加太に来たのは、以前より友ヶ島に渡ってみたかったからですが、他にも訪ねてみたい所があったので、今回は断念。
友ヶ島ほど有名ではないけれど、この加太にも砲台跡があるので、探索してみました。
戦争遺跡である由良要塞は、明治期に瀬戸内海、大阪湾の防衛ラインとして紀伊半島と淡路島の間の紀淡海峡周辺に作られたものです。
淡路島の由良、友ヶ島(沖ノ島・虎島)、紀伊半島の加太(かだ)・深山(みやま)の3地区。後に鳴門要塞も加えて由良要塞とされています。
日露戦争の前ですから、バルチック艦隊対策?結局、太平洋戦争でも全く使われることなく、終戦と同時に米軍により撤去されました。
入口付近の無料駐車場は道沿いで数台停められるだけなので、ちょっと離れますが休暇村の駐車場に停めました。監視カメラがありますが、後で利用させてもらうってことでイイでしょう。(^_^ゞ
砲台跡の入り口が少し分かり難くかったのですが、結構整備された遊歩道が続いていて煉瓦敷きになっていたりして、ここで間違いないだろうと・・・
無事、砲台跡に辿り着いたようです。ここが深山第一砲台跡です。
もちろん砲は無く、回転台の跡らしいものから2門の砲台が防護壁に囲まれて置かれていたのかな。これが3セット、合計6門備えられていたようです。
2門づつ3ヵ所の砲台の間を隧道が繋いでいます。隧道の中には地下に降りて行くような階段も見えます。かなり良好な保存状態、煉瓦は全て英国積みで丁寧な仕事ぶりがうかがえます。これも実戦には使われなかったおかげかな、本土決戦なんて無くて良かった・・・
ここに備えられていた砲台は「28cmの榴弾砲。曲斜弾道で、艦船の甲板を射撃する大砲。着弾すると榴弾がはじけて飛び、広い範囲にダメージを与える。砲弾の落下速度の増加も考慮し、高い山頂や丘陵に設営された。」そうで、「平斜砲と違い、放物線を描いて砲弾が飛んでいくため、前面には胸しょうと呼ばれる低い防護壁がある。」ということです。
煉瓦積みの胸しょうを見ると、上の方に何だか謎の穴がある。1門につき1箇所、大きさ的には砲弾でも出てきそうなんだけど、地下の弾薬庫から運ばれここに出てくる・・・そんなことは無いかな?(^_^ゞ
胸しょうを登ると紀淡海峡が一望できる展望広場になっています。
加太と地の島の間が加太瀬戸、地の島と中ノ島の間を中ノ瀬戸、中ノ島と淡路島の間は由良瀬戸と呼ばれているとのこと。
「瀬戸」という言葉は、狭い門という意味の「狭門(せと)」の変化したものともいわれています。陸地と陸地の間に海が挟まれた海峡という意味です。と、解説されていました。
さて、弾薬庫を見てみましょう。
棲息掩蔽部(せいそくえんぺいぶ)って難しい言葉で呼ばれるものですが、ここも保存状態はイイですね。
100年越えの煉瓦建造物は、やはりそれなりに迫力がありますね。それも廃墟となれば自然の浸食とのせめぎ合いが迫力に拍車をかけているように思える。
地下に掘られた通路に煉瓦アーチの壁、異空間の佇まい。何か怪しげなものが棲んでいて、今にも現れそうな・・・
そんな光景の写真を撮る私が一番怪しげだったりして。(^_^ゞ
砲台を繋ぐ隧道内の横にも地下に降りる通路があり、弾薬庫らしき部屋がある。
部屋の中はかなり暗いのでストロボ無しでは撮れないかな。真ん中の入り口の6ヵ所に蝶番でもついていたような跡も見られる。
中の煉瓦壁はアーチ状の天井までしっくいが塗られていたのかな、さすがに剥げ落ちていたけれど構造自体はしっかりしていた。
それにしても文明開化、富国強兵の時代とはいえ、ほんの少し前まで城が戦場、要塞だったはず。ものすごいスピードで西欧列強の軍事技術を吸収、追いついたものです。明治期のパワーに改めて感心。何せロシア・バルチック艦隊を打ち破るほどの連合艦隊を持つまでになっていたのだもんね。
