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函館市とどほっけ村

法華宗の日持上人にまつわる伝説のムラ・椴法華。
目の前の太平洋からのメッセージです。

話題3つ

2012年12月16日 14時56分34秒 | えいこう語る
※波がこのような状態になると、ウニ漁がある。カモメが散歩していた。


犬猫病院の医師から聞いた話だ。
開業の業績が上がるのは、30代から50代までの間だそうだ。
若ければ信頼感を持たれないし、年配になると腕が鈍っているのではないかと思われるからだという。
酸素ボンベをそばにおいて、鼻にチューブを差し込んでいた高齢の先生がいた。
ある日犬を連れて診察に来た女性に、言われたという。
「先生、私は犬より、先生が心配です」。

世界3大夜景から函館市が外され、代わりに長崎が入った。
函館市長は選考基準があいまいだから、問題外だと興奮していた。
長崎出身で、函館に嫁いでいる女性に聞いた。
「夜景は長崎より函館がずっときれいだ」と。
町会連合会の新年会で市長に逢ったら、お年玉代わりにそう伝えてやろう。

以前、私は函館市内の文系のサークルに所属していたことがある。
その仲間の女性が、雑誌「文學界」の、今年度上半期同人雑誌優秀作に選ばれた。
昨夜、そのお祝いの会があり出席してきた。
男性は私と講師の二人で、女性は5人だ。
お酒がはかどらないほど話は盛り上がり、作品についての合評から昂じて、セックスの話に及ぶ。
自分たちでは文学的話題と思っているが、他のお客様もいる。
中年の男女の、猥らな会話と思われるだろう。
そこで私がサークルに入っていた時に発案したのだが、セックスとあからさまに言わないで「S・E・X=エス、イ・エックス」と呼ぶという決まりだ。
昨夜はそのS・E・Xで盛り上がった。
この手の話題や描写になると、なぜか女性陣は饒舌になり、男性陣は歯切れが悪くなるのだ。
今回の入選者も、S・E・Xの描写がなかなか素敵な女性だ。
「文學界」11月号P-200が彼女の作品である。


北朝鮮ミサイル発射

2012年12月13日 12時16分20秒 | えいこう語る
ミサイル解体を装い抜き打ち発射とは、相変わらず自己の存在を誇示したい、小国・北朝鮮の得意技のようだ。
周囲を驚かすことが、自国の権威のように思っているのだろう。
だが、面積が大きいが小さいが国家は国家だ。俺だってこのぐらいにことは出来る。「なめたらあかんぜよ」という抵抗精神が、この国が持ち続ける国威発揚に違いない。
米国の主張する「テロとの戦い」は、ミサイル攻撃で多くの犠牲者を出している。世界の警察と称しているが、どの国もはっきりいわないが、世界一の暴力団ではないか。
日本だって種子島で発射しているではないか。それに衛星ロケットの開発は「平和利用のためにのみ」という条文を、いつの間にか削除してしまったではないか。昔からあの国は、実にずるがしこい国家なのだ。
我々が国民の生活を豊かにするため、原発を作ろうとすれば、核保有ではないかと、とやかくいう。世界の警察と自認する国は、土足で上がってきては家宅捜査を始め、失敬この上もない。
※川に上る鮭が息絶えるのを待つカラス。カラスにとっては、晩秋の楽しみなご馳走なのだろう。


