元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

オンキヨーが上場廃止。

2021-04-11 06:12:57 | プア・オーディオへの招待
 去る2021年3月31日、経営再建中の音響機器メーカーのオンキヨーホームエンターテイメントは、同年7月末ごろに上場廃止となる見通しだと発表した。東京証券取引所が指定した年度末までに、債務超過を解消できなかったためだという。昨今のコロナ禍によって、生産や販売活動が思うように実施できなかったことが影響していると見られている。

 一度上場が廃止になった企業を上向かせるのは難しい。同社はDENONやTEACなどと共に、バブル崩壊後のピュアオーディオ斜陽期を生き延びた数少ない日本の音響メーカーであっただけに、このニュースは残念だ。

 オンキヨーは1946年に設立され、当初はスピーカーの製造を行っていたが、やがてオーディオ機器全般の製造・販売を手掛けるようになる。70年代のオーディオブーム期から80年代末のバブル期までは意欲的に製品を発表し、オーディオ御三家と言われたパイオニアとサンスイとトリオに次ぐ地位を確立した。私も今までの無駄に長いオーディオ歴の中で同社の製品はスピーカー1組とアンプを1台、CDプレーヤーを3台購入したことがある。



 オーディオ一筋であったため早々に行き詰ってしまったサンスイ等とは違い、オンキヨーは一時期ソーテックを吸収合併してパソコン部門に進出したり、ハイレゾ音楽配信サイトe-onkyoを設立したり、ポータブルオーディオの分野にも目を配ったりと、時流に乗るような姿勢を崩さなかった。だからこそ現在まで存続していられたのだが、ネット配信主体のデジタルオーディオの世界は競争相手が多く、消耗戦を余儀なくされ体力を失っていったと想像する。

 3月半ばにオンキヨーは“クラシックシリーズ”と銘打って、レトロ調のエクステリアをフィーチャーした製品群をリリースすると発表した。他社(特にデジタルオーディオにおけるニューカマー)とは一線を画す老舗のメーカーの持ち味を活かした施策だ。また、アパレルとのコラボレーションやセレクトショップでの展開を予定しているというのも、これからのマーケティングとしては正しい。今回の上場廃止発表が、その方向性にブレーキをかけてしまわないかと心配だ。

 余談だが、同社の製品で個人的に最も興味を覚えていたのが、70年代までに作られていた中高音域ユニットにホーン型を採用したスピーカーシステムだ。もっとも、それらは聴いたことがなく、実物を見たこともない(笑)。しかし、(今では写真でしか見られない)その佇まいは、古き良きオーディオ機器の存在感を醸し出している。中にはScepterシリーズと銘打った大型システムもあり、一度は接してみたかったと思う。
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「ノマドランド」

2021-04-10 06:15:07 | 映画の感想(な行)
 (原題:NOMADLAND )切り口がとても面白い。アメリカン・ニューシネマの諸作をはじめ、米映画にはさすらう者たちを描いた作品は数多くあるが、それらの主人公は境遇はどうあれ“何かを求める”という意思は共通していたと思う。たとえそれが後ろ向きな気持ちで、結果的に悲劇に繋がったとしても、彼らは“何かを求めて”放浪する。ところが、本作のヒロインは違う。彼女は能動的な姿勢を見せない。しかし、それでいて共感するところが大きいのだ。この味わいは、監督がアジア人であることも無関係ではないと感じる。

 ネバダ州の企業城下町で暮らしていた60歳代のファーンは、夫の死後も代用教員として働くなどしてこの町を離れなかったが、リーマンショックによる企業倒産の影響で、町そのものが消滅してしまう。彼女は古びたキャンピングカーに全てを詰め込み、過酷な季節労働者として各地の現場を渡り歩きながら車上生活を送ることになる。行く先々で似たような境遇の者たちと出会って交流を深め、中には一緒に暮らそうと申し出る者もいる。だが、ファーンはさすらうことを止めない。ジェシカ・ブルーダーによるノンフィクションの映画化だ。



 まず、今のアメリカにこのような者たちが少なからず存在することに驚く。彼らはホームレスではなく、キャンピングカーを生活の拠点として各地で仕事を見つける。彼らがこのような生活を送るに至った経緯は人それぞれだが、皆一様に年を取っていて、余生を自由に過ごすことを選択している。彼らがさすらう先のものを見据えることは無く、放浪それ自体がアイデンティティと化している。