さて、遊歩道を戻り、『休暇村 紀州加太』に行ってみます。
広々した立派な施設です。じつは元々ここには深山第二砲台があったわけで。
一部、弾薬庫跡などが残されています。当時の規模は第一砲台とほぼ同じだったはずですが、残っているのはちょっとだけね。
弾薬庫も狭い気がするな、私なら天井に手が届いたかも。(^_^ゞ
ここからは加太湾、田倉崎も望めますね。ちょっとロビーラウンジで休憩♪
・・・駐車場も利用させてもらいましたからね。
んッ!砲弾炸裂ソフト?ここでゆっくりくつろぎましたが・・・あとで深山第三砲台跡ってのがあるのを知りました。
男良谷(おらだに)砲台と呼ばれ、かなり廃墟感のあるマニアックな場所だったようです。それだけに観光案内されてなかったのかな。
第一砲台跡から海辺に向かう方向で、海岸近くにあるのだとか、海岸には由良水雷隊遺跡も残っているそうで・・・残念、今度行くことがあれば真っ先に訪ねてみることにします。
2018.4/23、加太砲台跡・休暇村紀州加太にて。
友ヶ島ほど有名ではないけれど、この加太にも砲台跡があるので、探索してみました。
戦争遺跡である由良要塞は、明治期に瀬戸内海、大阪湾の防衛ラインとして紀伊半島と淡路島の間の紀淡海峡周辺に作られたものです。
淡路島の由良、友ヶ島(沖ノ島・虎島)、紀伊半島の加太(かだ)・深山(みやま)の3地区。後に鳴門要塞も加えて由良要塞とされています。
日露戦争の前ですから、バルチック艦隊対策?結局、太平洋戦争でも全く使われることなく、終戦と同時に米軍により撤去されました。
入口付近の無料駐車場は道沿いで数台停められるだけなので、ちょっと離れますが休暇村の駐車場に停めました。監視カメラがありますが、後で利用させてもらうってことでイイでしょう。(^_^ゞ
砲台跡の入り口が少し分かり難くかったのですが、結構整備された遊歩道が続いていて煉瓦敷きになっていたりして、ここで間違いないだろうと・・・
無事、砲台跡に辿り着いたようです。ここが深山第一砲台跡です。
もちろん砲は無く、回転台の跡らしいものから2門の砲台が防護壁に囲まれて置かれていたのかな。これが3セット、合計6門備えられていたようです。
2門づつ3ヵ所の砲台の間を隧道が繋いでいます。隧道の中には地下に降りて行くような階段も見えます。かなり良好な保存状態、煉瓦は全て英国積みで丁寧な仕事ぶりがうかがえます。これも実戦には使われなかったおかげかな、本土決戦なんて無くて良かった・・・
ここに備えられていた砲台は「28cmの榴弾砲。曲斜弾道で、艦船の甲板を射撃する大砲。着弾すると榴弾がはじけて飛び、広い範囲にダメージを与える。砲弾の落下速度の増加も考慮し、高い山頂や丘陵に設営された。」そうで、「平斜砲と違い、放物線を描いて砲弾が飛んでいくため、前面には胸しょうと呼ばれる低い防護壁がある。」ということです。
煉瓦積みの胸しょうを見ると、上の方に何だか謎の穴がある。1門につき1箇所、大きさ的には砲弾でも出てきそうなんだけど、地下の弾薬庫から運ばれここに出てくる・・・そんなことは無いかな?(^_^ゞ
胸しょうを登ると紀淡海峡が一望できる展望広場になっています。
加太と地の島の間が加太瀬戸、地の島と中ノ島の間を中ノ瀬戸、中ノ島と淡路島の間は由良瀬戸と呼ばれているとのこと。
「瀬戸」という言葉は、狭い門という意味の「狭門(せと)」の変化したものともいわれています。陸地と陸地の間に海が挟まれた海峡という意味です。と、解説されていました。
