中途半端で小刻みな記事が続きましたが、いよいよ土木遺産ランクAの
『逢坂山隧道東口』(鉄道記念物)です。
京都から国道1号線、逢坂山を越えて大津へ降りて行くと
左R161(敦賀・高島)、右R1(四日市・草津)の標識が見え、
その分岐点、R161側にあります。
旧逢坂山トンネルは、明治13(1880)年完成。大正10(1921)年、新逢坂山
トンネルができ、現在の路線になるまで使われていたものです。
現存する最古の鉄道トンネルで、日本人技術者だけで初めて造った
トンネルでもあります。全長664.8mのレンガ積トンネル、当時はノミや
ツルハシでの手掘りで約1年8ヶ月で竣工したと書かれていますね。
ポータル(坑口)は重厚な石積み、内部はレンガ積みです。
のちに複線化され、この右側に上り線用のトンネルが開通し、
こちらは下り線として使われました。
ここから入り、抜ければ京都だったのですね・・・
鉄道記念物としても貴重ですが、現在世界一とも言われている日本の
トンネル掘削技術、その最初の一歩はここからってことなんだね。
ん! 霜?塩を噴いてる?何だろうなこの結晶は・・・
使われていたのは40年間ほどですが、蒸気機関車の吐く煙、煤の跡かな
黒く残っていますね。特に京都~大津間には逢坂山峠越えの急勾配、
山科~大谷間5キロに及ぶ25パーミル(蒸気機関車の登坂能力のほぼ
限界とされている)を走るため、勾配区間用として輸入された
Cタンク1800型という車両が使われていたそうです。
つくづく明治のマンパワーは凄いですね、ちょんまげの時代から
わずか数十年で近代国家に。
このトンネルが開通した時の歓びが目に浮かぶようです。
きっと輝かしい未来が見えたのでしょうね・・・♪
「楽成頼功」と書かれた扁額があります。時の太政大臣・三条実美の
揮毫によるもので、人々の功に頼って落成したって意味でしょうが、
「落成」は「落盤」に通じる忌み言葉であるとして「楽成」の字を
あてたと言われています。楽に成し遂げた訳ではありません。(^_^ゞ
右はのちに複線化に伴い掘られた、上り線の隧道出口です。
扉が付けられ中には入れませんが、そもそもこの旧逢坂山隧道、
東口はこうして残りましたが、西口は名神高速道路の工事のため
埋められてしまっています。
わずかに内部の煉瓦が見えます。
石積みのポータル、過度な装飾が無い分、質実剛健とした重厚感が。
翼壁も城郭の石垣を連想させますね。
輝かしい将来の礎となったはずのこの隧道ですが・・・
太平洋戦争末期には、三菱の軍需工場がトンネル内に引っ越し、
京都の女学校の生徒たちが勤労動員されていたといいます。
格好の防空壕兼軍需工場に利用され、戦後は家を失った人々が
住み着いていた時期もあるそうです。
現在は「京大防災研究所付属地震予知研究センター逢坂山観測所」
として、トンネル入り口から約350メートル進んだ中央部に、岩盤の
ひずみを測る伸縮計や地下水位計が置かれているのだそうです。
夏草やつわものどもが夢のあと・・・冬ですが (^_^ゞ
苔生したこの遺構が見て来た歴史は、いかばかりのものだったのか
2016.1/6、旧逢坂山隧道東口にて。
『逢坂山隧道東口』(鉄道記念物)です。
京都から国道1号線、逢坂山を越えて大津へ降りて行くと
左R161(敦賀・高島)、右R1(四日市・草津)の標識が見え、
その分岐点、R161側にあります。
旧逢坂山トンネルは、明治13(1880)年完成。大正10(1921)年、新逢坂山
トンネルができ、現在の路線になるまで使われていたものです。
現存する最古の鉄道トンネルで、日本人技術者だけで初めて造った
トンネルでもあります。全長664.8mのレンガ積トンネル、当時はノミや
ツルハシでの手掘りで約1年8ヶ月で竣工したと書かれていますね。
ポータル(坑口)は重厚な石積み、内部はレンガ積みです。
のちに複線化され、この右側に上り線用のトンネルが開通し、
こちらは下り線として使われました。
