元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

野良猫の相手をするのも疲れる(笑)。

2016-08-16 06:15:32 | その他
 お盆の期間中は実家に詰めていたが、気が付けばいつの間にか実家の敷地が“プチ猫屋敷状態”(?)になっているではないか(笑)。

 別に“餌付け”しているわけではなく、家人は特別猫好きでもない。しかし、なぜか常に5,6匹の野良猫が庭にうろついている。ハッキリとした理由は分からないが、近所の家の庭木が“雀のお宿”になっており、そこに集まってくる雀を狙っているからという説が有力視されている(爆)。



 コイツらが隙あらば家の中に入り込もうとするのには閉口するが、一番困るのは駐車中の実家のクルマの下に入り込んで寝そべっているケースが多いことだ。発車する前にくまなくチェックする必要があるのはもちろんだが、猫を発見した場合でも、棒などで掻き出そうとしてもなかなか出てこない。そこで庭に生えているエノコログサ(俗称:ネコジャラシ)の穂を使っておびき出す作戦に出る。するとまあ、面白いようにじゃれついてくる。

 ただし、ここで甘い顔を見せると、次回からはこっちが何もしていないのにあっちの方からダッシュで寄ってきて、こちらの行動を大きく制限してしまうことがあるので要注意だ(笑)。



 これが冬場になるとタイヤの上に乗っかっていたり、極端な場合はエンジンルームで和んでいたりするのだろう。コイツらがいつまでいるのか全く分からず、かといって無理矢理“駆除”してしまうのも可哀相だ。

 まあ、飽きて出て行くまで待つしかないのかもしれない。ただ、その際は却って寂しくなったりして・・・・。難しいものである(苦笑)。
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「FAKE」

2016-08-13 06:50:57 | 映画の感想(英数)
 興趣が尽きない映画だ。題名通り、何が本当で何がウソなのか、どこまでが事実でどこからが作りものなのか、観る者の感性や観る局面によってさまざまな解釈が出来る、まさに捉えどころのない怪作である。ただ、虚実取り混ぜたような作劇の中に、確実に見えてくる“真実”がある。その構図が実にスリリングだ。

 この映画の中心人物は、2014年にゴーストライター騒動で日本中の注目を集めた佐村河内守なる男。それまでは聴覚障害者でありながら「交響曲第1番 HIROSHIMA」などの作品を手がけたとされ、マスコミからは“現代のベートーヴェン”などと持て囃された。しかし音楽家の新垣隆が18年間の長きにわたって彼のゴーストライターを務めていたことを告白。さらには佐村河内の耳は正常だということも暴露した。



 佐村河内は確かに作曲活動が自分一人でやっていないことは認めたが、新垣に対して訴訟を起こすだの何のと言い出した後は、表舞台からは姿を消している。そんな佐村河内を映画の素材として取り上げたのが、「A」(97年)などで知られるドキュメンタリー作家の森達也だ。撮影は主に佐村河内の自宅でおこなわれ、彼の妻と親、そして取材のためにやってくるメディア関係者などの姿も映し出す。

 当然のことながら、森監督は本作で“真相はこうだ!”みたいな安易な決めつけはしていない。騒動の渦中にあった人物を虚心に捉えるだけだ。しかしながら、テレビのワイドショーみたいな断定的スタンスを廃して向き合ってみると、何と謎の多い“事件”なのだろうかと、驚くばかりだ。

 佐村河内は聴覚に障害があると称し、妻の手話による“通訳”によってスタッフの言い分を聞くのだが、外科的な特徴が無い限り、聴力のレベルは“自己申告”によるしかない。だから佐村河内の障害の程度は他人にはハッキリとは分からないのだ。一方の当事者である新垣にしても同様で、佐村河内が聴覚障害を標榜していることを見越してああいう態度を取ったという解釈もできる。



 ただ、森監督の興味はそんなところには無い。本作で描かれるのは“事件”を取り巻く周囲の状況と社会的風潮である。佐村河内の耳は聴こえるのかどうか、新垣はゴーストライターとして100%作品に関与しているのかどうか、そんな“白か黒か”という下世話な結論ばかりに拘泥して、肝心の楽曲の製作については知ろうともしない。作者はそんな環境に異議を唱えているようだ。

