goo blog サービス終了のお知らせ 

函館市とどほっけ村

法華宗の日持上人にまつわる伝説のムラ・椴法華。
目の前の太平洋からのメッセージです。

トーンダウン

2012年12月22日 12時28分25秒 | えいこう語る
永田町界隈では、3年前に政権交代を遂げた若い狐が跋扈していたが、時折大嘘をつく狐はどうやら化けの皮が剥げ、尻尾を巻き退散したようだ。
と思ったら、今度また古狸が大手を振って戻って来たという感じだ。
テレビ出演に、昔の顔ぶれが多くなって来た。久しぶりの登場なので、なんだかウキウキして、言葉が軽い感じがしてならない。
リバイバル上映の時代物を観るようで、また同じものと思えば、テレビも消したくなるというものである。
原発は続けるは、憲法改正し自衛軍の創設では、また戦争物シリーズの繰り返しではないかと、勘ぐってもしまう。
自民党のテーマ曲は、やはり「軍艦マーチ」なのだろう。
「取り戻す・取り戻す」と、シンゾウ君が叫ぶのは「大和魂」や「神風」なのではないか。
やけにドスの利いたような顔つきのイシバちゃん、与党に戻ったら近寄る者を噛み付くような気迫がある。
今回の古狸チームは、狂犬病の予防接種を義務付けた方がいいような気もする。
日銀のおとなしそうなワンちゃんも、出戻りシンゾウ君に吠えられ、萎縮してしまったようだ。間もなく住み慣れた犬小屋を追われ、シンゾウ君に尻尾を振る座敷犬がやってくるに違いない。
この狸チーム、いつまで騙し続けられるか、国民も一度政権交代をさせ、自らが赤っ恥をかいてしまっただけに、二度と再び甘い言葉に惑わされはしないだろう。
病気から回復したって、シンゾウ君の脳みそは進化したとは思われない。
むしろ病気が悪化して、昔のことばかり思い出して、テンションが上がり過ぎて、血圧を高くしているように見えるからだ。
イシバちゃんにしても、あの赤ら顔は、自信と共に血圧も高そうだ。
そこに、やけにキャラが立ちすぎる太郎ちゃんも復活しそうである。ミゾユウの政治混乱を巻き起こす気配がしてくる。さらにまだまだ、昔のベテラン役者が復活するようだ。
もし、昔と同じ臭い芝居をみせたら、来る参議院選挙という舞台で、ブーイングを浴びせることである。
たくさんの木戸銭(税金)を払って、いつまでもくだらない政治劇を見させられては、国民の脳みそまで腐ってしまうからだ。
でも、今回の自民党圧勝というのは、すでに国民が“経済成長”という、古狸の得意技に、再び騙されたのかもしれない。
今日22日は、マヤの予言では地球が滅亡するという。
「外交と経済は切り離せない、それには防衛力強化でゴザイマス」と、シンゾウ君が吠える。最後は「核保有」に行き着くのだろう。
マヤの地球滅亡の予言とは「核戦争」ではないかと思う。
地球上のどこかの国が核ミサイルを撃つと、疑心暗鬼にとらわれた各国は、一斉に核ミサイルを発射させる可能性もある。そうであれば、人類は地下に潜るより生きる道はないようだ。
マヤ帝国も地上から消え去ったのは、地下に潜ったのではといわれている。。
経済優先の人類は滅びるというのが、マヤの真の予言らしい。
※出漁したかった沼のような海だ。


午前4時50分に外に出た。波平らかにして無風。戦闘準備だ。
5時30分、再び外へ。雨が降ってきてウニ漁は中止になった。
今夜もウニ丼にありつけない。
選挙以来、天候も不順で、トーンダウンが続く毎日だ。


風と凪

2012年12月21日 14時15分59秒 | えいこう語る
風の中には虫がいるが、この虫は風雲に乗る“たつ=龍”のことだ。
この虫が動くので風が吹くのだろう。いなくなると風が止み、凪(なぎ)になるのだ。
なるほどと思うが、日常生活ではさほど意識もしない出来事だろう。
ところが、ウニやナマコを磯舟で漁をする時になると、この風と凪の微妙なバランスが、出漁の目安になるのだ。
12月10日から解禁になったウニとナマコ漁、波打ち際からおおよそ30メートル以内の近海で行う漁なので、微風ならいいが少し風が吹いてくると、波が立ち、小さな舟は揺れて漁は困難になる。
大きな水中眼鏡で海をのぞきこんでいるので、舟が揺り動くと眼鏡が顔にぶつかり、舟べりに胸を打つし、舟酔いもしやすくなるのだ。
「冬の海 ひねもすのたり のたりかな」
そんな願いを心に秘め、朝早くから出漁の合図を待っているのだ。
出漁を決定する漁師を“旗持ち”という。
昔は旗竿に旗を掲げ、出漁したからだ。
今は鉄塔の上の回転灯が回ると、出漁中止だ。
回転灯が回らないと、出漁1時間前に「本日出漁」の無線放送が流れる。
暗闇の村は、一斉に漁師のトラックが港に向かって走り出し、戦闘開始の準備が始まるのだ。
以前、出漁時には「軍艦マーチ」が港に流れたという。さぞかし士気は上がったに違いない。先人たちには実におおらかな人が多かったようだ。
クラッシック・演歌・カンツォーネ・R&B、リクエストで、流してほしいものだ。そうすると少しは寒さも和らぐだろう。
※石楠花も直立不動の寒さかな     三等下