日本は広島・長崎の原爆投下があったにもかかわらず、地震の多い小さな島に、54基もの原発を作った。
「世界の警察」の犬といわれているが、つくり過ぎではないか。
解体もままならない状態で、ついに福島で事故を起し、世界中に放射能をばら撒いているのに、なんの制裁もないのではないか。
さらに、大間原発という地球で最大規模の危険な原子炉を建設するというのは、いかがなものか。
我々の国のミサイル発射は「宇宙の平和利用」だ。
他がやっていて、我々だけがだめだというのは、不公平極まりない。
かつて日本は我が国を侵略し、無理やり「吸収合併」した。今でも市町村合併は得意だそうだが。
38度線で分断され、我が国が兄弟と戦わなければならなくなったのもたのも、もとはといえば、日の丸の国のせいだ。
日本海を越えて、あの国の選挙戦の声がかすかにだが聞こえてくる。
耳を澄ませば「憲法改正・自衛軍復活・核保有」そう叫んで、戦のできる国家に戻そうとしているようだ。
こんな国をのさばらせては、世界平和のためにならない。
日本国民の多くは、先の戦争を深く反省し「憲法第九条」を、守ろうとしているが、悪いのは政治家だ。今回の選挙結果によっては、また侵略国家として復活するかもしれない。
ここは、過去に侵略された国を代表し、厳重な注意を与えなければならない。
今回の衛星ロケット名は「テポドン」(日本がかつて侵略した時の、鉄砲ドンをもじったもの)ではなく「警告」と名付けよう。
それでは「地球の恒久平和のために・・・マンセイ!」と、スイッチを押した所で、目が覚めたのだ。
意外とスッキリした目覚めになった。
今日で4日、ウニの出漁は延期になった。
明日なのか明後日なのかわからないが、今年中には確実にスタートのボタンが押され、前浜は戦場と化す。
舟内に積み重なるウニは、まるでクラスター爆弾のようだが、この弾は割れても、中からは「幸せ」が飛び出してくるのだ。


衆議員選挙と大間原発

2012年12月12日 11時48分23秒 | えいこう語る
寒風吹きすさむ北の漁村に、立候補者の連呼が響き渡る。
前日民主、昨日は自民だ。自民単独過半数確実などという報道が流れれば、連呼の声も自民の音量が高く聞こえるのは、気のせいであろうか。
前浜の今年は、近年にない大不漁だ。漁師やその家族は、浜の景気が悪い腹立ちを、政権与党のせいにしやしないかと、そんな単純な思いにも駆られる。
民主の候補は現職だが、選挙区外の農村部からの落下傘候補だ。
片や自民は、函館とは歴史的につながりのある、漁師町、松前の元町長だ。
港函館の漁民たちは、どちらが組み易し、と思うのだろうか。などと、漁師の気持ちになって考えてしまう。
民主の候補は、大間原発反対を唱えているが、党が推進を決めたのは、漁場が津軽海峡の漁師にとって、国が喧嘩を売ったようで絶対不利だ。
対する自民の候補は、原発ゼロを口にするが、争点をぼかしている。
自民の総裁が主張する、憲法改正、自衛軍の保持と来れば、ジャンプは核兵器保有と来るのは必至だ。
例えどちらに入れても、大間原発は建設中止にならないだろう。
私たち函館の有権者にとって、今回ほど命の危険を意識する選挙はない。
つまり今回の選挙は、やがて起きるだろう原発事故と直結してくる感じがするからだ。
※まるで山脈のような雪雲だ。


そんな中、ふと遠い記憶がよみがえって来た。
近隣の町での交通事故の話だ。事故にあった男性が入院し、事故を起こした女性が見舞いに出かけた。神のいたずらかどうか知らないが、お互い夫婦者だったにもかかわらず、駆け落ちしたという事件だ。
この場合、事故は偶然だったが、二人が出逢うというのは必然だったのではないか。
必然がちょっと離れて生活していて、それが偶然(事故)により、必然たらしめたという他に、考えようがないような事象だ。
事故という偶然は、必然を呼び出すための、重要な要因ではないだろうか。
私も過去に起こした交通事故を冷静に分析すれば、事故を誘引する要素は少なからず自分の心に、目立たぬよう発生していたのは自覚している。
この駆け落ちの二人、お互いに夫婦間に亀裂が入っていたというよう要因があり、偶然が必然を引き寄せたのではないだろうか。
そんなことを思い出しながら、現在建設中の大間原発を比較してみた。
世界初のフルMOK燃料を使用する、実験炉ともいうべき未熟な原子炉。
私たちの一票で、世界最大級という原発事故の必然性は、より現実味を帯びてくるのだ。
一票の重さが、これほどまで私たちにのしかかる選挙は始めてである。
原発事故という悪魔の誘惑に手を貸さない強い精神が、「清き一票」といわれる所以なのかもしれないと思う、風が出始めたため今日もウニ漁が中止になった、寒い朝である。
投票日まで、カウントダウンが始まったようだ。
カウントダウンの鐘を打ち鳴らしているのは、悪魔か、はたまた天使か。