 実はファーンには姉がいて、仲の良い友人もいる。その気になれば、人に頼って宿無し生活から抜け出すことも出来たのだ。しかし彼女はそうしない。なぜなら、ファーンは亡き夫の思い出だけを胸に生きていくことを決めたからだ。事実、彼女の“行動範囲”はネバダ州のあの町を中心にしており、そこから極端に離れることはない。



 ファーンを世捨て人だと断じることは容易いが、それでもこの主人公の造型に求心力があるのは、人間は一つでも素晴らしい思い出があれば、それを糧に残りの人生を送ることも出来るという達観がそこにあるからだ。この悟りきった人生観を創出するのは、脚本も担当した中国系のクロエ・ジャオ監督である。前向きなスタンスをすべて削ぎ落とし、さすらうことを目的化するという、これまでのアメリカ映画ではお目に掛からないスタイル。しかし、そういう人間たちが存在しているという確固とした事実を提示した手柄は大きなものだ。

 主演のフランシス・マクドーマンドのパフォーマンスは万全で、すでに多くのアワードを獲得しているのも納得だ。ファーンの相手役になるデイヴィッド・ストラザーンを除けば、この映画に出てくる“ハウスレス”たちはすべて本物である。この“素人に本人役をやらせる”というのはアジア映画ではよく見るが、アメリカ映画では珍しい。胸が締め付けられるようなラストシーンと、荒涼とした米中西部の風景を捉えたジョシュア・ジェームズ・リチャーズによる撮影が大きなインパクトを残す。
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「真夜中の招待状」

2021-04-09 06:27:50 | 映画の感想(ま行)
 81年松竹作品。秀作「砂の器」(74年)や「事件」(78年)などで知られた野村芳太郎監督は多くの作品を手掛けているが、実はその中には何とも評価に困るようなシャシンがいくつかある。本作は「震える舌」(80年)や「ねずみ小僧怪盗伝」(84年)と並ぶ、同監督による“珍作”として記憶に残る映画だ。

 神経科医の会沢のもとに、稲川圭子と名乗る若い女が訪ねてくる。彼女は“診て欲しいのは自分ではなく、婚約者の田村樹生だ”と言うのだ。樹生には兄が3人いるが、ここ数ヶ月の間に相次いで失踪しており、次は自分ではないかと悩んでノイローゼ気味らしい。その話に興味を覚えた会沢は樹生を診察するが、樹生は最近妙な夢を見るという。会沢はそれが“予知夢”ではないかと考え、夢の記述を提案する。圭子はその夢の内容を追って樹生の兄たちの家を訪ねるが、この失踪事件の裏に謎めいた老人の存在があることを突き止める。遠藤周作の小説「闇の呼ぶ声」(私は未読)の映画化だ。

 出始めはミステリー調、しばらくするとオカルト風味が強くなり、中盤以降は社会派めいた趣になったと思ったら、ラスト近くは当時話題になっていた某アメリカ映画の物真似みたいなキャラクターが出てきて、要領を得ないまま終わる。そもそも、主人公であるはずの圭子は出番が多い割にはほとんど印象に残らない。ハッキリ言って、いてもいなくても良いのだ。

 圭子に扮しているのはこの頃トレンディな(?)人気を誇っていた小林麻美だが、演技力はほぼ無い。ただし一所懸命やっているのは分かるので、あまり気分は害しない(笑)。それよりも困ったのは、場違いとも思える周囲の豪華キャストだ。高橋悦史に米倉斉加年、小林薫,宮下順子、下條アトム、藤田まこと、渡瀬恒彦、芦田伸介らが顔を揃えている。ただし、映画自体の内容がアレなので、彼らが真面目に演技すればするほどドラマ自体は浮いてしまう。

 さらに丹波哲郎が“それらしい役”で出てきたり、女子アナの頼近美津子が“女優”として出演していたりと、雰囲気はイロモノの様相を呈してくる。野村御大の演出は、野上龍雄による八方破れ的な脚本を前に途方に暮れているような様子で、とにかく気合いが入っていない。ただし、現時点では一種のカルト的な作品として評価される可能性はある。
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「アウトポスト」

