涼しいが陽があり、JA湘南へ行って帰ってきたら汗が出て、まあ、風呂に入ってやけにさっぱりしたけどね。
行きがけに先輩のところへ寄って桃を置いてきたら喜んでいた。
20個を美味いうちに喰い切ることは不可能なのでお裾分けだ。
昔は、近所や父母の知り合いのところから始終何か届いたが、今はその頻度が極端に減った。
モノの遣り取りは心の遣り取りの可視的な部分だから、それだけ人と関わりが減った社会になったということだ。
慌てて政府が予算を取り税金をNPO法人に渡して対応をするが、高コストである上に公金チューチューだから実効性など疑わしい。
これって西欧のシステムを真似したんだけど、日本のシステムをよく観察して、有効なところにカネを使えば、まったく違ったやり方で大きな成果が得られる可能性がある。
まあ、明治になってからの外国崇拝の残滓が根強くあるけど、江戸時代のように、窓口を絞って入ってきた情報をよく吟味咀嚼して対応すれば上手く行っていたのにね。
明治維新のような革命が駄目だってのは、フランス革命を分析したエドマンド・バーグを読めば直ぐに分かることで、今まであったことを全否定して、新たにシステム作るとなると、人間の能力は限られているから、今まであったレベルまでするのに多くのカネと労力と時間がかかり、碌なことにならない。
今やっていることを良いことと悪いことに分別して、悪いことを修正して行くやり方、いわゆる保守主義は辛気臭くて、革命のように派手で潔くないけど、このやり方のほうが100倍も優れているように思う。
この辛気臭さを解消する知恵が祭であり、この期間は日常の掟を逸脱して、価値観も逆転させる。
祭の後は、かつての辛気臭かった日常が瑞々しく感じ、再びうんざりするまで生産性の高い日常を生きればいい。
昔は日本もビンボーで、庶民が毎日酒を飲むなんてことが考えられず、家でも1日と15日に、父と祖父がお神酒を神棚にあげて、お下がりをいただいていた。
それが祭の日には4斗樽を買って、朝から飲んでいられたわけだから、酒飲みにとっては待ちに待った日なわけだ。
ところが今は豊かだから、毎晩紅灯の巷を徘徊し、祭で振る舞われる酒なんて見向きもしない。、
肴にしたって、やれフォアグラだ、キャビアだ、雲丹だ、イクラだ、鮑だ、イセエビだと毎晩のように喰っていたら、祭の席に出される料理がみすぼらしい。
要は日常に非日常が入り込んでしまったために、非日常性が演出できなくなっているのが現代だ。
さて、これを如何にするか。
ともあれ、今日夏祭りが始まった。
子供のころから祭が苦手で神輿を担いだこともなく、家の前を神輿が通り過ぎるのをそっと影からやり過ごしていた。
かといってお祭り騒ぎは大好きで、ディスコや合コンなど、みっともないくらいに我を忘れて騒いだ。
要は、騒ぎ方が細分化し常態化し、テキヤのように移動しなくても箱モノの中で非日常を作って置けば、安定してカネ儲けになるってことか。