さて、弾薬庫を見てみましょう。
棲息掩蔽部(せいそくえんぺいぶ)って難しい言葉で呼ばれるものですが、ここも保存状態はイイですね。
100年越えの煉瓦建造物は、やはりそれなりに迫力がありますね。それも廃墟となれば自然の浸食とのせめぎ合いが迫力に拍車をかけているように思える。
地下に掘られた通路に煉瓦アーチの壁、異空間の佇まい。何か怪しげなものが棲んでいて、今にも現れそうな・・・
そんな光景の写真を撮る私が一番怪しげだったりして。(^_^ゞ
砲台を繋ぐ隧道内の横にも地下に降りる通路があり、弾薬庫らしき部屋がある。
部屋の中はかなり暗いのでストロボ無しでは撮れないかな。真ん中の入り口の6ヵ所に蝶番でもついていたような跡も見られる。
中の煉瓦壁はアーチ状の天井までしっくいが塗られていたのかな、さすがに剥げ落ちていたけれど構造自体はしっかりしていた。
それにしても文明開化、富国強兵の時代とはいえ、ほんの少し前まで城が戦場、要塞だったはず。ものすごいスピードで西欧列強の軍事技術を吸収、追いついたものです。明治期のパワーに改めて感心。何せロシア・バルチック艦隊を打ち破るほどの連合艦隊を持つまでになっていたのだもんね。
さて、遊歩道を戻り、『休暇村 紀州加太』に行ってみます。
広々した立派な施設です。じつは元々ここには深山第二砲台があったわけで。
一部、弾薬庫跡などが残されています。当時の規模は第一砲台とほぼ同じだったはずですが、残っているのはちょっとだけね。
弾薬庫も狭い気がするな、私なら天井に手が届いたかも。(^_^ゞ
ここからは加太湾、田倉崎も望めますね。ちょっとロビーラウンジで休憩♪
・・・駐車場も利用させてもらいましたからね。
んッ!砲弾炸裂ソフト?ここでゆっくりくつろぎましたが・・・あとで深山第三砲台跡ってのがあるのを知りました。
男良谷(おらだに)砲台と呼ばれ、かなり廃墟感のあるマニアックな場所だったようです。それだけに観光案内されてなかったのかな。
第一砲台跡から海辺に向かう方向で、海岸近くにあるのだとか、海岸には由良水雷隊遺跡も残っているそうで・・・残念、今度行くことがあれば真っ先に訪ねてみることにします。
2018.4/23、加太砲台跡・休暇村紀州加太にて。
煉瓦造りって迫力がありますね。
山奥に突然こういう建築物は不思議な気持ちにさせますね。一人ならちょっと怖いかも。
重厚で美しいけれど、長持ちするからこういう廃墟のイメージもありますね。
地元出身の連中は遠足などで行ったみたいですけれど。
「瀬戸」が「狭門(せと)」とは知りませんでした。
でも和歌山側も九州側もそんな感じですね。
そして瀬戸内海の名前にも納得です。
瀬戸内海の領域定義もいろいろで、今はかなり広い範囲になっているようですね。
友ヶ島に遠足って、楽しかったのかな・・・
若かりし頃夜な夜な大川峠へ走りに行っていました。
で、加太まで行って帰るってパターン。
トンネル出来ちゃって峠は走れなくなりましたけど。
流石、休暇村。
良い場所にあるわ。
通行止めにしているのはライダー締め出し?
休暇村に泊まりたかったのですが、予約がとれませんでした。
見逃したところもあるし、リベンジしたいな。
友が島へはまだ渡っていません。
戦争の傷跡を見ることは大切だと思います。
当時の軍部の判断を簡単に否定できないのも
受け入れないといけないと思っています。
今度加太に行かれたら、砲台跡も見に行ってください。マムシに気をつけて。(^_^ゞ
太平洋戦争の時はもう意味をなさなかったと思われます。
だから空襲もされずこうして残ったのかもです。
ま、多少のことでも感動すれば人生楽しいものです。