 そして、佐村河内に対して核心に迫った問いかけを行っているのは、有象無象の日本のマスコミではなく、海外メディアだけだという皮肉。その裏には、日本人の音楽(芸術)に対する軽視がありありと見て取れる。森監督の“演出”は巧妙で、常人とはズレた佐村河内の挙動や、妻との関係性、そして毎回振る舞われるケーキや、佐村河内家で飼われる猫などを、いかにも意味ありげに映し出し、観客の興味を途切れさせない。

 それにしても、終盤の12分間の展開とラストの処理を見せらせるに及び、佐村河内と新垣にはこうなる前に、何か事態を打開する方法があったのではないかという気になる。ただし、そういう考え方も“FAKE(まやかし)”の一断面だという見方も出来、本作の奥深さと怪しさは増すばかりだ。
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「ディープ・ブルー」

2016-08-12 06:35:50 | 映画の感想(た行)
 (原題:Deep Blue Sea )99年作品。レニー・ハーリンという監督はデビューから間もない80年代後半こそ才能(らしきもの)を発揮できたようだが、それ以降は駄作・凡作の山を築き、今では名前を憶えている映画ファンは少ない。しかし、ネームバリューは無くなっても、なぜか仕事自体はあまり減らず。お手軽B級監督として便利に使われているようだ。本作はそんな彼の諸作の中では、幾分マシな方に属する一本である。

 太平洋上に建造された海洋医学研究施設では、所長のスーザン・マカリスター博士のもと、各専門家がアオザメの脳組織を利用した人間の老化を防ぐ新薬開発の研究をおこなっていた。その進捗を視察すべく投資家グループの代表であるラッセルが研究所にやってくるというので、スタッフは彼の前でプレゼンテーションを実施する。ところが、その時にサメたちに異変が起こる。



 実はスーザンは法律違反を承知で私的なDNA操作実験に手を染めており、結果として高度な知能を持つサメを生み出してしまったのだ。ちょうどそのとき接近してきた大型ハリケーンによって所員たちが浮足立ったのを見計らい、サメは人間に襲い掛かる。救助にやってきたヘリコプターもサメのために墜落、研究所は破壊され、洋上に取り残された彼らは必死の脱出を図る。

 ヘタなドラマ運びに、さほど魅力のないキャスト、そして冴えない色調とド下手なSFXにより、最初の10分間は観るのが苦痛だったが、それを乗り越えるとマアマア見ていられる出来ではある。話は強引だが、テンポは良いのでそれほど腹も立たない。

 面白かったのが、“殺される順番”が通常のドラマツルギーとは若干違うところだ。普通ならコックのおじさんなんて真っ先にサメに食われると思うのだが、実はそうならない。反対に、重要な役割を果たすと思われたキャラクターが、次々とあえない最期を遂げる。終盤で生き残った数人のうち、またしても組織内での責任が重い奴がやられるという念の入れよう。観ていて苦笑してしまった。

 トーマス・ジェインにサフロン・バロウズ、ジャクリーン・マッケンジーといったメインキャストはまったく馴染みが無い。知っているのはラッセル役のサミュエル・L・ジャクソンとコックに扮したLL・クール・Jぐらいだ。トレヴァー・ラビンの音楽は好調。ただし、スティーヴン・ウィンドンのカメラは凡庸。まあ、映像美を見せつけるような類のシャシンではないので、仕方がないのかもしれない。

 関係ないが、ハーリン監督は一時期ジーナ・デイヴィスと結婚していたことがある。オスカー女優と所帯を持ったことがあるというのは、今の彼の境遇からすると、信じられないことかもしれない(笑)。
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「緑の光線」

2016-08-08 06:20:56 | 映画の感想(ま行)
 (原題:Le Rayon Vert )86年作品。同年のヴェネツィア国際映画祭で大賞を獲得した映画だが、私は最近行われたエリック・ロメール監督の特集上映で初めて観ることが出来た。世評通りの優れた内容の作品で、特に主人公の内面描写には卓越したものがあり、鑑賞後の満足度も高い。ロメールがフランス映画史上屈指の演出家であることを再確認できる。

