カッパのロードスター

幌を開ければFeelin`good。カッパーレッドの
路渡☆くんとの楽しいドライブ日誌。

古くて新しい古川町

2016-03-05 23:29:42 | 京都徘徊記
古川町通は東大路通の東にある南北の通り、北は仁王門通から三条通を
跨いで南は華頂通の手前までの短い通りです。
京都の人なら古川町と言えば、三条通より南の古川町商店街のことに
なります。この商店街は東の錦市場と呼ばれていたこともありますから。

〈白川橋〉


三条通に架かっている橋です。下を流れるのは白川。
この白川は比叡山を源に東山沿いに流れて来て、動物園のところで
琵琶湖疎水に少しの間合流、国立近代美術館のところから疎水と分かれ
有名な巽橋(たつみばし)など祇園を通って鴨川に注ぐ河川です。

橋の横にたつ石の道標は、京都における現存最古の道標で
「是よりひだり ちおんゐん ぎおん きよ水みち」と彫られています。




さてこの橋より少し西、地下鉄東山三条駅への入り口の隣りから



『古川町商店街』のアーケード街が始まります。



商店街として発足したのが昭和25年、昭和38年には簡易アーケードが
設けられたといいますから、結構古いですね。



暮らしの店、よろず屋さん。今で言えばホムセン?



私の子供の頃は、この狭い通路に人がびっしり、賑わっていましたが・・・



今的にはアパレルショップ、ドラッグストアでしょうかね。(^_^ゞ




このお店でランチが食べたかったのですが、時間が遅くてお昼の営業が
終わっていました。仕方ないので夕方の営業時間までぶらぶらすることに。



洋食とおばんざいの店、各種定食・コーヒー。ちょっと面白い♪
鯖の焼いたん、大根と厚揚げの炊いたん。エスプレッソコーヒー付・・・
時間をつぶし、夕方再訪したのですが何と「本日貸切のため」だって!
むむむ、ガックシでした。(^_^ゞ
そんな様子を見てか、店からおかみさんが飛び出し「ごめん!」って
ん、また出直すかな・・・




消えゆく商店街が多い中、頑張ってるほうじゃないかな。



あちゃ、ボロニヤが名前通りボロ家に? 
このお店、近くに移転して新しいお店になっていました。




アーケードが途切れて、ここが商店街の南の端。白川端に出ます。




ここでもリノベーションされた京町家をよく見ましたが、
特に空き家になった町家を改装してゲストハウスになっているのが
目につきました。商店街の中だけでもこんなに・・・



『桜香楽(SAKARA)』



『沖のまちやど』



『はる家』

『小町家』

確かにここなら北は平安神宮、岡崎公園。南は八坂神社、円山公園。
東は知恩院、南禅寺。西は鴨川、河原町三条・四条と徒歩で行ける。
外国人観光客をターゲットにしているのでしょうが、日本の観光客でも
ドミトリー(相部屋)から一棟貸しまであり、旅の楽しみが増えそうです。
京町家の風情をたっぷり味わえるようになっているようですし♪



2016.1/16、古川町商店街にて。

正面外して文子さんとご対面。

2016-03-03 18:37:26 | 京都徘徊記
家康によって寸断された正面通、うろうろし難い通りです。
東本願寺とその飛び地境内・渉成園(しょうせいえん)があるので
どうしても回り込まなくては・・・

東本願寺と渉成園の間には、わずかですが正面通が通っています。
この間は中珠数屋町通とも呼ばれています。


〈平安法衣店〉
御影門前の噴水から烏丸通(ここでは不明門通(あけずどおり)が
合流しています)を渡って正面通(中数珠屋通)に入る角にあります。

ここもしばらくは仏具店が並んでいるので、看板ウォッチングを・・・

〈法藏館〉仏教関係の書店です。創業は1602年、東本願寺創建と同時。

〈薫玉堂〉創業1594年と古いですが、ここの店舗はもう営業されて
いないようで、看板だけ大事に残されている感じ。
今は西本願寺前に新しい店舗があります。


〈寺嶋念珠老舗〉ここも創業400年を軽く越え、17代続いているとか。

正面通、烏丸通から一筋(東洞院通)過ぎれば、間之町通(あいのまち
どおり)、渉成園に突き当たります。
渉成園、庭が美しく桜の季節もおすすめです。
以前は隠れスポットでしたが今はどうなんだろ・・・?



ここで正面通は途切れるのでUターン、今度は北の上数珠屋町通へ
回って西本願寺の駐車場まで戻ることにします。

〈佛願寺〉

〈光久寺?〉

間之町通(あいのまちどおり)、上珠数屋町を少し北に上がると・・・


〈文子天満宮〉



文子(あやこ)天満宮。北野天満宮の前身神社、天神信仰発祥の神社。
と言われています。ご祭神は当然、菅原道真。
菅原道真公は、大宰府へ左遷され失意のうちに59歳で亡くなります。
その後、都では天候不順や政治の混乱が続き、人々はそれらの災いを
道真公の怨霊のせいだと考えるようになりました。
そんな没後、道真の乳母であった多治比文子(たじひのあやこ)は、
「われを右近の馬場に祀れ」との道真の託宣(おつげ)を受けましたが
文子は貧しく、社殿を建立するなんてムリ。自宅に小さな祠を建て、
道真を祀った。それが天神信仰の発祥とされています。

後におつげの場所、うこんのばば(ひらかな表記しないほうがイイね)
現在の北野天満宮に祀られるようになったことで、ここが
北野天満宮の前身と伝えられています。





文子さん、発見♪





道真公が太宰府へ御左遷の途次お立ち寄りの際腰掛けられた腰掛石。



どうやら天満宮の神紋「星梅鉢紋」かたちに1円玉を並べるのが
慣わしのようです・・・もぅ~!(^_^ゞ




さて、上珠数屋町通に戻って西へ・・・また看板ウォッチング。

〈京仏具 犬塚〉大正時代に創業。まだ100年経っていない新しい店?

〈だるまや〉
だるまやの看板と建物、達磨型の窓や火灯窓(花頭窓)がいいな。
○○公認会計士事務所の看板も年季が入ってる。(2階右端)



〈八田彩華堂〉表具屋さん。高浜原発の“再稼働”は失敗!(^_^ゞ

〈芝川骸骨堂本店〉仏壇仏具。
上の看板はちと読み難かったのですが、電飾看板にははっきりと
「骸骨堂」・・・極楽堂とかだるまやなんてある中、骸骨って!



ここの通りは東本願寺と西本願寺の間だけに残る東西の通り。
仁丹標識には「花屋町通」となっていますが、これは古い呼称で
今は旧花屋町通。今の花屋町通は東西本願寺の北側に面した通りに
なっています。






これが今の花屋町通、東本願寺の北壁沿い。西には城のような
石垣が残っています。

ぶらぶら散策していると、正体不明、意味不明なものに出会しますね。
今回はコレ・・・何処かの駐車場の壁側に!





2016.1/11、旧花屋町通にて。

後ろの正面だ~れだ?

2016-02-23 23:30:33 | 京都徘徊記
豊臣秀吉が造った正面通り、その正面には方広寺大仏殿が歴史上
破格のスケールで建っていましたが、後ろの正面は?
これまた歴史の動きが見えるようで・・・

ちょっと流れを整理するため年表を…暗記の必要は無いです。(^_^ゞ

1583年:石山本願寺跡に大阪城を築いた秀吉、同年に関白となり、
1586年:太政大臣になり、豊臣政権樹立。
1590年:小田原征伐で実質上天下統一を果たし、
1591年:本願寺(西本願寺)を京都に移します。
1593年:伏見城を築城し、自らの本拠地としました。
1595年:方広寺大仏殿を建立、西本願寺までの路、正面通ができました。
1596年:大地震(慶長伏見地震)により、伏見城天守閣、大仏殿が倒壊。
1598年:秀吉、伏見城にて没。
1599年:方広寺東方の阿弥陀ヶ峰山頂に葬られ、その麓に豊国神社を創建。
1600年:関ヶ原の戦いで、西軍が敗北。徳川家康が実権を握ります。
1602年:徳川によって東本願寺が造られ、正面通は分断されます。
1603年:徳川幕府が成立。
1615年:大坂夏の陣で豊臣家は滅亡。同時に秀吉の神号は剥奪され、
    墓であった豊国廟社を取り壊し、豊国神社も実質上封鎖。

こんな経緯ですが、正面通にとって大きなことは、やはり本願寺の存在。






〈西本願寺〉

本願寺は11世・顕如の時(石山本願寺・大阪)、織田信長と対立し、
11年に及ぶ石山合戦の末、信長に屈する形で和解。石山本願寺を
明け渡します。しかも内部は表方(穏健派・顕如三男准如)と
裏方(抗戦派・顕如長男教如)に分かれます。
秀吉は、穏健派に跡を継がせた本願寺に寺領を与え、七条堀川に
現在の西本願寺が建てられました。

阿弥陀如来を本尊とする本願寺、その阿弥陀堂と向かい合うように
盧舎那仏を鎮座させた大仏殿を建立、その間を結んだ路が
正面通でした。(正面通の呼称は後に定着したものです)

さて西本願寺の無料駐車場にクルマを停めたまま(本当は駄目
なんでしょうが、参拝も済ませたことだし・・・)正面通を東へ
方広寺の方向へ歩いてみます。(^_^ゞ



後ろを振り返ると重文の総門、堀川通越しに西本願寺が見えます。
この辺は珠数屋町、北隣りは仏具屋町という町名。
正面通はまさに仏具店が数珠つなぎで軒を連ねています。

〈山本亀太郎商店〉創業1710年(元禄元年)