2021-04-05 06:22:52 | 映画の感想(あ行)

 (原題:THE OUTPOST )これは厳しい映画だ。アメリカ作品なので米軍の描写に肩入れしている点は、もちろんある。登場人物たちの行動はヒロイックでもある。しかし、このような事態を招いたのも、現地の兵士に理不尽な戦いを強いたのも、米当局にほかならない。終わってみれば、アクションシーンの高揚感と同時に戦争の惨さと虚しさを印象付けられることになる。力作だと思う。

 2009年、米軍はアフガニスタン北東部の山奥にキーティング前哨基地を設置する。ところがそこは四方を険しい山に囲まれた谷底にあり、敵軍からすれば絶好の標的だ。案の定、毎日のようにタリバン兵から単発的に銃弾を撃ち込まれていた。指揮官は現地の者たちと良い関係を築くために地元の長老と話し合うが、いつの間にか相手は姿を消してしまう。時を同じくして、数百人ものタリバン兵が押し寄せてくる。

 この基地に派遣されてきたロメシャ二等軍曹らは絶望的な状況に打ちのめされながらも、必死の抵抗を試みる。約50人で敵の大軍に立ち向かった、アフガニスタン紛争における屈指の激戦であるカムデシュの戦いを描いた、ジェイク・タッパーによるノンフィクションの映画化だ。

 この基地に配属されたのは若い兵士ばかりだが、死と隣り合わせの状況にあって無理に明るく振る舞っている者が多く、その捨て鉢になりそうな気持ちが観る者に迫ってくる。一見強面で何事にも動じないような上官も、執務室から外に出るのが恐ろしくて仕方がない。事態は皆が予想していた最悪のケースになり、四方八方から雲霞のごとく押し寄せるタリバン兵に対して防戦一方になる。

 ロッド・ルーリーの演出はパワフルで、スピルバーグ監督の「プライベート・ライアン」などには一歩譲るものの、戦闘シーンの迫力は相当なものだ。特に、交戦時に銃火器が弾詰まりを起こしたり、せっかく補給した弾丸が“型番違い”で用をなさなかったり、あるいは装甲車の中で足止めを食らったりと、実戦ではありがちなトラブルが発生して隔靴掻痒な状態に追い込まれるあたりの臨場感は目覚ましい。

 それにしても、戦略面で不利なポイントに基地を設営したことや、生き残った兵士たちが勲章は貰うもののPTSDを患ったという事実は、改めてこの戦争の不合理性を思わずにはいられない。スコット・イーストウッド、ケイレブ・ランドリー・ジョーンズ、オーランド・ブルームら、キャストも気合が入っている。
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アナログレコードの優秀録音盤(その8)。

2021-04-04 06:33:51 | 音楽ネタ
 フランスのOCORAレーベルは世界各地の民族音楽や伝統音楽の音源を提供していることで知られているが、その録音の質の高さにおいても定評がある。今回紹介するのは、アラブ古典音楽で使われる葦笛のネイ(またはナーイ)と、アンデスの葦笛であるケーナとのデュエットによる「ネイ&ケーナ 葦の会議」である。82年の録音で、リリースは84年だ。

 演者はネイがクジ・エルグナー、ケーナがザビア・ベレンガー。レコーディング場所はフランス南部のプロヴァンス地方にあるセナンケ僧院だ。パフォーマーに関しての予備知識は無いが、2人ともかなりのテクニシャンであることが分かる。同じ葦笛といっても、ネイとケーナは形状も音階も違うし、それぞれの楽器が使用される音楽自体も異なる。ところが彼らはその“壁”を易々と乗り越え、独自のサウンド世界を演出している。



 曲はすべて即興で、アプローチとしてはジャズのアドリブに近いが、テイストとしては民族音楽と現代音楽のミックスのような高踏的なものだ。それでいて、聴き手の神経を逆撫でするようなエキセントリックさは皆無で、極上のヒーリング・ミュージックのような様相を呈している。