ところで、岩や砂の保護色で、身を潜めるナマコを探すのは、なかなか難しい。
ナマコという漢字は、海のネズミで海鼠だ。姿かたちはそのようだ。
ほとんど動かずにプランクトンだけを食べているように思う。腸が長く、それが“このわた”という、酒の珍味になる。
ウニと“このわた”の肴であれば、今でも日本酒なら一升はいける自信はあるぐらいの優れものだ。
この海鼠、敵から襲われたらどうするのかと思ったら、その腸を吐き出しそれを敵が食べてる隙に移動するという。もし身体の一部をちぎられても、IPS細胞のように、再生するという優れものらしい。
下等な生き物と思っていたが、実はそうではないということを知った。
ウニもナマコも、縄文時代の人も食していたような気がする。
これだけの肴があったなら、もちろん縄文酒もあったに違いない。
丸木舟がプラスチック舟になっただけで、寒さの中の漁と漁法は、さほど縄文時代とは変わりないだろう。
漁から帰ってから隣町の縄文露天風呂に入り、夜、船頭さんからいただいた、ウニとナマコを肴に酒を飲む。
我がサーフ・サイドも「蕗のとうが咲く前にOPENします」と、張り紙をした。
それまではしばし文明社会と縄文時代を行き来し、鋭気を養おうと思っている。
ナマコは海底でじっとしていて、無駄なエネルギーを使わないそうだ。
「世の中をかしこくくらす海鼠哉」
子規がそう歌っている。


思いやる心

2012年12月20日 11時25分53秒 | えいこう語る
会話の中で最も難しいには、相手が不幸に遭遇した時だろう。
慰めの言葉を必死で捜すのだが、相手の心の傷の深さに近づき、その傷を癒すなどというのは、至難の業だ。
話し終えてから、かえって傷を深くしてしまったのではないかという、不安に取り付かれることもある。
でも、自分の気持ちは伝えたのだから、相手は察してくれるだろうと思うのだが、大勢の人の善意がそのようであれば、相手には精神的な重圧となってしまうに違いない。
精神科医の香山リカさんが、このように言っている。
すべてをさらけ出すと気が楽になるというのは、かえって後遺症を残すことになりかねないと。
阪神淡路大震災で子を亡くした母親たちは、してほしくなかったことに「わかったふりの同情の言葉や押しつけがましい言葉を受けたこと」をあげたという。
反対にしてほしかったことには「そっとしてほしかった」をあげたという。
だが「そっとしてあげたかった」けど、悲しみのあまり不幸な出来事が重なったりしないかとの、周囲の思いやりがそこに働くのだ。
会話は極力避けて、ただ側に居るだけが望ましいのか、それさえもわからなくなる。自分が側にいるのが、果たして適任者なのかも判断できなくなるからだ。
自分自身と言葉の無力さを感じる、場面である。
※昭和30年代にはこの杉林の間から、向こうの山を越えて郵便配達は行き来していた。日本人の美しい姿が浮かぶような風景だ。


今月の7日に、東北と関東地方で震度5弱の地震が発生した時、私は車の中にいた。
津波警報が発令され「東日本大震災を思い出してください」と、極めて冷静に避難を呼びかけるアナウンサーの声が、繰り返し放送された。
私は、あの時の津波の映像を思い出し、臨場感溢れ適切な対応のアナウンスであるとラジオを聞いていた。
ところが、放送局に「当時のことを思い出してつらい」「もうすこし冷静なよびかけを」という苦情が寄せられたという。
だが緊急放送である。命を守るためには適切な対応だったと私は思う。
アナウンサーは、言葉を映像化したのだ。視聴者は映像が甦って、ことの重要性を理解したのだ。
適切な言葉ほど映像を描かせる。それ故に、言葉には凶器も潜む。
目でものを言うというのがあるが、私の目は、嘘をつきそうな目だと妻がいう。
こんな時は、文章で伝えるのがいいのかもしれない。
それも長文ではなく、俳句か短歌のような、真意がそこから膨らんできて、相手にとって、一番必要な映像を描かせるような、簡明な文章である。
とは思っているが、私はつい長い文章になってしまう傾向がある。
つまり、相手には映像を膨らみさせて、疲れさせてしまう可能性が大なのだ。
疲れ果てて深い眠りを誘えば、相手の精神が回復に向かうに違いないと考えれば、それはそれでよしとしようと思ったりもする。
そうでなければ、自分が疲れ果てるからだ。
思いやりというのは、人間関係で最も難しいものであるというのは、今回の衆議院選挙で落選した候補者が、一番実感していることだろう。
それにしても、とにかく今日も寒い朝だ。