〈京念珠ぜにや〉



いつ見てもユニークな西本願寺伝道院、1895(明治28)年に
設立された真宗信徒生命保険株式会社の社屋として、
東京帝国大学教授 伊東忠太の設計により建築されたものです。


〈本願寺伝道院・重文〉



〈鍵長法衣仏具店〉

西洞院通(にしのとういんどおり)、若宮通(わかみやどおり)の
交差を過ぎれば新町通(しんまちどおり)で突き当たってしまいます。



東本願寺は“右左”へ500m、西本願寺は“後”へ300m・・・


永井株式会社・一疋屋(いっぴきや)座布団専門の老舗のようです。

東本願寺へ行くため、どん突きを右に。新町通を南に七条通に出る
手前でユニークな建物を発見。





黒塗りの壁、何とも言えなず興味を覚える建物でしたが、正体不明。

七条通を東へ、烏丸の角を北に上がればもう東本願寺です。



三方を掘に囲まれ、境内に入るには橋を渡って門をくぐります。



西本願寺も堀がありますが、水が涸れていて美しく無いのですが
東本願寺にはちゃんと水が張られています。だから・・・



アオサギさんを見ることもあります。交通量の多い烏丸通沿い、
歩道は観光客がぞろぞろ歩いているしバス停の側なんだけど、
ほんの数メートルのところから写真に撮れます。
肝の座ったモデルさんですね♪
写真を撮っていると、観光の方がすぐ先にカワセミがいたよって
教えてくれました。見に行きましたが、すでに飛び立ったのか
姿は確認できず。でも近くの渉成園(しょうせいえん)の池には
いると聞くので、ここに飛んできても不思議ではないのですが・・・



京都タワーは今でも「お東さん(東本願寺)のローソク」って
呼ばれることがあります。(^_^ゞ





〈阿弥陀堂門〉
東本願寺も西本願寺と同じように阿弥陀堂門、御影堂門がありますが、
位置が逆。阿弥陀堂、御影堂(ごえいどう)の伽藍配置が真逆で、
東本願寺の場合は南に阿弥陀堂、北に御影堂が建っています。
畳の向きも西本願寺の南北方向に対し、東本願寺は東西方向。
柱は西本願寺が角柱を使うのに対して、東本願寺は丸柱を使うという
徹底した対向心?他にも仏具まで含めると48通りも相違点があるとか。
同じ教義をもつ宗派なのに・・・
どうやらこれも家康が秀吉色を払拭させるために企てたものか?
まんまと門徒勢力を2分されている気がしますね。


〈左:阿弥陀堂、右:御影堂〉

御影堂は、世界最大の木造建築物と言われています。
・・・それって、奈良の大仏殿じゃ?
確かに高さは東大寺大仏殿の方が高いのですが、建築面積は東本願寺
御影堂の方が大きいのだとか、容積は同等と思われています。
ちなみに秋田県大館樹海ドームやティラムーク航空博物館(アメリカ)、
メトロポール・パラソル(スペイン)も世界最大の木造建築物と
言っているようですが、構造があまりにも違うので無視しましょう。



御影堂の修復が終わったと言うのに、今は阿弥陀堂の修復をやっている
ようですね。現在阿弥陀堂は閉鎖されていますが、今年の春までと
いうことなので、もうすぐ終わりますね。






手水舎も立派。外国の観光客の方かな、図解を見ながらかマナー通りに
されていて、何かほほえましかった・・・(^_^ゞ



御影堂門、これまたデカい。国内最大級の木造の山門であることが
最近の調査で確認されたとか。東大寺南大門(国宝)、京都の知恩院
三門(国宝)を越えているそうです。ここのは登録有形文化財ですが・・・



御影堂門を出ると・・・



噴水♪ 正面通だから小便小僧でもいいのですが・・・(^_^ゞ



ぐるっと回って北側(花屋町通)はこんな具合。



ここ、京都的には異質?でも好きな風景です。



2016.1/11、東本願寺にて。

さるの名残りは正面に。

2016-02-19 22:24:47 | 京都徘徊記
何のこっちゃ分からんタイトルですが、今度は正面通り界隈を
うろうろしてみました。
正面通りって? 京都の東西を走る路なんですが・・・
例の「京の通り名おぼえ唄」には出てこない。

丸・竹・夷・二・押・御池、姉・三・六角・蛸・錦、
四・綾・仏・高・松・万・五条、雪駄・ちゃらちゃら・魚の棚、
六条・三哲・通りすぎ、七条、越えれば、八・九条、
十条、東寺でとどめさす。

六条通と七条通の間なんですがね、歌詞にはありません。
「三哲」は現在の塩小路通のことです。
この正面通り、平安京には無かった。豊臣秀吉が造った路ですからね。
今の京都の街は秀吉が再興した街と言っても過言じゃないです。
応仁の乱、戦国時代によって焦土と化し、都の面影は全く無く惨憺たる
有り様だったようで、御所も廃墟のようだったとか。

鎌倉(源氏)・室町(足利氏)のように幕府を開かず、朝廷から地位を
得て天下統一を図った秀吉、大阪城築城とともに京都の街を復興?蹂躙?
都を完全支配するため大改造、復興に乗り出します。

街を守るため城塞化する御土居、御所の修築、聚楽第の創築。
天正の地割りと言われる京都改造を行ないました。新しい路を造り
寺院なども強制移転させ寺町を形成し、職業別に地区を割り当てる
近世城下町的な都市形態にしました。

現在、大和大路から千本通まで途切れ途切れに走る「正面通り」、
豊臣秀吉が京都に残した興味深い足跡のひとつです。



その起点になるのが方広寺(ほうこうじ)と豊国(とよくに)神社。






〈後陽成天皇宸筆による『豊国大明神』の勅額〉オリジナルは唐門に。

〈手水舎・五七の桐紋〉

秀吉は、天正14年(1586)松永弾正(久秀)の焼き討ちにより焼損した
東大寺大仏に代わる大仏を京都に造立することを発願。
文禄4年(1595)、ここに造られた大仏殿は、高さ約49メートル、
南北約88メートル、東西約54メートルという史上最大級の木造建築。
境内も現在の方広寺・豊国神社境内のみならず、京都国立博物館、
妙法院、智積院、三十三間堂まで含む広大なものでした。
盧舎那仏(大仏)も奈良の14mを上回る19m、市内を見守るように
西向きに置かれました。その先に真っ直ぐな道路(後に正面通りと
呼ばれる)を敷き、突き当たりに本願寺(西本願寺)を建てました。
当時の本願寺は大宮通から千本通まであり、その先に今のように
正面通りはありませんでした。


〈豊国神社 唐門・国宝〉

大仏はというと、開眼法要前に京都を襲った大地震によって
完成1年後に崩壊、秀吉もその2年後に亡くなってしまいます。
大仏殿と本願寺(西本願寺)を繋ぐ正面通りは、徳川によって
建てられた真宗本廟(東本願寺)で、寸断されてしまいます。

〈唐門・石灯籠〉

〈唐門・目無しの鶴〉

秀吉はその遺言により東山の阿弥陀ヶ峰の山頂に葬られ、その麓に
秀吉を神「豊国大明神」として祀る神社が創建されたのが、豊国神社の
始まり。今よりずっと東の位置にありました。
大坂夏の陣で豊臣家滅亡の後は、家康によって神号は廃され社領も没収。
秀吉の正妻、北政所ねねの願いで社殿だけは残されましたが、参道上に
新日吉神宮(いまひえじんぐう)をわざわざ移設、参道を塞いでしまい
社殿は放置され荒廃していったようです。
江戸時代はついに復興されることなく、維新になリ明治天皇が秀吉を
「天下統一を果たしたが、幕府を作らず天皇を尊重した人物」と
再評価、1880年(明治13年)現在の場所に社殿が再建されました。

唐門の左右にある古い石灯篭。これは秀吉に仕えた武将達から
寄進されたもので、創建当初は56基もあり豊臣の威光の大きさを
知らしめましたが、今は8基が現存するのみです。



再建にあたり、南禅寺の塔頭・金地院から移された唐門。西本願寺、
大徳寺の唐門と並び、国宝三唐門に数えられる見事な門ですが
もともと伏見城の城門であったと伝えられています。
欄間の彫刻に左甚五郎作の鶴が三羽ありますが、いずれも目が彫られて
いません。目を彫ると飛び立って行くからだそうで・・・


〈唐門から拝殿、その奥に本殿〉
本殿横には北政所ねねを祀る貞照(さだてる)神社があります。

〈千成ひょうたん絵馬〉秀吉の馬印にちなんで。

〈十二支みくじ〉



十二支の変わりみくじが揃えられるのは、ここだけかな?



