Retriever Legend's blog

散歩好き、本好き、惰眠好き、犬大好きの彼(旦那)の戯言を僕が代弁します。

共・有時試論 その1 

2011-09-01 18:23:05 | 異形の滓
はじめに

以前にも書きましたが、取りとめないことを砕けたメモで取り続けており、その中から、いくつかのテーマを抜き出します。

極私的背景が重要なのですが、長文になるので、また、このような場向けの推敲を経ていないため割愛します。
また、引用等の原典を再確認していないところが多々あり誤謬と出典引用の省略についてはご容赦願います。

タイトルの「共・有時」は、道元「有時の巻」、ハイデッカー「存在と時間」に絡み、普遍的な時はすなわち有(存在)として現成 (本質が立ち現われる)と共同体と個とを意図しています。

意図とは別に、逆説的なメタフアの首を切り落とすことは出来ていないことを、お断りしておきます。



1-1 弁証法について

紀元前の「問答法」から現代の「脱構築」の考え方の通底には弁証法があります。「弁証法」について書かれた書籍は多々ありますので詳細はそちらに。

弁証法の分かり易い例えとして、暗闇だけであっても光だけであっても物は見えない、二つがあって(正反=相互媒介)初めて、物が見える(合=止揚)と説明されます。

昔日、読み聞きした時は、「なるほど」と納得していましたが、「暗闇」「光」だけの世界はこの宇宙には存在しません。

宇宙空間は暗黒の世界といわれる場合がありますが、物質に満ちており人間の視覚が認識できないことだけのこと。

太陽は眩しいですが、光に満ちている訳ではなく中性子はなんなくすり抜けますし、隙間だらけです。ビックバン時には光しかないのかもしれませんが。

人間の五感をもとに、弁証法の説明が考えられていることが分かります。