 デルフィーヌはパリのオフィスで秘書をしている30歳前後の女。夏休みを前にしても気分が晴れない。というのも、ボーイフレンドと別れたばかりで、しかも一緒にギリシアに行く予定だった友人からキャンセルの連絡が入り、バカンスの予定が全く組めなくなっていたのだ。そんな彼女を見かねた別の友人が、シェルブールの実家に誘う。友人の家族は親切で、デルフィーヌもノンビリと日々を送るが、やっぱり物足りなさを覚えてパリに帰る。



 次に山岳リゾート地に出かけた彼女だが、泊まる予定のはずが急に気が変わってその日のうちに帰宅する。とはいえパリに一人でいるのは寂しく、今度はビアリッツの海岸に出かけるが、そこで観光客のグループが“太陽が沈む瞬間に放つ緑の光線を見た者は幸せを掴む”という話をしているのを聞く。デルフィーヌは果たして自分にも緑の光線が見える瞬間が訪れるのかどうか、思い悩むのだった。

 ハッキリ言って、デルフィーヌは“面倒くさい女”である。自意識の高さは手が付けられないほどで、自身の見解は蕩々と述べるが、他人からの深い干渉はシャットアウトする。何か行動を起こすたびに、自分の中であれやこれやと言い訳を作り、どれも中途半端に終わらせてしまう。極めつけは、恋愛沙汰はすべてがゲームだと思っており、それらしいプロセスを経ないと成就しないものだと信じ込んでいる。

 こういう女は一生結婚出来ずにトシを取ったら孤独死するのが関の山だ・・・・と誰しもネガティヴな印象を持ってしまうのだが、何とロメール監督はそんな彼女を、共感すべきキャラクターに仕立て上げてしまう。デルフィーヌは自分の一筋縄ではいかない性格を自覚している。彼女としては他者と対等な関係を持つには、それ相応の“切り札”を保有していなければならず、そうでなければ心配でたまらないのだ。



 何ともくだらない、何とも低レベルの認識なのだが、終盤その内心を旅先で出会った者達に絞り出すように告白する彼女の姿には、胸が締め付けられた。そうなのだ。程度の差こそあれ、誰だってデルフィーヌみたいな屈折した感情を持っている。たまたま彼女はそれに正面から向き合ってしまったため、苦悩しているだけなのだ。

 取っつきにくい性格のヒロインは、実は人一倍純粋だったという鮮やかな価値観の転換を軽々とやってのける、この作者の力量。舌を巻くしかない。そして彼女が恋愛はゲームや駆け引きではなく、ハートであることをやっと認識するくだりには、しみじみとした感動が味わえる。

 デルフィーヌ役のマリー・リヴィエールは好演。ロメールと共に脚本にも携わっている。各バカンス地の風景やストイックなジャン=ルイ・ヴァレロの音楽も魅力的。それにしても、フランスは夏期休暇は長いことに驚かされる。何しろ映画の冒頭が7月上旬で、そこから休みに入って8月になっても、まだ休暇は終わらないのだから、何とも羨ましい限りだ。
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「帰ってきたヒトラー」

2016-08-07 07:06:03 | 映画の感想(か行)

 (原題:ER IST WIEDER DA)観ている間は笑いが絶えないが、鑑賞後はヒンヤリとした感触が残る、ブラック・コメディの快作である。しかも、世界中に強権的なリーダーが次々と登場しそうな昨今、この公開のタイミングは絶妙だと言えよう。これがハリウッド映画ではなく“本家本元”のドイツ映画から提供されているのも面白い。

 ヒトラーの格好をした男が、ベルリンの街に突然現れる。ちょうどその場所でテレビのロケをしていたリストラ寸前のディレクターはその男に興味を持ち、時事ネタを扱うバラエティ番組に出演させる。男は長い沈黙の後、過激な内容の演説を畳み掛けるような口調で行い、会場のギャラリーや視聴者を仰天させる。しかしながらそのインパクトは局の幹部に視聴率を稼ぎ出すコンテンツだと見なされ、男は次々と番組に出るようになる。皆は彼を“ヒトラーの容姿と口調を真似るお笑い芸人”として歓迎するが、実は男は1945年の陥落寸前のベルリンからタイムスリップしてきた本物のヒトラーだった。彼の正体に気付いた件のディレクターは、何とか事態の進展を阻止しようとする。