私は巳年ですが、今年の干支「申」、秀吉のあだ名「猿」にちなんで
猿の変わりみくじをお持ち帰り♪ 
みくじの内容には興味が無いのですが、「大吉」でしたよ。(^_^ゞ




さて、隣りには「方広寺」があります。豊国神社との境は無いですが。

〈方広寺 本堂・大黒天堂〉

〈花天井〉
大黒天堂には極彩色の天井画があるようです。写真の花天井は
平成になってからのものだとか。

何と言ってもここには、あの有名な鐘が・・・



日本史上最大のなんくせ?いちゃもん?いいがかり・・・
方広寺鐘銘事件の梵鐘、これに刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」の
銘文に家康が因縁をつけ、大阪冬の陣、夏の陣で大阪城を攻め
豊臣家を滅亡に追いやったきっかけですね。

この事件から遡ること14年前、家康は関ヶ原の戦いで勝利し、実質的に
天下を取ったようですが、それはあくまで豊臣の家臣としての話。
関ヶ原でも豊臣家を逆臣石田三成から守るという大義名分で戦った。
下手に豊臣を攻めようものなら、第二の明智光秀になりかねない・・・
虎視眈々とチャンスを窺い、豊臣の力を弱めるため秀頼、淀(茶々)に
各地の神社仏閣の再興、寄進を進言。この方広寺もその内のひとつ。
莫大なお金を使わすも、一向に豊臣の経済力は弱まらず、
家康自身はすでに73歳、跡継ぎはぼんくら・・・
それに反して豊臣秀頼は21歳(年齢は1914年冬の陣の時点)、頭脳明晰、
帝王教育をうけた天下人として立派に見え、家康は焦りまくり?
無理からでも豊臣家を滅ぼすきっかけを掴んだってことでしょうね。


〈方広寺 鐘楼、梵鐘・重文〉
鐘楼にも草花や鳥獣と人の現世・来世を描いた天井画が残されています。
知恩院・東大寺の梵鐘と並び日本の三大梵鐘と言われます。

扉が閉ざされていたので、中に入れず梵鐘の内側まで見られません
でしたが、内側には何やら淀君の恨みの姿が浮かんで見えるとか!
京男さんが写真を撮られてました。


さて、豊国神社・方広寺の駐車場にクルマを停めたのですが、
参拝者のみ無料、境内からは出ないようにと・・・監視の方も居ます。
しかもちょうど私のクルマの横に。(^_^ゞ
仕方が無いので、家内をクルマに残し私だけ境内を出て・・・


〈耳塚〉
あ、ちゃんと係の方にもことわりを入れましたよ。
耳塚の写真を撮りに行っても良いですかって。(^_^ゞ



横にある耳塚公園、どう見ても児童公園。この意味を知っていたら
はしゃげないかも・・・



方広寺から正面通を西へ100m。高さ約7メートルの墳丘で、天辺に
五輪の石塔が立っています。
織田信長が描いた大陸支配の夢を実現しようとした豊臣秀吉が、
朝鮮半島に出兵・侵攻した文禄・慶長の役の際、戦功の証しとして
討取った朝鮮・明国兵の首級の代わりに、耳や鼻を削ぎ塩漬けにして
持ち帰ったものを供養した塚です。
その数、なんと12万6千人分とも言われています。残忍なようで
複雑な気分になりますが、秀吉は敵を弔い供養するため、
京都五山の僧を集め盛大な法要を行っています。


耳塚の写真を撮るだけの約束ですが、ちらっと近くの町家の写真も…


〈なかにしや京扇〉


〈甘春堂(かんしゅんどう)〉
創業1865年、現在6代目だそうです。2代目が創作した「茶寿器」って
菓子が最近も話題になっていましたね。一見、抹茶茶碗に見えて
お薄も点てられますが、バリッとかじって食べてしまえる。
ちょっとビックリする可笑しなお菓子です。(^_^ゞ



本店は川端通正面の角、ここは豊国神社前・東店。それと清凉寺前に
嵯峨野店があります。
本店は正面橋東詰め、ちなみに五条大橋と七条大橋の間にはこの橋しか
ありません。一条は一条戻橋と呼びますが、二条から七条までは大橋と
なっているのに六条大橋はありません。六条通も河原町から堀川までの
わずかな間、実質的には烏丸までかな。その先は車も入れませんし。

さて、正面通りレポ、次回は西本願寺の無料駐車場に停めて・・・


2016.1/11、方広寺にて。

うろうろかいわい、姉小路。その参ッ!!!

2016-01-31 19:25:35 | 京都徘徊記
しつこく姉小路(あねやこうじ)通りを、富小路(とみのこうじ)、
麩屋町(ふやちょう)、御幸町(ごこまち)辺りをうろうろ。
これにて今回の散策はラスト。
それにしても通り名の読みって、法則が無いですね。(^_^ゞ


〈便利堂〉姉小路通富小路下ル

京行燈に長暖簾、水引暖簾(軒暖簾)・・・いかにもって感じ。
1887(明治20)年創業の老舗、コロタイプ印刷による絵はがきなどを
扱ってらっしゃる。もちろん販売も。

〈naeclose〉便利堂の南隣り、アクセサリーのお店。

〈とん漫〉姉小路通富小路下ル
格子戸の奥、路地をずずっと進めば突き当たりに・・・
純和風情緒が漂う創業昭和23年のとんかつ屋さんがあります。



〈泉屋市古商店(いずみやいちこ)〉姉小路通富小路東入ル

昭和12年創業で、現在はお酒と味噌・醤油を販売している店です。
看板右にある盛田合資会社とは、ソニーの盛田昭夫氏の生家である
造り酒屋(現在盛田株式会社)のことで、山泉は盛田株式会社の
登録商標です。こちらの初代が、盛田合資会社京都支店長を退職され
独立された時の開店祝いに贈られたものだとか。


〈平野とうふ〉姉小路麩屋町北西角

俵屋、炭屋、柊家など品格ある老舗旅館が軒を連ねる麩屋町通り。
明治期創業の平野とうふは、これらの旅館に豆腐を卸し続けている
老舗のおとうふ屋さん。初代の豆腐は北大路魯山人も食し、2代目は
白洲次郎にも好まれたというもので、現在3代目がその味を頑なに
守り続けていらっしゃる。
京都と言えば、おとうふ。その京都人がすすめるおとふ屋さんの
ひとつどす。平野とうふ、正式名は看板通りの「丸平商店」だとか。





〈柊家(ひいらぎや)〉麩屋町通姉小路上ル西側(御池麩屋町南西角)

1818年(文政元年)に運送業・海産物商として創業した「柊家」、
時は幕末、二代目が1864年(文久元年)に宿を本業とし、
「柊家旅館」を開業し今に続く老舗旅館です。
川端康成がこよなく愛したという部屋があるなど、利用された
著名人は数限りないのでしょうが、私なんかには敷居が高い?
文化人としての知識や経験を身につけてないと・・・(^_^ゞ
誰でも泊まれる宿ですが、“資格”が要るように感じてしまう。


こちらは「俵屋」さん

創業300余年のこの「俵屋旅館」は京都で最も古い旅館の一つです。
大の京都好きとして知られるApple創設者故スティーブ・ショブズ氏が
お気に入りで定宿にしていたことが自伝に書かれているようです。
他にも初代総理大臣である伊藤博文をはじめ、映画監督スピルバーグ、
俳優リチャード・ギア、トム・クルーズなどの有名人も虜にした
老舗旅館、ちょっと桁違いな感じが・・・
究極のおもてなしが味わえそう、泊まってみたいものです。


〈俵屋(たわらや)〉麩屋町通姉小路上ル東側



〈彩雲堂(さいうんどう)〉姉小路通麩屋町東入ル

富岡鉄斎(明治・大正の南画家)が命名、揮毫し主人に贈ったという
濡額が威風堂々と据えられている。
江戸末期より続く絵の具と筆の老舗です。京都で絵の具と筆?
ちょっと意外かも知れませんが、その理由は京都には優れた日本画家
たちがいたこと。特に明治時代以降に活躍した画家たちは
「京都派」や「京都画壇」と呼ばれ近代日本画の発展に大きな影響を
与えました。こうした優れた画家たちが道具を作る職人たちを育て、
そして職人が作り出した道具が画家たちを支えてきたのです。



彩雲堂の東隣りは「総本家 河道屋」なんですが、その前にちょっと
創業は元禄年間、300年続く生そばの老舗。
ここもまた故スティーブ・ジョブズ氏が頻繁に来ていたお店。


〈晦庵 河道屋(みそかあん かわみちや)〉麩屋町通姉小路下ル

これまた意外かも知れませんが、京都には老舗の蕎麦屋が存在します。
本家尾張屋などは1465(寛正6)年創業と言いますから、室町時代。
550年以上も続いています。
7世紀から鎌倉時代にかけて遣唐使や留学僧らがもたらした素麺に
至るまでの技法を寺院が採り入れて、宮中や公家とともにこれを
普及させたという都ならではの歴史があり、京都はわが国における
麺文化発祥の地でもあるのです。

蕎麦で言えば京都の場合、菓子職に始まり、寺院から蕎麦切りの
依頼があるので、どの菓子屋も蕎麦が打てなければならなかった。
上手く蕎麦を打つ菓子屋が良い菓子屋ということになり、蕎麦打ちの
技量によって菓子屋の評価が左右されたようです。


〈総本家 河道屋〉姉小路通麩屋町東入ル

京土産の「そばぼうろ」の元祖はここだと言われていますが、
京都には主に3軒のお店が有名で、ちょっとまぎらわしい。
総本家 河道屋は「蕎麦ほうる」
本家 尾張屋はというと「蕎麦ぼうる」
丸太町かわみち屋は「蕎麦ぼうろ」と言います。
それぞれ特徴はあるのでしょうが、はっきり言って類似品?(^_^ゞ

室町時代、外国の宣教師が布教のために配った「ボーロ」が
始まりと言われ、明治の末に「総本家 河道屋」が和製クッキーとも
いえる「ぼうろ」にそば粉を加え、梅鉢紋型に焼いたものを
売り出したのが、現在の蕎麦ぼうろとして普及しました。


煉瓦の煙突が・・・今でもここで焼いているのかな?
看板には蕎麦ほうるのデザインがあしらわれている。
そう言えば、梅型と丸いのも・・・あれって中を抜いたものかな。



〈新古美術 山定〉姉小路通御幸町西入ル


〈なが田〉姉小路御幸町北西角  〈IONビル〉姉小路御幸町北東角

「山定」と2戸1で並んでいるのが「なが田」さん、隣りの古美術商
とはガラリと違い、お持ち帰り専門の総菜・サンドイッチ屋さんです。
御幸町通を隔てて向かいは、レコード店「PROTOTYPE」や
アジア料理店「BUNNY b」が入っているビル。


