三谷幸喜原作の映画「笑の大学」は、チャップリンをはるかに越えるに違いないと思われる、喜劇と悲劇が入り混じった秀作だ。
言論や表現の自由が許されぬ時代は、悲劇そのものだ。
戦時中、喜劇作家と警察の検閲官との対決を描くこの作品。
喜劇作家は何度となく書き直させられる。そのたびに逆説的手法で笑いを取ろうとするが、検閲官は認めない。笑いを封じ込められるほど、笑いが増殖していくのだ。もともと笑いを封じ込める自体が、喜劇だと気がつく。
自分の仕事を忠実にこなせばこなすほど、検閲官が喜劇を演じている側に回り、喜劇作家のほうが悲劇的に感じるという、三谷氏のパラドックスが絶妙に展開する。
やがて検閲官が喜劇のよさを理解するのだが、映画の最後は、作家に「赤紙」が届き、軍隊に召集されるのだ。
許可された作品は、熾烈な権力と庶民との戦いの結果で生まれた、笑の高学歴的な作品であったのに、全てが戦争のために無意味になるのだ。
そこで、最高の悲劇と喜劇を演じれる役者は、国家であることを示唆するのだ。
さて、人類破滅の原発を推進するのは、間違いなく悲劇だ。
その国家権力に挑む庶民も、悲劇的に違いない。
しかしこの作品、悲劇を打ち負かすのは喜劇であり、悲劇の権化、国家権力を喜劇にしなければ、平和はやってこないというメッセージがある。
※10日ほど前から、この位置から動かなかった鮭。

※昨日死んでいた。同じ位置なので、同じ鮭だろう。やっと戻ってきた故郷の川。伴侶は探せなかったようだ。お腹が膨れたままだ。

福島原発の事故、いまだ復旧していないのに推進する政府は、むしろ喜劇だ。
財界や米国の検閲にあっているから、反対は許されないのだ。その点は悲劇だ。
今回の選挙、国民が選びきれないほど、そこそこ笑いのとれる役者がそろっているのは、やはり喜劇なのだ。
しかし、未来が笑えない結果が出そうな感じもするのは、悲劇なのかもしれない。
三谷氏は、国民に悲劇を喜劇に変える武器に、笑いというエネルギーがあるのだという。
ノダさんかアベさんか。二人を比べてみると、ノダさんの方が悲劇も喜劇も演じれそうだが、アベさんは喜劇が三流で、悲劇は演じきれないタイプのようなだ。
しかし、演技力がありすぎるコイズミさんのような役者も、笑いだけ取って観客をどん底に引き落とす、嫌な感じがする。
はし下さんや大元帥閣下は、登場人物としてはキャラがたち笑いは取れるが、主役では観客に悲劇的な台詞をはき、笑が決して上手な役者とはいえない。
後の顔ぶれも、そこそこの役者だ。
今回の「選挙・笑の大学」。三谷氏は、どんな結末で考えているのだろうかと思って映画を観ていたら、結構笑えてしまった。
原発反対運動も、悲劇を喜劇に変える庶民のエネルギーを発揮することで、乗り切れそうだとこの映画は示唆しているような気がした。
翻って、我が函館市の工藤市長。
「大間原発は無期限凍結、しかし、反原発や脱原発ではない」という、極めてひねりの効いた台詞をはいた。
私には市長が悲劇と喜劇を繰り返す、役所広司が演じる、極めてキャラクターの複雑な検閲官役に見えた。
しかし、映画は最後には喜劇で終わるのだ。結果はそれでいいのだ。
世の中、悲劇と喜劇で成り立っているのだろうが、今度の選挙、笑えない結果であれば、再度、国民は脚本を書き直さなければならない。
日本という国家の脚本家は、庶民だからだ。
三谷幸喜的ブログを書いてしまった、決して悲劇的ではない今日の私だ。
言論や表現の自由が許されぬ時代は、悲劇そのものだ。
戦時中、喜劇作家と警察の検閲官との対決を描くこの作品。
喜劇作家は何度となく書き直させられる。そのたびに逆説的手法で笑いを取ろうとするが、検閲官は認めない。笑いを封じ込められるほど、笑いが増殖していくのだ。もともと笑いを封じ込める自体が、喜劇だと気がつく。
自分の仕事を忠実にこなせばこなすほど、検閲官が喜劇を演じている側に回り、喜劇作家のほうが悲劇的に感じるという、三谷氏のパラドックスが絶妙に展開する。
やがて検閲官が喜劇のよさを理解するのだが、映画の最後は、作家に「赤紙」が届き、軍隊に召集されるのだ。
許可された作品は、熾烈な権力と庶民との戦いの結果で生まれた、笑の高学歴的な作品であったのに、全てが戦争のために無意味になるのだ。
そこで、最高の悲劇と喜劇を演じれる役者は、国家であることを示唆するのだ。
さて、人類破滅の原発を推進するのは、間違いなく悲劇だ。
その国家権力に挑む庶民も、悲劇的に違いない。
しかしこの作品、悲劇を打ち負かすのは喜劇であり、悲劇の権化、国家権力を喜劇にしなければ、平和はやってこないというメッセージがある。
※10日ほど前から、この位置から動かなかった鮭。

※昨日死んでいた。同じ位置なので、同じ鮭だろう。やっと戻ってきた故郷の川。伴侶は探せなかったようだ。お腹が膨れたままだ。

福島原発の事故、いまだ復旧していないのに推進する政府は、むしろ喜劇だ。
財界や米国の検閲にあっているから、反対は許されないのだ。その点は悲劇だ。
今回の選挙、国民が選びきれないほど、そこそこ笑いのとれる役者がそろっているのは、やはり喜劇なのだ。
しかし、未来が笑えない結果が出そうな感じもするのは、悲劇なのかもしれない。
三谷氏は、国民に悲劇を喜劇に変える武器に、笑いというエネルギーがあるのだという。
ノダさんかアベさんか。二人を比べてみると、ノダさんの方が悲劇も喜劇も演じれそうだが、アベさんは喜劇が三流で、悲劇は演じきれないタイプのようなだ。
しかし、演技力がありすぎるコイズミさんのような役者も、笑いだけ取って観客をどん底に引き落とす、嫌な感じがする。
はし下さんや大元帥閣下は、登場人物としてはキャラがたち笑いは取れるが、主役では観客に悲劇的な台詞をはき、笑が決して上手な役者とはいえない。
後の顔ぶれも、そこそこの役者だ。
今回の「選挙・笑の大学」。三谷氏は、どんな結末で考えているのだろうかと思って映画を観ていたら、結構笑えてしまった。
原発反対運動も、悲劇を喜劇に変える庶民のエネルギーを発揮することで、乗り切れそうだとこの映画は示唆しているような気がした。
翻って、我が函館市の工藤市長。
「大間原発は無期限凍結、しかし、反原発や脱原発ではない」という、極めてひねりの効いた台詞をはいた。
私には市長が悲劇と喜劇を繰り返す、役所広司が演じる、極めてキャラクターの複雑な検閲官役に見えた。
しかし、映画は最後には喜劇で終わるのだ。結果はそれでいいのだ。
世の中、悲劇と喜劇で成り立っているのだろうが、今度の選挙、笑えない結果であれば、再度、国民は脚本を書き直さなければならない。
日本という国家の脚本家は、庶民だからだ。
三谷幸喜的ブログを書いてしまった、決して悲劇的ではない今日の私だ。