 男は何度も“ワシはヒトラーだ!”とマジメに強弁するのだが、周囲は手の込んだ冗談だと思って笑い飛ばす、そのギャップがおかしい。ディレクターとのロケ旅行中に珍騒動を巻き起こしたり、現代のネオナチの連中と会うものの全然話が噛み合わなかったりと、ギャグの振り方は堂に入っている。

 だが、やがてヒトラーが時代の寵児としてのし上がっていくあたりになると、次第に笑いが乾いたものになっていく。特定の層を悪者扱いして“あいつらをやっつければ全ては好転する”と決めつける極論が、経済的困窮にある多くの市民の心を動かす。しかも、インターネットによって情報が拡散していく現代社会は、天才的アジテーターである彼にとって“仕事”をしやすい環境でもあったのだ。

 テレビ局の幹部は、最初彼を数字の取れるタレントとしか見ていないが、彼が圧倒的な存在感を持つと同時にヒトラーの走狗になってしまう。これはかつてのヒトラーがゲッベルスやヒムラーといったブレーンを得るくだりと一緒だ。ヒトラーは最初から独裁者として世に出たわけではない。民主的な選挙によって国家首脳に選ばれたのである。ファシズムは民主主義の隣に存在し、チャンスさえあればいつでも取って代わるという慄然とするような図式を明確に提示している。

 デイヴィッド・ヴェンドの演出はソツが無く、堅実にドラマを引っ張っていく。ヒトラーを演じるオリヴァー・マスッチは無名の舞台俳優らしいが、達者なパフォーマンスで場を盛り上げる。フランツィシカ・ウルフやカッチャ・リーマンといった脇の面子も(馴染みは無いが)印象が強い。世界の現状をかつての独裁者の側から描く野心作であり、観る価値は大いにある。
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「あいつ」

2016-08-06 06:28:50 | 映画の感想(あ行)
 91年、キティ・フィルム=サントリー=NHKエンタープライズ提携作品。この頃はまだバブルの余韻が残り、観念的な作風の映画(有り体に言えば、独りよがりのシャシン)にカネを出す余裕が産業界にはあったのだろう。とはいえ、いくら製作に漕ぎ着けようがスノビズムはスノビズムでしかなく、観客無視の珍作の域を出ない。現在では、企画段階で早々に潰されてしまうようなネタである。

 主人公である男子高校生の光は、東京が水没することを願っているおかしな思想の持ち主だ。そんな彼は、幼なじみの貞人からイジメの標的にされていた。ある日、光は“ノストラダムスの大予言が大好きだ”と口走るヘンな少女・雪と、彼女の祖父である忠と出会う。

 忠には予知能力があるらしく、光に“明日ケガするぞ”と言う。翌日、予言通りに光は貞人に殴られてケガをするが、なぜかそれ以来、光の身体に念動力みたいなパワーが宿る。一方で貞人の行動にも異常が出始め、あろうことか雪を誘拐してしまう。おびき寄せられた光は貞人から水責めにされるが、そこで光の超能力が発動。貞人との全面的なバトルに突入する。

 落ちこぼれたような連中を並べて、これまた浮き世離れしたような(どうでもいい)エピソードが漫然と続くだけの映画だ。作者はおそらくドロップアウトした人間が集まって共同体を作ること自体に何か意味があると思っていたのだろうが、残念ながらそういう“お膳立て”だけではナンセンスで、その共同体がカタギの世界に向けて何かアクションを起こすことから(原則として)ドラマが始まるのである。宇宙人がどうのサイキック・パワーがどうのという与太話が延々と続いた後、ラストで思い出したように現実世界のモチーフを挿入しても、時すでに遅しだ。

 監督はNHKの若手ディレクターであった木村淳(脚本も彼と藤田一朗によるオリジナル)。テレビドラマでちょっと変わったテイストを披露したら思いがけず評価され、映画にも進出してきたようなのだが、この体たらくでは失敗に終わったと言っても良いだろう。今では彼の名前を知る者もあまりいないと思われる。光役に岡本健一、雪に石田ひかり、貞人に浅野忠信が扮している。他に岸部一徳やフランキー堺も顔を揃え、キャストは結構豪華。しかし内容がこの程度では“ご苦労さん”としか言えない。