さて今回の姉小路界隈はこれでお終い。
御幸町通を南下して三条通を西にコインパーキングまで戻りました。
途中、京都文化博物館なんかに寄ったりしながらね・・・(^_^ゞ

烏丸通まで来たところで

〈みずほ銀行 京都中央支店(旧第一銀行京都支店)〉烏丸三条南西角

京都文化博物館別館(旧日本銀行京都支店)と同じく、辰野金吾の
設計によるものです。1906(明治39)年に建てられたものは、1999年に
取り壊し、2003年にファサード保存もされず、古い建築資材を再利用
することもなく、同じ場所に新たにレプリカ再建したものです。





〈文椿(ふみつばき)ビルヂング〉三条両替町北東角

1920(大正9)年に建てられた木造の洋館を、商業施設として2004年に
リノベーションされた建物です。大正浪漫の香りが・・・?
ファッションやアート、焼肉店なども入っています。
私らが以前行ったカフェはもう無いようですが・・・(^_^ゞ
そうそう、柴犬柄生活雑貨『和んこ堂』と言うのがあるようですよ♪



文椿ビルヂングとは両替町を挟んで向かいに・・・
280年近く続く帯問屋、誉田屋源兵衛の建物があります。
「三条誉四屋」の看板が目につきますが、1階は韓国カフェ。
韓国伝統茶や、韓定食、韓国風の薬膳料理を頂くことができ、
また、韓国の渋柿染めのファブリックや、韓国の家具や小物も
置かれているようです。
オーナーは誉田屋源兵衛十代目山口源兵衛さんと
沈娟卿(シム・ヨンギョン)さんご夫妻。


〈素夢子 古茶屋(そむしこちゃや)〉三条両替町北西角



2016.1/10、姉小路かいわいにて。

うろうろかいわい、姉小路。その弐ッ!

2016-01-25 16:15:23 | 京都徘徊記
姉小路(あねやこうじ)界隈の続きどす。(^_^ゞ
今回は烏丸通から1本東、姉小路通車屋町から富小路くらいまで
老舗の看板、店構えなど見ながらぶらぶらと・・・


〈亀末廣(かめすえひろ)〉姉小路車屋町 北東角
1804(文化元)年創業の和菓子の老舗。支店や百貨店、ネットでの
販売はせず、本店のみで「一対一の商い」にこだわっている
京都でもひときわ存在感のある老舗です。

京行燈(きょうあんどん)、お店に合わせて亀甲柄になってますね。


日曜祝日は定休日なので、暖簾(のれん)は出ていませんでしたが、
ガラスに彫られた意匠、扇に亀の絵、亀丸に「すゑひろ」の文字。
暖簾が出ていたら長暖簾に「寿恵飛呂」の変体仮名文字と亀形の丸、
水引暖簾(軒に提げる短いのれん)に扇に亀の絵が書かれています。



看板は檜の一枚板に山本意山の書によるもの。額には干菓子の型板が
はめられていますね。

京都では和菓子屋といっても「おまんやさん」と「もちやさん」に
明確に分けられます。おまんやさんは普通餅や赤飯を扱いません。
それは、茶道や朝廷の儀式に用いられた菓子を作ることの許された
江戸時代の上菓子屋仲間に由来し、菓子匠、御菓子司と称されます。

京都の子が「おまん、こぉてぇ」(=饅頭買って)と言っても
NGワードではありません、ドキッとしないように。(^_^ゞ

ところで、和菓子店には亀屋○○とか鶴屋○○が多いのですが、
その訳は、江戸時代以前の上菓子屋仲間の中に、五亀二鶴といった
本家筋にあたる五軒の亀屋さんと二軒の鶴屋さんがあり、そこから
暖簾分けされたところが亀屋鶴屋を名乗ったからなんです。

ちなみに京都にある亀屋、創業100年以上の老舗だけでも
亀屋陸奥(1421年創業)をはじめ、亀屋伊織 亀屋清永 亀屋伊織
亀屋清永 亀屋重久 亀屋良長 亀末廣 亀屋良永 てな具合。

この亀末廣が暖簾分けした店も亀廣永、亀廣宗、亀廣保、亀廣脇、
亀屋廣房、亀屋末富(現:末富)と亀だらけ・・・
名古屋亀末廣も暖簾分けされたお店、ここからも暖簾分けしている
のでまだまだ増殖中?
話は逸れますが、「とらや」って東京では老舗中の老舗、
創業・室町時代で490年の伝統を誇っていますが、もともと京都の
お舗。皇室御用達だったので明治になり、天皇について行くため
東京に移ったもの。こういうケースは他業種でも多々みられます。



〈春芳堂(しゅんぽうどう)〉姉小路通車屋町東入ル

亀末廣の東隣り、創業は幕末1856(安政3)年の表具店です。
ケヤキの一枚板に竹内栖鳳(たけうち せいほう)が53歳の時の
書であり、春芳堂は栖鳳お抱えの店だったそうです。


〈善田好日庵〉姉小路通東洞院(ひがしのとういん)西入ル
春芳堂の並びです。新古茶道具・美術品を扱う善田昌運堂の庵。



〈八百三(やをさん)〉姉小路通東洞院西入ル

看板の「柚味噌」は商品名。嵯峨水尾産の上質な柚子を使った
柚味噌を専門に製造・販売されている「八百三」さん。
1708(宝永5)年創業で、看板文字は北大路魯山人の書です。
看板の文字は模刻で、店内に魯山人が自ら彫刻した木板があります。



「うっとこは、これだけどす」と、さらりと。これしか売ってない。
百年以上一子相伝、秘伝の製法を踏襲されている柚味噌はまさに逸品、
もちろん元祖だとか。恐れ入ります。




間之町(あいのまち)を通り過ぎ、高倉通を上がって御池通に
出てみました。


〈御所八幡宮〉御池通高倉 南東角

足利尊氏ゆかりの神社らしい、尊氏と言えば京都室町で
室町幕府を開いた初代征夷大将軍ですね。


高倉通を挟んで西隣りは〈ホテル ギンモンド〉



〈細野福蔵商店〉高倉通御池下ル

これまた立派な店舗、法衣・仏具を扱うお店です。
格子窓に駒寄せ、暖簾が出ていなかったのは残念ですが、平日なら
「衣」と一文字大きく書かれている暖簾は印象的です。


アンティークショップのようですね。
〈リビングギャラリー 姉小路高倉〉姉小路通高倉 北東角

〈堺町画廊〉姉小路通堺町上ル
貸し画廊のようです。シンプルな京町家風情が現代的にも思えます。





〈和久傳(わくでん)〉姉小路通堺町上ル

1階では「おもたせ」を販売、2階はお茶と甘味をいただける
「茶菓席」。建物奥には、料亭「室町和久傳」になっています。




〈光泉洞 寿み(こうせんどう すみ)〉姉小路通堺町東入ル
「京町家お昼処」となっています。詳しくは『HP』へ。
畳小窓には季節の花を・・・食事処とは気がつきませんでした。

〈京の宿 石原〉姉小路通柳馬場(やなぎのばんば)上ル
故 黒澤明監督が定宿にされていたとか。そのせいか、日本の映画人、
俳優がよく利用されるようです。



〈谷口邸〉姉小路通柳馬場東入ル
「姉小路界隈を考える会」の事務局長をされている谷口氏のお宅です。


〈三嶌邸〉柳馬場通姉小路下ル

京風すき焼き、お肉の「三嶋亭」の社長さんのお宅だそうで。
散策に行った1月10日は、京都ではまだ松の内(1月15日まで)
こんなお飾りをされるのですね。


〈あとりえ ぴっころ〉姉小路通富小路(とみのこうじ)上ル


〈井山邸〉姉小路通富小路 北東角

この門と蔵は蛤御門の変の大火事にも焼け残った由緒あるもの
だそうです。もっと驚くべきことは、1620年頃からのこのお宅から
江戸時代の「町式目」が見つかったのだとか。
町式目とは江戸時代に町の人びとが取り決めた住むための自主ルールの
ことで、これを原典として「姉小路界隈を考える会」が新しく
「姉小路界隈町式目 平成版」を作られたのだとか。


あちこちでこの立札を見ました。

国交省が「街なみ環境整備事業」というのを行なっており、姉小路も
2003年からその事業に参画しているようです。期限が10年間という
ことなので、もう補助とかは終了してしまったのかな?

姉小路界隈を考える会・谷口さんのお話を読むと・・・
全体の工事費の3分の2が助成、3分の1が自己負担となるそうです。
しかしながら助成対象は外側から見える部分だけとなっているので、
例えば道路に面している屋根ならば助成は出るけれど、裏側の屋根は
ダメということです。でも実際の工事で、片側の屋根だけ直すという
ことはしませんよね。また屋根の下地とか戸の裏側なども助成の対象
にはなっていないということから、実際には工事費の半分か、
それ以上の自己負担となるとのこと。大変ですね・・・



〈吉川〉富小路通御池下ル

「姉小路から富小路通を上がって御池に出る手前、西側やし」
京都の方ならこれで地図無しで行けます。
他所の方はちんぷんかんぷんかな・・・(^_^ゞ



吉川は1950年創業の料理旅館、小堀遠州作庭といわれるお庭を持つ
大豪商の邸宅であった数寄屋造りのこの館で、天ぷらを中心にした
懐石料理でおもてなし。
敷居が高くてとうてい近寄れない感じですが、お昼は予約無しで
3,000円と4,000円のコースがいただけます。11:00~13:45(L.O.)
但し、30名に達したら営業終了です。

ちなみに2002年、ポール・マッカートニーが来日した折り、京都で
宿泊した宿でもあります。たいそうお気に入りだったようで、宿泊
日程を伸ばしたとか。後にポールの勧めで故ジョージ・ハリスンの
未亡人もここに泊まられたとか。他にもキャメロン・ディアス、
レオナルド・ディカプリオ、ハリーポッターのダニエル・ラドクリフ
なども・・・あちゃらの芸能人には好評のようですね♪