 音質は素晴らしく、広々とした音場の中で、2本の葦笛は絶妙の定位を見せる。そしてオフマイクで捉えたホールエコーが圧倒的だ。上下前後左右とサウンドは拡散し、並々ならぬスケール感を醸し出す。再生装置の質が上げるほどに音の粒立ちが“可視化”されると思われ、オーディオシステムのチェックにはもってこいの優秀録音だ。

 元々はピアニストであったフランスのモーリス・ギが70年に結成した、古楽器合奏グループのル・ミュジシャンズ・ド・プロヴァンスのアルバム「プサルテリオンの芸術」は、再生すると部屋の空気が変わってしまうような典雅なオーラに包まれた良作だ。録音は73年から81年にわたって7回おこなわれ、ディスクのリリースは81年である。



 彼らが演奏するのは、12世紀から17世紀にかけて作曲された南フランスに伝わる器楽曲で、はっきり言ってどれも馴染みのない曲ばかりだ。しかし、どれもしみじみと美しい。哀愁を伴うメロディと、巧みなハーモニー。各プレーヤーの妙技にも感心するしかない。使われている楽器はギターやリコーダー等の現在でもよく使われているものから、タンブランやクルムホルン、そしてアルバムタイトルにもあるプサルテリオン(プサルタリーともいう。木箱にピアノ線を張った弦楽器で、通常は24弦だが、ここでは16弦のものが起用されている)といった珍しい古楽器も駆使されており、そのユニークな音色は飽きることがない。

 そして録音状態だが、かなり良い。レコーディング場所やその環境は不明だが、ホールエコーが効果的に捉えられている。年月を置いての複数回の収録なのでナンバーによって響き方は違うものの、明確な楽器の定位や不必要なエッジを立たせない音色の再現など、いずれも細心の注意が払われている。レーベルはフランスのアリオンで、他にも優秀録音は多く、機会があればまた他のディスクも紹介したい。

 イギリスの2人組ユニットであるエヴリシング・バット・ザ・ガールといえば、90年代にエレクトロニック・ミュージックの要素を積極的に取り入れハウス・サウンドで一世を風靡したものだが、デビュー当時はアコースティックな展開を見せ、一定の評価を得ていた。私が所有しているのは、84年にリリースされた彼らのデビューアルバム「エデン」である。



 トレイシー・ソーンとベン・ワットが作り出す楽曲はいずれも肌触りが良く、そして何よりオシャレだ。聞くところによると、その頃日本では“トレンディな音源に敏感なOL層”向けに売り出されていたという(笑)。録音はびっくりするほど上質というわけではないが、ポップス系ではかなり良い方に属する。レンジは十分に確保され、ヴォーカルは自然で、特定帯域でのおかしな強調感も無い。

 なお、このディスクを入手した理由というのは、何とレコード店で“売り込み”を掛けられたからだ。リリース元としてもプッシュしたいサウンドであったらしく、ショップに派遣されていた(と思われる)レコード会社のスタッフからの猛チャージで、仕方なく(?)買ってしまったというのが実情。しかし結果は良好で、今でも自室のレコード棚にある。なお、ジャケットの材質とデザインは秀逸で、部屋に飾っていてもおかしくない。
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「ミナリ」

2021-04-03 06:26:03 | 映画の感想(ま行)
 (原題:MINARI)少しも面白くない。例えて言えば、凡庸な連続テレビドラマを見せられた挙句に途中で打ち切られたような按配だ。驚くべきは、この程度の映画が高評価を得ており、アカデミー賞の有力候補にまで昇り詰めているという事実である。いつからアメリカ映画界は斯様に評価基準が低下したのかと、まさに呆れるばかりだ。

 80年代のアメリカ南部。韓国系移民のジェイコブとその一家は、アーカンソー州の高原に入植する。彼らは以前都市圏に住んでいたが、農業で一発当てようとこの土地にやってきたのだ。しかし、そこに待っていたのは荒れた土地と古びたトレーラーハウス、隣家に行くのに延々と車を走らせなければならない不自由な環境だった。

 妻モニカは不安を抱き、幼い息子のデビッドは心臓を患っていることもあって、本国から母のスンジャを呼び寄せる。ところが彼女は生活態度がよろしくなく、たちまちデビッドとの仲は険悪になる。そんな中、畑の水源が枯れてしまい、取引先との折衝も上手くいかなくなったジェイコブは窮地に追い込まれる。