ここから入り、抜ければ京都だったのですね・・・
鉄道記念物としても貴重ですが、現在世界一とも言われている日本の
トンネル掘削技術、その最初の一歩はここからってことなんだね。
ん! 霜?塩を噴いてる?何だろうなこの結晶は・・・
使われていたのは40年間ほどですが、蒸気機関車の吐く煙、煤の跡かな
黒く残っていますね。特に京都~大津間には逢坂山峠越えの急勾配、
山科~大谷間5キロに及ぶ25パーミル(蒸気機関車の登坂能力のほぼ
限界とされている)を走るため、勾配区間用として輸入された
Cタンク1800型という車両が使われていたそうです。
つくづく明治のマンパワーは凄いですね、ちょんまげの時代から
わずか数十年で近代国家に。
このトンネルが開通した時の歓びが目に浮かぶようです。
きっと輝かしい未来が見えたのでしょうね・・・♪
「楽成頼功」と書かれた扁額があります。時の太政大臣・三条実美の
揮毫によるもので、人々の功に頼って落成したって意味でしょうが、
「落成」は「落盤」に通じる忌み言葉であるとして「楽成」の字を
あてたと言われています。楽に成し遂げた訳ではありません。(^_^ゞ
右はのちに複線化に伴い掘られた、上り線の隧道出口です。
扉が付けられ中には入れませんが、そもそもこの旧逢坂山隧道、
東口はこうして残りましたが、西口は名神高速道路の工事のため
埋められてしまっています。
わずかに内部の煉瓦が見えます。
石積みのポータル、過度な装飾が無い分、質実剛健とした重厚感が。
翼壁も城郭の石垣を連想させますね。
輝かしい将来の礎となったはずのこの隧道ですが・・・
太平洋戦争末期には、三菱の軍需工場がトンネル内に引っ越し、
京都の女学校の生徒たちが勤労動員されていたといいます。
格好の防空壕兼軍需工場に利用され、戦後は家を失った人々が
住み着いていた時期もあるそうです。
現在は「京大防災研究所付属地震予知研究センター逢坂山観測所」
として、トンネル入り口から約350メートル進んだ中央部に、岩盤の
ひずみを測る伸縮計や地下水位計が置かれているのだそうです。
夏草やつわものどもが夢のあと・・・冬ですが (^_^ゞ
苔生したこの遺構が見て来た歴史は、いかばかりのものだったのか
2016.1/6、旧逢坂山隧道東口にて。
煉瓦ってどのぐらい保つものでしょうね。
じっと見て何人ぐらい顔が見えますか?
汚れとしか見えません。
坑口の横にはお地蔵さんが祀ってありましたけどね。
今の工法は、構造計算で
建っているので、案外こちらの方が
耐久性上だと思います。
現場の職人の、ここまでしとけば大丈夫の
工法ですので。
でも、こういうの見ると嬉しいですわ。
運搬も大変だったろうに。。。
車の無い時代に。。。
ええ、当時の携わった皆様に敬服です。
人海戦術でこれだけの仕事、凄いことだったでしょうね。
今は効率だ何だと言っていながら、小さなスタジアム造るのに4年掛かるとか・・・
京都が戦禍を免れたことが
不幸中の幸いですね。
日本の近代化、意外とザックリとしか知らないですよね。
身近な遺構を発見するのも楽しいです♪
実は京都も5度空襲されています。それ以降止めたのは、原爆投下予定地になったから・・・
知らなかったです。
歴史を美化しちゃいけませんねm(__)m
今や世界一ってすごい進歩。
名神高速の為とはいえ一部でも埋めたらいかんわなー土木遺産ランクA。
白い結晶・・・・是非、舐めてご確認を・・・
次の原爆投下候補地はまず京都で間違い無さそうです。
現にダミーの爆弾を積んだ爆撃機が練習のため京都上空を飛んでいます。
歴史遺産が多いから京都空爆を控えたというのは嘘っぱちかも知れませんね。
原爆の効果を確認するため空爆を控えたのでしょう・・・
逆に次の投下予定地が京都だったから無条件降伏したのかも?
いずれにしろ残酷で恐ろしいものです、戦争は!
名神高速の起工は山科なんですが、要は旧東海道線の堰堤再利用から始めたみたいです。
当時は土木遺産を避ける方法は考えなかったのでしょうね。