〈なかむら〉吉川のお向かい、東側です。

「一子相伝 なかむら」、京料理のお舗です。ミシュラン3ツ星。



創業190年、現在六代目。戦後は近くにある老舗旅館「柊屋」、
「俵屋」などに仕出しをしていたとか。
グジ、鯖、鱧、白味噌の雑煮など京料理の真髄が味わえるかもね。

この界隈、御池通を下がってすぐのところには富小路を挟んで
吉川、なかむら。麩屋町通(ふやちょうどおり)を挟んで
柊屋、俵屋が向かい合っています。そこんとこはまた後日・・・



2016.1/10、姉小路通 車屋町~富小路にて。

うろうろかいわい、姉小路。その壱

2016-01-22 23:04:58 | 京都徘徊記
京都散策、観光スポットは他国観光客さんにまかせて、点じゃなく
線で京都をなぞってみようかなと・・・新企画?(^_^ゞ

三条通はちょこちょこやってきたので、今回は一筋北の通り
姉小路通(あねやこうじどおり)東は木屋町通から西は
佐井通(春日通)まであるのですが、
今回は堀川通から寺町くらいまでの界隈を散策しました。

京都の通りを散策するための基礎知識、『通り名おぼえ唄』
上のリンク先で音声が出なければ、こちら『京美人三人娘が唄う』
ま、MP3なんで美人かどうかはわかりませんが。(^_^ゞ
京都の街は碁盤の目なので、東西の通り名と南北の通り名を覚えれば
交差点名から東入ル・西入ル・上ル(北進)・下ル(南進)の
表現でほぼ位置が確定できます。



〈京料理 二傳〉



1757年創業の京料理店、二傳(にでん)さん、夏は鱧料理やね♪
姉小路通油小路(あぶらのこうじ)西入ルにあるこの店舗は、
大正2年(1913年)に、5代目が開店して、現在8代目。



〈ゲストハウス ひつじ庵〉
姉小路通小川東入ル、築80年以上の京町家を改装、2013年に
オープンしたゲストハウス。1泊3,000円以下のプランもあります。
最近こう言う宿泊施設が激増してますね。




お馴染み仁丹の商標付地名標識、上京区とありますが、昔の話で
今は中京区になっています。
牛乳箱も懐かしいかな、株式会社 仙人堂って・・・(^_^ゞ



〈西本酒店〉
立派ですな、うだつも上がってるし。明治35年(1902年)創業の
酒屋さん。暖簾も看板も上がってなかったけれど、今はネット販売?

町家というか商家の造りですね。卯建、一文字瓦、格子、
虫籠窓(むしこまど)、ばったり床几(しょうぎ)も置かれていた
ようですね。軒にはちゃんと鍾馗さんも置かれています。



鍾馗は中国の民間伝承に伝わる道教系の神。日本では邪気除け、
疱瘡(ほうそう)除けのお守りとして、絵や人形を飾ります。
関東では五月人形、掛け軸の地域もあるのかな、近畿や中部地方
では屋根に瓦の鍾馗像を置く風習があります。
特に京都の町家には多く、シンボル的な存在。それにはこんな謂れが
「昔、京都の三条に薬屋が新しく店を構えて大きくて立派な鬼瓦を
葺きました。するとお向かいの奥さんが原因不明の病に倒れて
しまいます。
病を治そうと原因を探ると、薬屋の立派な鬼瓦により跳ね返った悪い
ものが向いの家に入ってしまうからだということがわかりました。
そこで鬼より強い鍾馗(しょうき)さんを伏見の瓦屋に作らせ、
魔除け・厄除けに据えたところ病が完治したというのです。
それ以降、京都では鬼瓦の対面に鍾馗さんを据えるようになった
ようです。『京瓦.com』より引用
ただ、ご近所同士にらみ合いにならないように正面を向いていない
鍾馗さんも多く、他にも微笑み返しとしての「お多福」を対面に据える
場合もあるようです。京都人らしさが出てますね♪



〈丸久小山園 西洞院店〉
西洞院通(にしのとういんどおり)姉小路上ル。南行き一方通行の
路なので、西洞院通御池下ルの方が正しいかな。



丸久小山園(まるきゅうこやまえん)は、元禄年間に宇治で創業した
宇治茶の老舗です。この建物は築100年以上の町家を改装したもので、
坪庭を見ながらまったりと楽しめる茶房もあるようです。



〈におい袋 ゆりの〉
小山園の向かいにあります。



〈Kyomachiya Ryokan Ma(旅館 間)〉
ここも築100年の町家を改造した京町家旅館、姉小路通西洞院東南角。
簾(すだれ)も京町家の風情ですね。



〈丸昭〉呉服商かな、姉小路通釜座(かまんざ)北西角。



道に向かって平入りに建つ京町家は、建物の大小があるとはいえ、
連続した庇の上は盗賊にとって格好の足場になっていた。
そんな盗賊除けに生まれたのが「忍び返し」。扇状に開いたものから、
格子状に並ぶものまで形状は様々。ちなみに手がかり、足がかりを
取らせないように緩く取り付けられているのだとか。
散策で注目したいもののひとつです。



〈高松神明社〉姉小路通釜座東入ル
白くペイントされた鳥居が目を引きました。智将真田信繁(幸村)の
念持仏であったことから「幸村の知恵の地蔵尊」と呼ばれている
紀州九度山の真田庵から移ってきた神明地蔵尊があります。



〈新町1888〉姉小路通新町下ル
市の「歴史的意匠建造物」に指定されている、赤い壁と窓に大きく
あしらわれたステンドグラスが印象的な建物。
玄関脇にはかつて昭和期に全国に普及した「郵便差出箱一号丸型」が
据えられ、レトロな雰囲気を醸し出しています



京都ホテルオークラが町家ラウンジとして2014年7月にオープンさせ
昨年11月から、ホテル館外店舗「新町1888」を完全予約制の貸し切り
スタイルとして営業しています。



京都の街路の景観に欠かせないものに、このアーチ状の設え、
「犬矢来(いぬやらい)」がありますね。
昔は土の路でしたから泥水や土埃から壁を守る必要があったわけで、
そこで考え出されたのが、竹で作った防護柵。
京都周辺では質の良い竹材が豊富でしたし、湾曲させることで
盗賊の足がかりにもならないなど、多くの難題を解決しました。
金属製のものもありますがこの風情、京都の街に似合ってますね。



〈RAAK〉姉小路通室町南東角。



京都で約400年。十四代続く老舗織物商「永楽屋 細辻伊兵衛商店」の
新ブランド「RAAK」本店です。
何軒か下がったところに永楽屋の本社ビルがあり、そこの1Fにも
伊兵衛 Iheeというショップがあります。


室町を過ぎれば両替町、その先は烏丸通(からすまどおり)。
♪からすま りょうがえ むろ ころも しん かま にし おがわ
あぶら さめがい ほりかわのみ~ず♪
通り名おぼえ唄と逆に堀川から烏丸までやって来ました。

烏丸通を渡ると・・・

〈新風館〉烏丸通姉小路南東角。



原形となる鉄筋コンクリート造の洋館は1926年に竣工し、1931年に
増築された京都中央電話局。建設当初は電話交換施設として使用され、
のちに電電公社の京都電電ビル西館となった。
京都市登録有形文化財第1号に登録されていますが、今は約30店舗が
入っている複合商業施設。
それも今年3月で閉館、ホテルなどの複合施設に建替えられる計画。
外観はどこまで残されるものやら・・・


姉小路通から見た新風館。



〈平楽寺書店〉姉小路通東洞院(ひがしのとういん)下ル。
仏教書出版社の老舗、建物は1927年(昭和2)年竣工のもの。

さて、次回はどこまで行けるかな・・・


2016.1/10、姉小路通 堀川~烏丸にて。

またこようか、下鴨神社。

2015-12-08 12:25:51 | 京都徘徊記
先月28日に下鴨神社の紅葉を見に行きました。
新しく手に入れたカメラ、FUJIFILM X30のテストを兼ねてね。

今年は下鴨神社と上賀茂神社は21年ぶりの式年遷宮の年。
それとは関係なく、最近毎年「糺ノ森 馬車遊覧」というのを
秋の休日特別企画としてやっているみたい。


X30で(r[◎]<)パチリ


比較のためNikon D5000でも。バスと馬車・・・(^_^ゞ

比較になるようで、ならない?
やはりイチガンの方が階調の幅が大きい気がします。



なんかお馬ちゃんがいると嬉しいですね、和みます。
ホーステラピーってやつかな、世界遺産の神社、糺ノ森の紅葉の中を
馬車で遊覧って楽しそうです♪
こんなアミューズメント化を嘆く人もいるでしょうが・・・
もともと神社はお祭りの場、テーマパークみたいなものですから。




若いお嬢さんはこちらが気になるようですね。



楼門の側に相生神社という縁結びの神さまが祀られています。
めでたいことを「相生」といいますが、この言葉は
この「相生社(あいおいのやしろ)」からできた言葉です。




舞殿(まいどの)や神服殿(しんぷくでん)などには書がいっぱい
貼られていました。書道のコンクールかな?