 なお、私はこの映画を今は無きシネマアルゴ新宿で観ている。この映画館を立ち上げたのは、当時の気鋭の6人のプロデューサーが設立した“アルゴ・プロジェクト”だが、やっぱり今から考えるとバブルの徒花であったのかもしれない。理念はどうあれ、興行的実績が伴わないムーヴメントは、退場するしかなかったのである。
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「10 クローバーフィールド・レーン」

2016-08-05 06:22:20 | 映画の感想(英数)

 (原題:10 CLOVERFIELD LANE )基本的にワン・アイデアの映画なのだが、まさに“身の程をわきまえた”範囲内で全力投球して作られており、楽しめる佳作に仕上がっている。100分程度に上映時間を抑えているところも良い。どんな素材でも、その性質を見極めた上で手を抜くことなく取り組めば、かなりの成果を得られるものなのだ。

 恋人と別れた傷心のミシェルは、荒野の中を車で走らせている途中、交通事故に遭う。目覚めると、そこは見知らぬ狭い部屋で、彼女はなぜか拘束されていた。何が起こったのか分からず狼狽えるミシェルの前に現れたのは、ハワードと名乗る大男だった。彼はミシェルを事故現場から助け、ここに運び込んだのだと言う。

 殺風景なその場所は地下シェルターで、ハワードの話によると外の世界で大変なことが起き、地球は滅亡寸前だというのだ。他にはエメットという若い男もそこに“滞在”しており、外部の状況が全く分からないまま、3人はシェルターで生活するようになる。だが、偶然に天窓から外を見ることができたミシェルは、周囲がただならぬ事態に陥っていることに気付く。同時にハワードが異常性を発揮するに及び、ミシェルは絶体絶命のピンチに直面する。

 映画に登場するのはほぼ3名のみで、舞台は狭い地下住居。外部は危険が潜んでおり、一方で隔絶されたスペースでは得体の知れない人物に向き合うという、板挟みになったヒロインの焦燥と恐怖が画面を彩り、観る者を最後まで引っ張っていく。B級SFながら脚本は良く出来ており、主人公がハワードに疑いを持つようになるプロセスや、前半に散りばめられた伏線が終盤で機能していく様子には感心した(シナリオに「セッション」のデイミアン・チャゼルが参画している)。

 これがデビュー作となるダン・トラクテンバーグの演出は手堅く、中だるみする箇所が見当たらない。クライマックスのバトル場面も無難にこなし、ラストのヒロインの“決断”にもグッとくる。ミシェルに扮するメアリー・エリザベス・ウィンステッドの頑張りは要注目だが、それよりも凄いのがハワード役のジョン・グッドマンだ。前半は偏屈、後半は変態という正常ならざる人物を、実に賑々しく演じて圧巻である。特に終盤近くで、身なりを整えた後にミシェルに迫るあたりはケッ作。このオヤジの演技面での馬鹿力が全面開示している。

 エメットを演じるジョン・ギャラガー・Jr.と“声だけ出演”のブラッドリー・クーパーもイイ味を出している。関係ないが、この映画の構造は2016年のアカデミー候補作「ルーム」に似ている。だが、鑑賞後の満足感は本作が遙かに上だ。主要アワードのノミネート作が必ずしも良い映画だとは限らないことを、改めて実感した。
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「サウス・キャロライナ 愛と追憶の彼方」

2016-08-02 20:55:16 | 映画の感想(さ行)
 (原題:THE PRINCE OF TIDES )91年作品。監督業に進出する俳優はハリウッドでも珍しくはないが、バーブラ・ストライサンドは演技者であると同時に、高名な歌手であり作曲家でもある。本作は「愛のイエントル」(83年)に続く演出第二弾で、兼業監督とは思えないこの実に堂々とした仕事ぶりは、他者とは一線を画するマルチな才能を発揮していると言えよう。

 サウス・キャロライナのサリバンズ島に住む元教師のトムは、母親から詩人である双子の姉サヴァンナが2度目の自殺未遂を図ったとの知らせを受ける。早速彼女が昏睡状態で入院しているニューヨークの総合病院へと向かうが、そこでトムは姉を担当している精神科医スーザンと知り合う。彼女はサヴァンナが精神のバランスを崩すに至った経緯を知るため、トムに姉弟の子供時代のことを聞きだす。