選挙と原発

2012年12月11日 13時07分20秒 | えいこう語る
昨日、午後5時頃、我が村が部分的な停電にみまわれた
風もなく雪も降っていないのに、事故原因はわからない。
私たちのような小さな地域でも、電気の配線系統はいくつかに分かれているようだ。事故の時、対処しやすいということなのだろう。
私の周辺は30分ほどで復旧したが、他は1時間以上も停電した。
私の町会も3分の2ほど停電しているので、老人家庭を見回った。
停電では電気ストーブは使えない。ロウソク一本で、衣服を着込み不安がっている老夫婦がいた。
近くのお寺から、ポット式ストーブを借りて暖を取ってやったが、電気の無い過疎の村は、さながら、作家・横溝正史のおどろおどろしい世界だ。
玄関を開け「とうさん・・・かあさん・・・大丈夫か」と叫ぶ。部屋は真っ暗で応答が無い。
老夫婦のことだ、たぶん耳が遠いに違いない。さらに大きな声で叫ぶ。
「とうさん・・・かあさん・・・」
ところがとうさん、何かを探すために歩き回り、私のすぐ右側に立っていたのだ。
「ぎゃー」という声を上げたかどうかは定かではないが、私の身の毛が完全によだったのだ。過疎の村の停電は、まさしく恐怖そのものなのだ。
※隣の老夫婦からもらったカニシャボテン。暗い世にあって、シルクのような光沢の白い花が咲いた。


マスコミ報道では、どうやら自民党が単独過半数の勢いを示している。
“経済優先”を国民は選択し、“原発推進・憲法改正”を容認するようだ。
原発推進で停電はなくなりそうだが、大間原発が完成し運転稼動でもしようものなら、周辺の私たちは、電気がこうこうと照らされようが、心は闇の世界へまっしぐらだ。
8年程前に函館市と合併した時、私たちの地域にも光回線の導入の話があったが、市の負担率が大きいということで頓挫した経緯がある。
だがつい最近、関連法律が改正されたのかどうか定かではないが、急遽光回線の工事が始まったのだ。その作業車のナンバーは、なぜか本州ナンバーだ。
先日、民主党の細野原発担当大臣が来函し「自民党の時は、40年も北海道に新幹線を持ってこれなかった。私たちはすぐやった」と、街頭で大声を上げたという。
経済は底冷えし、さらに今年の冬は異常気象の様相を呈している、荒れ模様の我が北海道。そこにきて、計画停電の準備をさせるかのような停電。
部屋の電気を消し、ロウソクの灯りの中で全神経を集中し考えた。
「新幹線札幌延伸」・「光回線工事開始」・・・?
こんなのがロウソクの炎の中に見えた。
それらと引き換えに、泊原発再稼動を承認したはるみ知事の笑顔と、その後ろにかすかではあるが、函館のとしき市長らしき笑顔が見えたような気もした。
「人間の魂は、かつて真理の国にいて真理をはっきり見ていたが、今や現象の国に生まれて、真理をはっきり見る目を失った」
誰が言ったのか忘れていたが、今朝、私の古いノートを開いたら、そこに書いてあった。
プラトンだ。
マスコミの選挙報道で「プラプラトントン」になってしまい、真理眼がますます曇り続ける、今朝の私だ。
雪が舞い降りてきた。今日もウニ漁は中止だ。