何か中華風の八咫烏?二葉葵を咥えているけど・・・


七五三詣りの記念写真ですね♪



ここにはやたらと「お手洗い」が多い?(^_^ゞ

御手洗(みたらし)とは神社や寺院で、参拝者が手や口を洗って
清める場のこと。手水(ちょうず)、手水舎(ちょうずや)。
「ちょうず」や「おてあらい」、最近はあまり言わなくなったけれど
トイレのことですよね。考えれば綺麗な呼び方かも。

下鴨神社には御手洗池、御手洗川があり御手洗団子の発祥の地。
鎌倉時代、後醍醐天皇が行幸の際、御手洗池で水を掬おうとしたところ、
1つ大きな泡が出、続いて4つの泡が出てきた逸話がある。
この泡を模して、串の先に1つ・やや間をあけた4つの団子を差して、
その水泡が湧いた様を表している。この団子が池の名前から
「御手洗団子(みたらしだんご)」となったそうです。
このカタチを守って竹の先を10本に割って串を扇状にし、各々の串に
5個の団子を差した合計50個の串団子というのが正式?です。



御手洗川に架かる輪橋(そりはし)、渡ることはできません。
たもとには光琳の梅。尾形光琳が「紅白梅図屏風」に描いた梅です。





御手洗社(みたらしのやしろ)は井戸の上に祀られることから
井上社とも呼ばれます。御手洗社から湧きだす清水で葵祭の斎王代の
禊ぎや土用の丑の日に行われる足つけ神事(御手洗祭)が行われます。




肝心の紅葉が見られません・・・






紅葉はまだこんな状態でした。(11/28)



下鴨神社は京都でも最も遅い紅葉が楽しめるスポットです。
今年は特に遅いのか、まだ2週間先だと言われました。
今度の土日が見頃かな、平年でも12月中旬まで充分楽しめます。
境内に広がる原生林・糺の森(ただすのもり)で、樹齢300年以上と
いわれるタカオカエデなどの美しい紅葉を見ることができる。
境内社で美人祈願・鏡絵馬で有名な河合神社の東にある「紅葉橋」の
辺りは特に見事だそうです。
糺ノ森参道を覆う紅葉絨毯、参道沿いを流れる「奈良の小川」で見られる
落ち紅葉も風情があります。まだ間に合うはずです♪
ただここの紅葉は真っ赤よりオレンジ色なのが特徴ですのでご承知置きを。

FUJIFILM X30ですが、彩度・ケバさを抑えた、ある意味デジタル感の
少ない画像に撮れるようです。基本的に落ち着いた画調のようなので
性格は良いように思います。


さて、次のスポットに向かう前に腹ごしらえ。
近くの洋食屋さん『のらくろ』に寄ったのですが、
もうランチタイム終了で閉まっていました。1時半やったのに・・
で、府庁前のお蕎麦屋さんへ。



「田毎(たごと)」「やまびこ」でもなく『権兵衛』さんへ。
ここでもまた「ご飯ものが切れました」って・・・。お稲荷さんが1個
残っているってことで、私は鶏なんばそばとお稲荷さん。
家内はきつねそば。とっても口に合う“これやん!”ってお蕎麦でした♪





2015.11/28、下鴨神社にて。

ぶらり、山科疎水。つづき。

2015-08-12 11:51:33 | 京都徘徊記
山科疎水探索オフミーティングの続きです。
7月12日ですが、この日も猛暑日。駅員3さん、すーさんはすでに
大津から山越えなどして歩いて来られていますが、お二人とも
健脚なので、ちょっと寄り道にお誘いしました。



山科疎水には何本か(14本?)の橋が架かっているが、中でも
ひときわ異彩を放っているのがこの正嫡橋と呼ばれる本圀寺参道。
この橋だけ朱塗りの欄干がある。



石碑には「南無妙法蓮華経」と書かれているのか、日蓮宗ですね。
750年の歴史がある、大本山『大光山 本圀寺(ほんこくじ)』
歴史があるとはいえ、ここに移転したのは1971(昭和46)年のこと。
私が高校へ通っていた頃にはまだ出来ていなかった。

この寺もまた時代に翻弄され移転を繰り返したようですが、この地に
来る直前は西本願寺の北側、六条に広大な寺領を持っていたようです。
日蓮宗は身延山久遠寺が総本山、寺院数は5200寺の巨大な宗教グループ。
7寺の大本山があり、本圀寺はそのひとつです。


〈開運門〉
出陣門とも呼ばれ、加藤清正の寄進による。
寺内には清正の墓もあります。


〈仁王門〉?
境内の真ん中に建っている門、ガラス張りの中に金ぴかの
金剛力士像が・・・あれ?こんなだったけな?





これでも充分異色な像だが、以前は・・・

私が以前この寺を訪ねたのは6年前、ちょうどNHK大河ドラマで
「天地人」を放映していた時ね、番組最後にやる紀行で、ここが
ゆかりの地として紹介された。上杉景勝と直江兼続が上洛した時の
宿舎としてね。実際は移転前の六条にあった本圀寺ですが。



1345(貞和元)年に鎌倉から京都に移った本國寺は、足利氏の庇護を
受け、北は今の五条通、南は七条通、東は堀川、西は大宮という
大寺院だったようですが、天文法華の乱により焼失。
後に再建され、織田信長が擁した足利義昭を入洛させ「六条御所」
となるものの、本國寺の変を機に信長が解体、二条城建築に用いた。
豊臣秀吉にも守られるが、西本願寺建立のため南半分を取られる。
徳川家康は本国寺の寺領を安堵。徳川光圀との縁があり寺名を
圀の文字をもらって、本國寺から本圀寺に改名。
1788(天明8)年の天明の大火では経蔵を除く全ての伽藍が焼失。
経蔵は唯一、重要文化財として現在の寺に現存しています。


〈鐘楼〉
豊臣秀吉の姉が寄進した大梵鐘・・・あれ、これも金ぴかのはず?


        〈清正宮〉


なんだかな~、折角案内したのに地味になってしまって。



龍さんは何とか健在。執拗にまとわりついています。



実はねぇ、6年前に訪ねた時はこうだったのですよぉ。









絶対驚いてもらえる、機会があれば誰か案内しようと思っていたのに
当日ははっきり思い出せず、こんなんぢゃなかったよな・・・って!
帰って以前の姿を確かめたら、あら残念。
調べたら何年か前に、104世伊藤日慈貫首に代わった際、
金ぴかを止めたそうです・・・ま、気持ちも分かるけど。(^_^ゞ

つまらない寄り道をさせてしまったかも知れませんね。スイマセン


さて、私はここでもう限界?第2トンネルの東口(入口)です。





扁額には井上馨の揮毫(きごう)による論語の一節
「仁以山悦 智為水歓」が彫られています。
(じんはやまをもってよろこび ちはみずとなるをよろこぶ)
仁者は知識を尊び、智者は水の流れをみて心の糧とする



「扁額でたどる琵琶湖疎水」も推奨されています。
ちなみにこの第2トンネルの出口、西口には
西郷従道(西郷隆盛の弟・初代海軍大臣)による「随山到水源」。
西口はまだ観ていないので、ご一緒したかったのですが
無理をせずここでお別れすることにしました。
猛暑の中、家にまで辿り着いたら12000歩。普段400歩やのに・・・

最後にレトロ建築もちらっと・・・


〈旧鶴巻邸(栗原邸)〉

1929(昭和4)年に京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)
校長・染織家でもある鶴巻鶴一氏の邸宅として建設されたもので
設計者・本野精吾氏が当時の最先端建築技術「中村鎮式コンクリート
ブロック造」で建てたものです。



外から観るだけではイマイチ分からないのですが、年に1回(5月頃?)
一般公開(入場料1000円)されるようです。
機会があれば訪ねてみたいです。リンク『レトロな建物を訪ねて』



2015.7/12、本圀寺にて。

ぶらり、山科疎水。

2015-08-10 17:00:28 | 京都徘徊記
1ヶ月程前になりますが、我が町、山科の疎水道をブログ仲間と
ぶらり散策しました。
ソネブロの『駅員3』さんが東京から来られて、大津の取水口から
蹴上げの方まで歩かれる計画。私もお誘いを受けたのですが
体力、脚力に自信が無く。(^_^ゞ
山科の部分だけご一緒させていただくことにしました。
『すー』さんは、大津で駅員3さんと合流、ご一緒に踏破された
ようですが・・・

まずは四ノ宮、諸羽トンネル東口(入口)前でお二人と合流しました。
お二人とも取水口から第1トンネル入口を観て、それからは小関越えで
ひと山越えてこられたのに、全然お元気。タクマシイ(^_^ゞ

ちょうどお昼時だったので、四ノ宮の駅前まで降りて来て・・・
実は私はここまでクルマで送ってもらったので、家内も一緒に。



料理が来るととりあえず写真、ブロガーの習性?(^_^ゞ四人四様♪





さて、腹ごしらえも済んで、山科疎水遊歩道を散策開始♪


〈四ノ宮船溜まり・諸羽(もろは)トンネル東口〉
諸羽トンネルは520mなので、出口が見えます。



昔の水路の名残りらしきものが右側にあります。
諸羽トンネルは1970(昭和45)年に出来た新しいものです。以前は
船溜まり跡、諸羽ダムと言って、そこで遊泳が出来たのですが、
赤痢が流行したのをきっかけに全面遊泳禁止になりました。
現在は公園となり、ニャンコの棲家に・・・



〈第2疎水のトンネル試作物〉

第1疎水は1890(明治23)年に完成しましたが、需要増大を受けて
1921(明治45)年に第2疎水が造られています。
このコンクリート構造物は、建設技術を習得するため、トンネル
上部の複製を製作したものだそうです。


〈???〉
探索していると何でも気になるんですよね。おそらく現在のもの?
それとも第2疎水の関連?第2疎水は暗渠で見えませんが、
も少し北になるはず・・・


〈諸羽トンネル・西口〉



オッと、また気になる橋を?



