カッパのロードスター

幌を開ければFeelin`good。カッパーレッドの
路渡☆くんとの楽しいドライブ日誌。

いざ!八幡山へ。

2010-04-26 23:09:51 | ふぉとスケッチ
近江八幡の市街を見ると、ほぼ碁盤の目状態、明らかに造られた町。
それもそのはず、1585年、羽柴秀次が築城した八幡山城の城下町。

今は城跡として残ってるだけの八幡山城跡ですが、
ロープウェーまであるとなれば行かずにおれない・・・









このロープウェー、往復800円、片道460円だったかな、わずか4分。
ミジカッ! 標高約272mの八幡山山上へと運んでくれます。




着いたら城跡をぐるりと巡る周遊歩道をえっちらおっちら昇り降り。

まずは「村雲 お願い地蔵尊」へと







自由に入れますが、夥しい地蔵像とお子ちゃまの玩具や食べ物、
帽子なども置かれていて ちと・・・

山道を進んでいくと



西の丸跡や



北の丸跡は展望場になってました。


正面の低い小山には安土城跡が・・・

さて、少し歴史を追ってみましょう。
安土城はご存知、織田信長の城。その信長が討たれた後、天下人を目指した
羽柴(豊臣)秀吉、その甥である秀次は戦功報酬として43万石を与えられ
この地に城を築き城下町を造ります。秀次は当時18歳!
築城の際は安土城の部材も使われ、そのため安土城は廃城。
秀吉の嫡男、鶴松が死去すると、秀吉の後継者として養子に迎えられ
関白職を継ぐことになる。しかし、秀吉に、側室茶々(淀殿)との間に
秀頼が生まれると、秀次は謀反の疑いをかけられ高野山に追放され、
切腹を命じられる(享年28歳)。その際、家族(遺児4男1女含む)や
側室、侍女らに至る39名が京都三条河原で処刑され、切腹にもかかわらず
秀次の首は晒されることとなる。この秀次事件を語ると長くなるので・・・
ちなみに非運の人生のようですが、風説によると
相当破廉恥なヤツだったようで>秀次。

そんな訳で主を無くした八幡山城は廃城となったと、カンタンに説明される。
が、細かく言うと事件の5年前に秀次は尾張清洲城に移り、その後
京極高次が城主となり、秀次切腹の年に大津城に移ったため八幡山城は廃城。

それより、この城下町、近江商人発祥の地とされているのだが、これも
城下町造成の際、安土の城下を引っ越し移設されたものと云われ、
信長の楽市楽座の影響も軽んじられないと思うのですが・・・

なんて、うだうだ思いを馳せながら



登り着いた先には



瑞龍寺門跡 村雲御所がある。



ここからは下り、ロープウェー駅近くの「二の丸跡 展望館」へと。






展望館の2階は資料室にもなっています。









さ、また町へもどろ~!




2010.4/11、八幡山城跡にて。