笑の大学

2012年12月10日 09時27分08秒 | えいこう語る
三谷幸喜原作の映画「笑の大学」は、チャップリンをはるかに越えるに違いないと思われる、喜劇と悲劇が入り混じった秀作だ。
言論や表現の自由が許されぬ時代は、悲劇そのものだ。
戦時中、喜劇作家と警察の検閲官との対決を描くこの作品。
喜劇作家は何度となく書き直させられる。そのたびに逆説的手法で笑いを取ろうとするが、検閲官は認めない。笑いを封じ込められるほど、笑いが増殖していくのだ。もともと笑いを封じ込める自体が、喜劇だと気がつく。
自分の仕事を忠実にこなせばこなすほど、検閲官が喜劇を演じている側に回り、喜劇作家のほうが悲劇的に感じるという、三谷氏のパラドックスが絶妙に展開する。
やがて検閲官が喜劇のよさを理解するのだが、映画の最後は、作家に「赤紙」が届き、軍隊に召集されるのだ。
許可された作品は、熾烈な権力と庶民との戦いの結果で生まれた、笑の高学歴的な作品であったのに、全てが戦争のために無意味になるのだ。
そこで、最高の悲劇と喜劇を演じれる役者は、国家であることを示唆するのだ。
さて、人類破滅の原発を推進するのは、間違いなく悲劇だ。
その国家権力に挑む庶民も、悲劇的に違いない。
しかしこの作品、悲劇を打ち負かすのは喜劇であり、悲劇の権化、国家権力を喜劇にしなければ、平和はやってこないというメッセージがある。
※10日ほど前から、この位置から動かなかった鮭。


※昨日死んでいた。同じ位置なので、同じ鮭だろう。やっと戻ってきた故郷の川。伴侶は探せなかったようだ。お腹が膨れたままだ。


福島原発の事故、いまだ復旧していないのに推進する政府は、むしろ喜劇だ。
財界や米国の検閲にあっているから、反対は許されないのだ。その点は悲劇だ。
今回の選挙、国民が選びきれないほど、そこそこ笑いのとれる役者がそろっているのは、やはり喜劇なのだ。
しかし、未来が笑えない結果が出そうな感じもするのは、悲劇なのかもしれない。
三谷氏は、国民に悲劇を喜劇に変える武器に、笑いというエネルギーがあるのだという。
ノダさんかアベさんか。二人を比べてみると、ノダさんの方が悲劇も喜劇も演じれそうだが、アベさんは喜劇が三流で、悲劇は演じきれないタイプのようなだ。
しかし、演技力がありすぎるコイズミさんのような役者も、笑いだけ取って観客をどん底に引き落とす、嫌な感じがする。
はし下さんや大元帥閣下は、登場人物としてはキャラがたち笑いは取れるが、主役では観客に悲劇的な台詞をはき、笑が決して上手な役者とはいえない。
後の顔ぶれも、そこそこの役者だ。
今回の「選挙・笑の大学」。三谷氏は、どんな結末で考えているのだろうかと思って映画を観ていたら、結構笑えてしまった。
原発反対運動も、悲劇を喜劇に変える庶民のエネルギーを発揮することで、乗り切れそうだとこの映画は示唆しているような気がした。
翻って、我が函館市の工藤市長。
「大間原発は無期限凍結、しかし、反原発や脱原発ではない」という、極めてひねりの効いた台詞をはいた。
私には市長が悲劇と喜劇を繰り返す、役所広司が演じる、極めてキャラクターの複雑な検閲官役に見えた。
しかし、映画は最後には喜劇で終わるのだ。結果はそれでいいのだ。
世の中、悲劇と喜劇で成り立っているのだろうが、今度の選挙、笑えない結果であれば、再度、国民は脚本を書き直さなければならない。
日本という国家の脚本家は、庶民だからだ。
三谷幸喜的ブログを書いてしまった、決して悲劇的ではない今日の私だ。