橋が架かる道は、『毘沙門堂』へ至る参道、毘沙門道。
疎水が造られた明治23年当時は毘沙門堂橋、これは昭和3年に架替え
られた橋だと思うのですが、それも老朽化のため平成12年に全面補修
されたようです、外観は変わっていないように思います。


さて、ここは絶対案内しないとね。



安祥寺川と疎水が立体交差。南北に流れる安祥寺川の上を
東から西へ琵琶湖疎水が通る、珍しい川の立体交差。



この水路橋は、明治22年に完成したそのままのようです。



〈洛東橋〉


橋を渡れば我が母校、3年間疎水を渡って高校生活を過ごしました。
そう言えば安祥寺川に架かる橋は〈3年橋〉と呼ばれていますが
4年間通った子もいたのにな・・・(^_^ゞ




山科疎水道は桜並木、楓も多くお花見、紅葉狩りの隠れた名所です。
ところどころ南の眺望が開け、山科盆地が俯瞰できます。
JR東海道本線や京阪電車も上から見ることができ、特に東海道本線は
マニアにはSL時代からよく知られた山科築堤、「山科大カーブ」が
東側から俯瞰できる撮影ポイントにもなります。


少しひんやり?・・・・・


この4地蔵、今までどんな謂れがあるのか知らず、ご挨拶だけは
していたのですが・・・ネットに「4人の兄弟姉妹が溺れて亡くなった
そうで、お地蔵さんがあります。」って記述を発見。
写真右の泉は未だに謎ですが・・・

昔は疎水道も整備されておらず鉄柵もなくて、よく転落事故が
ありました。転落してしまうと、流れは早く、逆アーチ状の
コンクリート側面には水苔が生え、這い上がることができません。
その側面に溺れた方の爪痕がくっきり残っていたり。
夜中に疎水端に行くと、水音にまぎれて「たすけ・・・」って声が
聞こえるとか・・・子どもの頃そんなことをよく聞かされたものですw

山科疎水、散策オフミーティング。後編に続きます。(^_^ゞ


2015.7/12、山科疎水にて。

やっぱ、かっぱ!

2015-06-25 17:18:39 | 京都徘徊記
伏見、大手筋や龍馬通りまで行けば、やはり此処に寄らないとね!
黄桜酒造、『キザクラカッパカントリー』です。



玄関から入ると左に黄桜記念館、右には黄桜酒場(カッパ天国
レストラン)があり、黄桜広場に抜けます。



駐車場側からの入り口。春には黄桜広場にある数本の黄桜が咲きます。



駐車場は無料なので、クルマで行っても気軽に停められます。
ただし、お酒は飲んじゃダメですよ!
黄桜広場では隣の工場から直送の地ビールも飲めるんですがね。



黄桜広場から「カッパ資料館」に入ってみましょう。



我ら一族のことがたっぷり分かる・・・(^_^ゞ







HP「黄桜ギャラリー」でも清水昆さん、小島功さんの描いた
カッパファミリーが見られます♪
小島功さんは今年、4月14日に亡くなられました。



歴代のカッパ家族、イラスト原画も見られますよ♪

HPでも見られますが、懐かしのコマーシャル。近衛十四郎って古過ぎw





そう言えば、プロ野球ファンには印象に残るこのCMも黄桜酒造でした。
黄桜 CM ①「出会い篇」 - 小林繁・江川卓 高画質




♪かっぱっぱ~ るんぱっぱ か~っぱ黄桜 かっぱっぱ♪

今年は黄桜カッパ生誕60周年のようですね、清水昆さんが20年、
小島功さんは40年描いてこられたカッパ、小島功さん亡き後、
これからどうなるのでしょう・・・



さて、黄桜広場でひと休み。ソフトはカッパ味ではないけれど。(^_^ゞ



ショップで買ったゼリータイプの酒米飴をトッピングして・・・

そうそう、ショップに置かれていたこのコ、非売品のようでしたが
欲しいな~「かぁたんだっこちゃん」というらしい。



これはすでに入手済。(^_-)v

で、今回はこのコを連れて帰ることに・・・




よろちくね、の2ポーズ。ポーズがとれるんやね♪

そろそろブログマスコットも世代交代・・・?


2015.6/7、キザクラ カッパカントリー。

駈馬神事

2015-05-27 00:45:52 | 京都徘徊記
5月5日、伏見深草の『藤森神社 (ふじのもりじんじゃ)』
行ったのですが、周辺は大渋滞。それを見越してバイクだったので、
渋滞を横目に神社まですんなり辿り着けました・・・が、停める所が無く。
泣く泣く撤退。別行動で後から来た家内はスクーターをちゃっかり駐輪場へ。
と言う訳で、家内が撮ってきた写真で楽しませてもらいました。(^_^ゞ

藤森神社は、創建が203年?と~っても古い。主祭神は素盞嗚命(スサノオノミコト)
詳しく調べるのはまた今度ゆっくり行った時にしよう。(^_^ゞ

この神社で最大の行事「藤森祭」は4月29日の神輿出しに始まり、
5月3日は、神輿担ぎや藤森太鼓。5月4日は、節句祭や宵宮祭。
そして、最終日の5月5日は、神幸祭が行われ、華やかで優美な神輿を担ぎ、
氏子の安全を祈願します。女神輿も出るよ、見損ねたけど。
この日の武者行列も必見かも。朝渡(あさわたり)、皇馬(こんま)、
七福神(しちふくじん)、払殿(ほって)が町を歩るくようです。




そして、境内では祭のクライマックス、駈馬神事が行われます。
ここのはよくある流鏑馬神事ではなく、疾走する馬に曲乗りする乗子(のりこ)の
技に酔いしれて、拍手喝采。とても面白かったそうです。



ま、目の前をお馬さんが歩いたり駈け回ったりするだけでも面白いやろね♪

ところで「駈馬(かけうま)」。「駆」じゃなく「駈」って字を使っている。
この「駈」って字、辞書では「駆」の異体字、俗字ということで、
意味は同じとされているようですが、どうも使い分けがあるようだ。
「駆逐」「駆除」「駆使」などの場合は、「駈」を使わない。
一方、「駆足/駈け足」「駆落ち/駈け落ち」「駆付ける/駈け付ける」などは
「駈け」が使えるようです。常用漢字を「駆」にしたものだから、
「駈」も全て「駆」に置き換えられたからかな。
ちなみに「かけあし」、馬術用語では「駈歩」が正しい。
なみあし=常歩、はやあし=速歩、と表示するようです。

閑話休題



神事で行われる曲乗りの技は、手綱潜り・逆乗り(地藏)・矢払い・
横乗り・逆立ち・藤下がり・一字書き、などがあるようです。
約180mの参道を駆け抜ける数秒間に馬上で技に挑むのですが・・・


頭の上にお皿?河童みたいですが、ヘルメットのような役割かな?

見事な曲乗り!・・・?

どうも、落馬だったようで・・・(^_^ゞ
この神事、よくケガ人も出るようです、救急車が待機していますが、
この日も役に立ったようで・・・






観客は盛り上がりますね。この日の「乗子(のりこ)」は、
今年初めての中学1年生から58歳のベテランまで。






スリリングな技を披露・・・ん、退屈している子も?



おっちゃん、頭に何つけてるの? これ、葉っぱで作ったバッタ♪
写真撮らせてもらったそうです。
その時、小学生が「それ欲しい」って・・・
おっちゃん、すかさず「500円!」・・・売り物やったんや。(^_^ゞ





お馬ちゃんもお疲れさん♪


この日の藤森神社は、とにかくいっぱいの人、人・・・


あれ?「ベイマックス」も?・・・




2015.5/5、藤森神社にて藤森祭・駈馬神事。


余分・・・


取っ捕まって護送・・・された訳では無いですッ!訳あって出頭。

実はこの祭りの次の日、GWの最終日5月6日に家内が事故に遭いまして・・・
「バイクで事故に遭った。今、病院にいる」どこかで聞いたフレーズ。(^_^ゞ
救急車で搬送されたのも同じ。去年の夏、某氏の奥様が同じくスクーターで
事故に遭われたのを思い出しました。
冬には姉が自転車で横断歩道を渡っている時に、信号無視の80歳の女性が運転する車に
撥ねられて入院。他人事では無いのは分かっていたけれど・・・
今回の事故、相手は宅配業の軽バン、72歳の運転手が狭い道でUターンするため
駐車場の空きスペースに後ろを確認せずバックで発進。ちょうど通りがかった
家内のスクーターを撥ね、家内もろとも倒したものです。
もちろん過失責任割合は10対0、前進していたところに突然バックで当てられたもので
スピードは出ていなかったものの衝撃は正面衝突に近い。重い事故にならなかったのは奇跡的?
怪我も打ち身が主で、軽かったのが幸い。次の日には家事もしていたし・・・
恐るべき主婦のたくましさ!(^_^ゞカンシャ
この日は、事故の半月後くらいに事情聴取に警察署に出頭。まだ運転は出来なかったので、私が送迎したものです。
家内は今でもバイクには乗れず、移動は主にロードスターで。オートマにしておいてヨカッタ・・・♪
怪我の具合はまだ毎日、通院を続けていますが(直ぐに治るお年頃でもないしね)何とかやってます。
あとは完治を待って、後遺症が出ない事を祈るばかりです。
ほんと、事故は辛いね。他人事じゃ無いです。被害者になっても、加害者になっても堪らない。
今さらですが、充分気をつけないとね。

アート驚くイベント?

2015-05-14 19:23:04 | 京都徘徊記
入り口にはオブジェが、横にはステージ?





玄関前のオブジェのようなものはチケット売り場になっていました。
ステージは、やなぎみわの移動舞台車。ポールダンスが行われるようだった。



美術館前の広場には露店が並び・・・



普段とは様子が違う・・・いったい何が?