命の選択

2012年12月18日 12時42分26秒 | えいこう語る
菅氏が首相時代、福島原発対応時のことを書いた本を読んでいる。
P-109の「覚悟」という題の文章が、原子力発電所というものの本質を物語っている場面だ。
『3月15日になり、事態がますます深刻になり撤退やむなしという考えが出ていた。総理の判断を仰ぐということになった。私は事故が収束できない場合首都圏まで避難区域が拡大し、国家の存続が危ぶまれると認識していた。収束しなければならないが、そのためには人命の損失も覚悟しなければならないと考えていた。“作業員・従業員の命が第一”というのは平常時には正しい。しかし東電の作業員が避難してしまうと、大量の放射性物質が放出され、日本は放射能という敵に占領されてしまう。特にプルトニウム239の半減期は2万4千年だ。
もはや戦争だった。放射能との戦いなのだ。全面撤退は日本という国家の崩壊だ。チェリノブイリは、有無を言わさず命令で動く軍隊を持っていたから、その人たちの命の犠牲が出ても、消火と石棺づくりができたのだ。我が国は、助かるか壊滅するか、二つに一つだ。「撤退はありえない」と私は言った』
※昭和30年代の昼食。こんなにおかずはなかったけど。このイモは厚沢部町の芸術作品ともいえる、メークインだ。春まで食べる分いただいた。


その菅氏、今回の小選挙区では落選し、比例で復活をした。
国民の命を必死で守った元首相のその選挙結果、心の中でどんな叫び声が発せられただろうか。
脱原発を公言しない自民党にあって、改憲と自衛軍の創設とは、単に外交や他国からの侵略を守るためではないように思える。
命を犠牲にして国家を守る存在を確保するのが、国家の有り様と思っていやしないだろうか。
安倍氏は、前首相時代にできず心残りなのは、靖国神社参拝だという。その真の目的は、ここにあるような気がしてきた。
「取り戻す・取り戻す・取り戻す」と、安倍氏は国民を洗脳するように叫んだ。
国家のために、命を捧げるような国民性を取り戻す、と叫んでいるのだろうか。
朝刊の一面には「危機突破内閣に」とある。
経済が疲弊し、自衛隊を軍隊に昇格し、国家の危機管理体制を強固にしようとする目論見は、以前世界中を恐怖に晒した誰かに、ちょっぴり似て来たような気がする
私がコント集団「ニュースペーパー」の脚本家だったら、二度目の首相の登場は、軍服にちょび髭をはやした設定にする。
誰かが何かをいうと、すかさず「ハイル・シンゾー」と右腕を高く上げるギャグばかり飛ばす、そんな役柄に。
菅氏に話は戻すが、比例区当選でテレビに出た時、その頭上に決して小さくはない毛髪の抜けた跡が見られた。
命の決断を迫られた、孤独な総理の一面を垣間見た感じがした。


294VS57and54

2012年12月17日 12時26分04秒 | えいこう語る
戦いが終り、自民党が294の単独過半数を確保し、大勝した。
政権交代で新しい日本の建て直しを期待された民主党が、57の大敗だ。
自公連立政権になると325だ。
政治経済がこれほど混迷すると、未来は見えなくなる。未来が見えないと誰もが不安になる。当然慣れ親しんだ過去への回顧が台頭してきたのだろう。
3番目に、維新の54が続くのも、なんだか不安要素のように思える。
※夜明けはまだだ。


過去への回帰が1945年以前に限りなく近づかないよう、目と耳の機能を最大限に活発化する、そんな新年がやってきそうだ。
大間原発は、民主党が推進するのと自民党が推進するのとでは、自民の方が市民にとっては壁が厚くなりそうだ。原子力政策は自民が本家本元だからだ。
我が選挙区で、自民が議席を奪還した。その瞬間、対岸の大間原発工事現場近くで、祝いの花火が打ち上げられたような音が聞こえたのは、私だけだろうか。
自民党は野党に転落し、プライドをずたずたにされた。戦後の日本の復興は自民党が命をかけたのに、国民はその恩も忘れて民主党に浮気をした。
3年の浮気に目が覚めて、やっと出戻ってきたのだ。
我が党は情と懐が深い。浮気されたのは自分たちにも非があった。だがもう離しやしない。いかに昔の家のほうが住みよいか、その実力を見せてやろう。
昔のまんまではない。女房がいない間に少し勉強もしたし、垢抜けもした。
昔ほど無駄使いしないが、得意技の公共事業の復活で、少しは国土をリニューアルしよう。
そのためにすべての政策を実現し、国民の安全と幸せを守るのは、教育の徹底しかない。教育の向こうには「美しい日本」が待っているのだ。
なんだか知らないが「取り戻そう」と、晋三さんが盛んに叫んでいたではないか。取り戻すものが、国民とは違うようだけど。
安倍総理・麻生副総理、石破幹事長。この顔ぶれで、ブレのない政治にして、決して国民を浮気させない、魅力的で頼りがいのある自民党になろうとしているようだ。
でも、誠実な政治がなされない限り、国民はまたどこかに気を移す可能性は大きいことは、自覚してほしいものである。
今回の自民党大勝は、選ぶ期間が短かったため、とりあえず馴染みの所に立ち寄っただけというのが、本意のようだからだ。