 まず困ったのは、感情移入できるキャラクターがいないことだ。ジェイコブには確固としたヴィジョンも無く、ただ“韓国製野菜を作れば売れはずだ”という当てのない目論見だけで動いている。もちろん、農業に対する愛着も感じられない。モニカは口うるさく、ジェイコブの仕事を手伝おうとはしない。デビッドと長女アンは愛嬌が無く、スンジャに至っては、とことん下品で不快感を覚えた。

 ジェイコブの協働者である謎の男ポールの造型は、ただ奇を衒っただけだ。だいたい、子供2人を学校にも通わせられない地理的状況や、この痩せた土地を以前買った者は自滅しているという事実があっては、とてもジェイコブの一家に同情は出来ない。まさに自業自得だ。

 映画は起伏も無く進み、突然打ち切られる。スンジャが韓国から持ってきたセリ(韓国語でミナリ)の種が、一家にどのような影響を与えたのかも説明しない。脚本も担当したリー・アイザック・チョンの演出は少しも粘りが無く、ドラマはさっぱり盛り上がらない。

 アメリカへの移民を扱った映画は、マイケル・チミノ監督の「天国の門」(80年)やピーター・ウィアー監督の「グリーン・カード」(90年)、アラン・パーカー監督の「愛と哀しみの旅路」(90年)など、過去にも少なからず存在するが、本作がそれらと比べて優れている点は見出せない。スティーブン・ユァンにハン・イェリ、ユン・ヨジョン、ウィル・パットンといったキャストはパッとせず、アメリカ南部の風景は平面的でちっとも美しくない。観る必要のない映画だった。
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「ARQ 時の牢獄」

2021-04-02 06:24:31 | 映画の感想(英数)
 (原題:ARQ )2016年9月よりNetflixにて配信されたアメリカ=カナダ合作のSF映画。低予算でも求心力の高い作劇を実現しようという作者の意図は感じられ、事実興味を惹かれるようなモチーフは存在するのだが、如何せん全体的に出来が良くない。予算と出演者を絞るのであれば、代わりに筋書きとキャラクター設定に細心の注意を払う必要があるが、それが不十分だ。

 環境悪化とエネルギー危機によって荒廃した未来世界。国家は機能しておらず、世界はグローバル企業のトーラスに牛耳られ、ブロックと呼ばれる反乱軍がそれに果敢に戦いを挑んでいた。そんな中、トーラスの元エンジニアでARQ(アーク)という永久機関を開発していたレントンが、殺風景な建物の中で目を覚ます。隣には元カノのハンナがいるが、状況を飲み込む間もなく4人の男たちが部屋に乱入し、2人を縛り上げる。

 レントンは何とか逃げ出すが、途中で事故に遭って死亡する。すると次の瞬間、彼はハンナの傍らで目を覚ます。どうやら建物の中にあるARQが誤動作して、その近辺だけ時間がループしているらしい。レントンは何度も同じシチュエーションを体験する羽目になるが、そのたびに男たちやハンナの置かれた立場を徐々に知るようになる。そしてある時、直前のループの内容を覚えているのが自分だけではないことに気付く。

 同じ時間を繰り返しているのが主人公だけではないのは、ARQの“規則性”によるものという設定は面白い。また、登場人物たちの微妙な利害関係がループごとの展開に大きく影響してゆくというモチーフも悪くない。しかし、それだけでは上映時間を引っ張ることはできない。

 監督トニー・エリオットの腕前が大したことがなく、サスペンスがちっとも盛り上がらないのだ。とにかく段取りが悪くキレも無い。そもそも狼藉をはたらく4人の男たちの描き分けが不十分で、どいつも同じように見える。まあ、かろうじてリーダー格の奴は少しは目立っているが、凄味が希薄で存在感は皆無だ。

 また、前振りも無くシアン化ガスとかグローブ状の武器とかが唐突に出てくるのも愉快になれない。そもそも、ARQの造型自体にアピール度が不足しており、インターフェースも前時代的だ。ラストは尻切れトンボで、カタルシスは不在。ロビー・アメルやレイチェル・テイラーら出演陣もさほど魅力は無く、これは別に観る必要もないシャシンだと感じた。
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