ掛かったためです。(やった者勝ち)
また、昔日、どこかの教授が「哲学」は哲学史を学ぶことなどと頓珍漢なことを読んだこともあり、古典の類は目を通し切れていないこともあり、負い目として購入したのかも。

質的には、おませな中学生用か無理に評価して高校の倫理用といったレベルです。

古今の哲学者20人のうち、日本の哲学者としてエントリーしているのは、廣松 渉です。
西田幾多郎、鈴木大拙、大森荘蔵、渡邊二郎ではなく、廣松渉に著者のスタンスがあるのでしょう。(海外での評価をみると西田幾多郎なのでしょうが。)

ニューアカデミズムと持て囃された浅田彰や中沢新一は頂けませんが、道元とか吉本隆明等でしたら、更に笑えたのですが。

いくつかのテーマで哲人が討議しています。
そのひとつ「理想の社会」では、プラトン、ルソー、ヒューム、スピザノ、カント、ヘーゲル、マルクス、エピクロス、ニーチェ、ストロースが討議しています。

その中で、マルクスに「経済水準も政治的成熟度も低いロシア・・・共産制の実験は歴史的制約の結果・・・ 」(同書107P)と語らせており、否定されたスタンスが書かれています。
ストロースの「野生の思考」が発刊され50年近くなりますが、その後の「マルクス主義批判」(マルクス批判ではありません。)の思想、哲学の営為が無視されています。

ストロースには、例の文明について語らせて終わっています。
多分に、この著者は現在の思考情況に、ついていけない時間停止した方と考えます。

次のテーマ-は、「私とは何者でしょう。」で「存在論」の討議が始まり、廣松渉が登場します。

次のテーマ-は、何も読みたくない、何も考えたくない時の時間潰しのために置いておきます。


デジカメとPCとは断裂のままなのでAmazonより

書かれている事柄に対して、著者の考え方と己の考え方との止揚(新たな考え方・見方)が得られれば最高なのですが、それ以前のお粗末な質でした。

内容の列記をメインとしてだらだらとメモしたら、書籍の概要は伝わるのでしょうが、あまりにも意味がありません。(内容の列記の類は、立ち読みで充分と考えます。)

購入の動機も不純ですが、はっきり言ってワイ本の類でした。



一週間de資本論 その3

2010-10-07 06:28:08 | 未分類
止揚するマルクス主義

先日、カタバミさんのコメントへのお礼にも書きましたが、現在語られている多くのマルクス主義は崩壊していますが、古代ギリシャ以来の先哲と同じく、マルクスの哲学は評価すべきと考えています。(マルクス自身は、哲学ではないと否定しています。)

第4回でジャック・アタリは「マルクスはマルクス主義者ではない」と語っていますが、正にそのとおりです。(このフレーズは、マルクス自らの言葉として、エンゲルスの手紙にも出てきます。)

マルクス主義者は「マルクス」を自由に読めなくさせていますし、自らも自由に読むことを放棄しています。
的場昭弘は、出版予定のジャック・アタリの「マルクス伝」PRのために、最初と最後にジャック・アタリを持ってきたのかと思いましたが、最後に「資本論は色々な視点で読むことができる。」と話していました。

彼は、マルクス主義否定とマルクス評価の思潮が大きなことを知っていますが、「資本主義以前の世界」、「資本論として問題としていない」の発言等から認識はしていないと言えます。

僕は、「止揚するマルクス主義」は評価しますが、そのためにはこれまでの生きざまの自己否定(≒全否定)が必然ですが、彼らは忌避します。
この程度の質の、同一性の担保の如き人間性の方々が、人間の解放を訴えるとは、あまりにも貧困なる知性(痴性?)です。

四回の放送を見て、第1回放送の内容とジャック・アタリの映像が収穫の「一週間de資本論」でした。



「似非前衛」の続き見たいな気分(気分です)でだらだら書いてきましたが、読み返してみると、既成左派にも、その残滓にもウイングが広がってしまいました。

書き終えたら、十数ページになってしまい記憶に頼った引用があまりにも多いため、出典確認が大儀のため端折り過ぎましたので、誤謬等は無視して下さい。


一週間de資本論 その2

2010-10-06 06:28:57 | 未分類
AssociationとAufheben

マルクスのAssociationに「新社会」の意味があると考えますが、的場昭弘はAssociationは搾取されない喜びの労働に満ちた社会が「ひと」のあるべき「人間的本質」の全てを実現すると考えているのでしょう。(つまり類的存在を実現すると。)