とりあえず入場フリーなエリアを観てみることに。(^_^ゞ



西口が開放されていて、「ARABICA京都(アラビカ キョウト)」という
香港と京都の五重塔付近にあるバリスタカフェが出店されていました。
テラス席も設けられていて、ちょっといい感じ♪


このイベント、先日もう終わってしまったのですが
『PARASOPHIA: 京都国際現代芸術祭2015』というもの。
3/7から5/10まで2ヶ月間にわたり京都市美術館の全館と京都府京都文化博物館を
主会場に、8カ所の会場で世界の第一線で活躍する作家約40名が作品を発表する
大規模な現代芸術の国際展です。



何かやっているな・・・程度は知っていたのですが、イマイチ興味も湧かず
もっと早くから、そして時間もあれば、全会場で会期中何度でも利用できる
パスポート(6,000円)でも購入して、じっくり回っても良かったのですが・・・
これほどのスケールのアートイベントってなかなか無いだろうし、作品の撮影も
ほとんど自由。お役所主導のイベントではなく、京都経済同友会などの民間資金が
中心となっているので、公的資金に縛られず思い切ったことができるというのも
先鋭的な現代芸術祭としてはピュアな姿勢が感じられますね。

ガイドブックをもらって(無料配布)、ちょこっとだけ覗いてみました。






蔡國強(ツァイ・グオチャン)の竹製の塔作品、子どもたちが作ったオブジェが
飾られている、参加型?大型作品。



子供たち、美術館で工作?芸術作品制作中ですね、いい体験になるでしょう♪



蔡國強は北京オリンピック開会式の花火の演出、火薬で描く「火薬絵画」などの
ダイナミックな作品制作や奇抜なプロジェクトで世界的に知られている。
この六角形七段の塔(パゴダ)を中心に、《農民ダ・ヴィンチ》の記録映像や
農民の一人である呉玉禄が製作したロボットたちが周りを囲む。




ぐるぐる回っていたのですが・・・あれま、充電中。(^_^ゞ



フロア内では色んなロボットが動き回っていたり



ロボット画伯がアート制作中だったり・・・



特設のブックストア。あ、ロボット画伯の作品が売られている。(^_^ゞ

まぁ芸術ってなんじゃろかって考え出すとキリがないので・・・
美術館西側の庭園に目をやると、藤棚が見頃♪













うろうろ寄り道しましたが、この日、観に来たのは京都市美術館別館でやったいた
三瀬夏之介「日本の絵~執拗低音~」展
別館は平安神宮の向かいなので歩いて行きます。平安神宮前、神宮道周辺は
整備工事中のようで・・・これもアートに見えた。(^_^ゞ





こちらの三瀬夏之介展も思っていた以上に良かったです。
ただ、作品数が少なかったな・・・




2015.4/25、京都市美術館にて。

雨のネコ市ネコ座

2015-04-21 21:46:51 | 京都徘徊記
ネコ市ネコ座とは、猫と人間との共生をめざし、幸せな猫達を増やすための
啓蒙活動などを行う団体なんだそうです。『ネコ市ネコ座 実行委員会』
「ネコ市ネコ座」実行委員会は、岐阜県大垣市の情報科学芸術大学院大学などの
有志からなる。2014年2月、岐阜市に保護猫カフェ「NECO REPUBLIC」
オープン。各地で猫をテーマとしたフェスティバル「ネコ市ネコ座」を
開催しているようです。



会場は新風館のパティオ。新風館は1926年(大正15年/昭和元年)にできた、
京都中央電話局の建物を商業施設としてリノベーションされたもの。
タイル壁が特徴的な洋館で、建物は市有形文化財の指定を受けているのだが
2019年の開業を目指して、ホテルとの複合施設に生まれ変わるようだ。
もちろんレトロな建物はデザイン的な価値が高いため、大半を残す方向で。

イベント当日は無情の雨。それでも多くの方が集まっていました。



フェスティバルらしく、ステージではトークショーやライブをやって
いましたが撮影禁止だったので、写真や動画はありません。(^_^ゞ

「ネコ市ネコ座」、京都では昨年秋に続いて今回が2度目かな?
今回のテーマは『野良猫を「さくら猫」にして殺処分ゼロに!』でした。
『さくら猫』とは、野良猫を捕えて、不妊手術をした証明として耳先をV字
カットした後、元の生活圏に戻された猫のことです。
耳がちょうど桜の花びらに見えるから、この呼び名が付いたのでしょうね。



京都市では数年前から「まちねこ活動支援事業」って取り組みを行っています。
地域に暮らす野良猫を住民の合意のもと、地域のルールに基づいて適切に
猫を飼養するため、避妊去勢手術を市が負担して行うという事業です。
自治体の取り組みとしては画期的とされ歓迎されたのですが・・・
反動?今年になり、野良猫に不適切な餌やりをしたら、5万円以下の制裁金!
京都市議会で審議されている「動物による迷惑等の防止に関する条例」が
波紋をよびました。俗称「野良猫餌やり規制」なんて言われて・・・
結局先月、修正案が可決されました。
中身は変らず名称を「迷惑」→「マナー」にしただけの「動物との共生に
向けたマナー等に関する条例」、施行日を4月1日から7月1日に延期。
罰則は原案通り10月1日から施行されます。

・・・

イベントは主催者側は大成功。とされていましたが、私が見たところイマイチ
盛り上がっていなかったような・・・(^_^ゞ ま、雨降りでしたからね。


この後、ト一食堂に向かったのですが、界隈をうろうろしながらね。




〈水口弥〉
以前は田中屋、それ以前は笹屋?アーチ飾りの頂点には○に「さ」の字の
マークが刻まれています。明治40年(1904)築のようですから111年前。
よく残っているものですね。
のれん・座布団の専門店で、隣りの土蔵とは内部で繋がっています。




この建物はご存知の方も多いでしょうね〈京都府立京都文化博物館別館〉です。



日本銀行本店(東京都中央区・1891年)や東京駅(1914)を設計された
辰野金吾氏の作品です。日本銀行京都支店・明治39年(1906)築。





よく似ていますが、こちらの方が数年早く建てられた吉井茂則氏設計の
〈京都中京郵便局〉明治35年(1902)。




昭和51年に着工し3年後に内装だけ新築する「ファサード保存」で、今も
現役の郵便局。いわゆる「外壁保存」という手法の第一号です。
土日でも入れる資料室があるので、立ち寄ってみてください。
私も姉も年賀状時期にここでアルバイトを経験しています。(^_^ゞ





〈日本生命京都三条ビル〉大正3年(1914)。
これも辰野金吾氏の手によるものです。かなり苦しい保存の仕方ですねw
東側の一部を残して、西側は壁面だけ・・・奥には煉瓦も露出しています。
というのは、煉瓦造りの建物に石貼りを施す手法で造られたものだから。

それにしても電線、何とかならんかな・・・!


レンズフィルターに雨粒が付いたまま撮ってしまいましたが・・・

〈雑貨カフェ まるさんかくしかく〉
こんなん出来てました。開店1周年だそうです。もとは木綿問屋だったかな
築100年は超える商家でした。
雑貨、カフェ、レストラン、ギャラリー、美容室が一式まとまって入っている
複合店舗になっているようです。これをプロデュースされたのは、東京で
元祖カリスマ美容師としてヘアスタイリスト界に君臨している方だそうで、
生まれが京都・西陣なんだとか。うんざりするほどソレっぽい?

ト一食堂の帰りにデザートでもと思ったのですが、若い観光客がスマホで
話題のお店とか検索して来てるって感じのお店・・・賑わってたけど。
こりゃ、私のような者が入るところじゃ無さそうだなと。(^_^ゞヤメタ



2015.3/29、○△□。

名残の堀川、名残の桜。

2015-04-14 23:51:24 | 京都徘徊記
京都の南北の通りでは一番広い堀川通、その東側に、北は今出川通り、南は
御池通の川底?を2002年から2009年までかけて整備した遊歩道があります。



平安京の造営の際、運河として造られたのが堀川の起源。長く水を湛えていた
はずなのだが、昭和30年代には水源が絶たれ平成21年に親水公園として蘇るまで
堀跡ってイメージでした。親に聞いた話では友禅の川流しもやっていたとか。



堀沿いには遅咲きの桜を中心に沢山の桜が植えられているので、桜シーズン
最後の時季を遊歩道から愉しむことができます。
ここなら信号機も無いし、自転車もまず降りてこない。それに何と言っても
観光客の姿をほとんど見ることはない。
たまに写真を撮りに来ている人がいますが・・・(^_^ゞ



観桜スポットとして有名な元離宮二条城の桜が終わりかけた頃、
こちらの遅咲きが見頃を迎えることになります。











〈夷川橋〉
もともと川でしたから、橋がいっぱい架かっています。



全行程を歩いて、13本の小橋を見ながら歩くのも風流かと・・・

北から元誓願寺橋、一乗戻橋、堀川第一橋(上立売通)、上長者町橋、
下長者町橋、出水橋、堀川第二橋(下立売通)、椹木町(さわらぎちょう)橋、
丸太町橋、竹屋町橋、夷川橋、二条橋、押小路橋。


〈竹屋町橋〉            〈下長者町橋〉


〈丸太町橋〉            〈椹木町橋〉


〈二条橋〉           







ここの石垣は国の史跡に指定されているので、お見逃しなく・・・








二条橋の北側には「是ヨリ北紀州」と読める刻印があったり、21箇所で
刻印が確認できるそうです。探してみますか・・・難易度高し!


左右の石垣は一目瞭然、違います。東側は歴史的価値は無し?







オッと、一陣の風が・・・ちょっとわざとらしい?(^_^ゞ やらせ疑惑?

そんなことは忘れて、水辺の散策を愉しみましょう♪








〈出水橋〉






まった~り愉しめる穴場、お弁当をたべてもよし、物思いに耽るのも・・・







2015.4/11、堀川遊歩道にて。