人間的本質に多様性・不均一性を認識するのではなく、多様性・不均一性に人間的本質を認識することが、人間の類的存在を獲得(取り戻す)することになります。

マルクス主義者の「社会主義は歴史の必然だ」とかの信仰はドグマそのものであり、根っこにある弁証法のAufheben(止揚)を忘れてしまった方々の妄言と言えます。

マルクスは「生産様式」から「相互様式」へのAssociationを夢想していたのかもしれません、僕は、以前触れましたように「共有様式」を妄念しています。

資本主義を分析(認識)すること、人間を分析(認識)すること、つまり自分自身を分析(認識)するところから思索(沈思黙考)しなければ、また、ソ連、東欧の再現になるだけのことです。

1989年のベルリンの壁崩壊、1991年ソ連崩壊等で失墜したのは「マルクス」ではなく、「マルクス主義」です。
マルクスの思想に対しては、これらの出来事とは関係なく、常に批判、評価が行われています。フランスでサルトルが批判されコケテからも、常にマルクス、マルクス主義への批判、評価の営為が続いています。



近年この島国では、マルクスが復権、脚光とか話題になっています。

大型書店の思想あるいは哲学の書架をご覧になると、「マルクスの復権」の程度がお分かりいただけます。(現象学、構造主義、ポスト構造に圧倒されています。)

「マルクスの復権」と無批判(無自覚)に述べることは、Aufheben(止揚)を言葉としてだけ知っている主義者であり反動そのものと考えます。


一週間de資本論 その1

2010-10-05 06:22:55 | 未分類
不生産的労働

ボーと時間が空いたので録り貯めしていた「一週間de資本論」(2CH 9月27日~30日午後10:25~10:50)をみました。
ジャク・アタリの言葉と資本論初版本の実物から始まりました。
第3回の途中で寝入ってしまいました。(後日見ることにします。)

3年前にキワ物風に出た「資本論 (まんがで読破)」、「 続資本論 (まんがで読破)」(イーストプレス刊)では、「資本論」の第1部の商品と貨幣、剰余価値、資本の蓄積過程等が描かれており、資本論の本質を外していないだけの漫画本ですが、同程度の内容でした。

僕自身は、経済については門外漢ですので、資本論の何が古典からの引用であり、何がマルクスの独自性ある思考なのか分かっておりません。
当然、資本論は目を通しただけ(精読していません。)のお粗末な状態です。

価値についても様々な論議がありますが、価値形態と価値実体とによる価値認識を避けた(廣松?)などの論考は別として、労働価値説、絶対的剰余価値、相対的剰余価値をさらりと説明しています。
また、「剰余価値」を「搾取」とさらりと説明していましたが、「搾取」そのものを定義することは難解(加減乗除の簡単な多元式で説明した書を読みましたが難解でした。)ゆえ、止む得ないのでしょう。

第1回は、的場昭弘とゲスト森永卓郎が価値について語っています。

ミニカー、フィギュアのコレクターである森永卓郎は、オタクが拘る「物」は生産者と消費者が直結しており資本の論理はない。
それに対して、的場昭弘は、なんの価値もないものに価値を見出すことは、資本主義以前の世界だ。

森永卓郎は、「物」には効用の価値があり(多分、近経の論理?)、コストを意識しない価値がある。
的場昭弘は、マルクスは乗馬、銃、ワインの趣味があり、この事については「資本論」では触れないこととした、と話し、特殊な商品は資本論として問題としていない。



僕たちの生活は、的場昭弘の言説から「資本による価値ある商品」(資本論が対象とする)と「価値のないモノ」(資本論が対象としない)で成り立っていると言い換えられますが、人として豊かさを醸成する多くは「価値のないモノ」によります。

また、同じ「価値のないモノ」である不生産的労働は、意識して見ますと日々の生活の中に一定の割合で行われていることに気付きます。