 昔、トムの一家はサウス・キャロライナの片田舎で漁師を営む父親の元で暮らしていたが、家庭内は諍い事ばかりで、幸せな生活とは言えなかった。やがて起こった重大な事件が、彼らの人生に深く影を落としていることが分かってくる。一方でスーザンも家族に関して大きな屈託を抱えていた。最初はいがみ合っていたトムとスーザンだが、次第に互いを憎からず思うようになる。パット・コンロイによる長編大河小説の映画化だ。

 冒頭の、サウス・キャロライナ州の日暮れの風景から主人公トムの少年時代へと画面が変わるあたりで、すでに観客を引き込んでしまう力感が画面全体に横溢している。時制と舞台が頻繁に切り替わるのだが、ストライサンド監督の手際はいささかの乱れも無く、各登場人物の内面に確実にアプローチしていく。

 終盤に明かされる衝撃的な真実も、それまでの展開が的確であるために、いたずらにセンセーションに走ることなく、重量感を持って観る者に迫る。これほどのドラマティックなモチーフを提出していながら、結末はホロ苦さを伴ったハートウォーミングなもので、鑑賞後の余韻は格別だ。

 トム役のニック・ノルティは苦悩する人物像を上手く表現しており、彼の代表作の一つになったのは確実だ。そしてスーザンを演じるストライサンドは絶品。決して目立ち過ぎることはなく、職務と家族に真摯に向き合う医療関係者を見事に表現。ブライス・ダナーやケイト・ネリガン、メリンダ・ディロンといった脇の面子も良質のパフォーマンスを披露している。そしてスティーヴン・ゴールドブラットのカメラによる痺れるほど美しい南部の風景、ジェームズ・ニュートン・ハワードの風格のある音楽も映画を盛り上げる。惜しくもアカデミー賞は逃したが、観て決して損はしない秀作だ。
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「シング・ストリート 未来へのうた」

2016-08-01 06:23:50 | 映画の感想(さ行)

 (原題:SING STREET )ストーリーは平板だが、こういう題材はある程度の質が保証されていれば、存分に楽しめるものなのだ。特に時代設定の80年代に若い日々を送った者からすれば、甘酸っぱい気分に浸れること請け合いである。

 85年、アイルランドのダブリンに住む14歳のコナーの家庭はシビアな状況にあった。父親が折しもの大不況により失業し、コナーは環境の良い私立校から荒れた公立校に転校させられる。家では両親はケンカばかり。音楽マニアの兄と一緒に、隣国イギリスから発信されているMTVを見ている時だけが幸せだった。ある日、街で年上の女ラフィナを見かけたコナーは、彼女に一目惚れ。そして思わず“僕らのバンドのプロモーション・ビデオに出ない?”と口走ってしまうが、意外にも彼女の返事はOK。もちろんバンドなんか組んだこともない彼は、その日から慌ててメンバーを集め、何とか体裁を整える。そしてその映像が評判を呼んだことから、コナーは“次の人生のステージ”を考えるようになっていく。

 話自体に新味はない。展開はすべて想定内だ。しかしながら、何かに夢中になった若者が試行錯誤しながら逆境を乗り越えていくという鉄板の設定は、かなり訴求力が高い。そして観客を最後まで引っ張っていけるモチーフの面白さも、キッチリと用意されている。

 まずはバンドの面子を集める過程。有能なマルチプレーヤーもいれば、長い間出番を待っていたリズム・セクションの2人、そして“黒人だから楽器が弾けて当然”と勝手に決めつけられて渋々参加する奴もいたりして、かなり笑える。他にも主人公たちをイジめる学校のボス的な野郎が実は微妙な屈託を抱えていたり、ラフィナが付き合っている男にコナーが対抗意識を燃やしたりとか、いろいろと工夫の跡が見られる。何かとコナーを助けてくれる兄もナイスキャラだ。

 音楽ものには定評があるジョン・カーニーの演出はさすがに手慣れたもので、演奏シーンは盛り上がる。アイルランドといえば昔から数々の名バンドを生み出してきた土地柄だが、やっぱり若者たちの興味は海を隔てたロンドンにあったことは、かなり感慨深い。いつしか大都市で一旗揚げることを夢見て、彼らは精進していったのだろう。主役のフェルディア・ウォルシュ=ピーロをはじめ、ルーシー・ボイントン、ジャック・レイナーといった顔ぶれは馴染みは無いが、どれもイイ味を出している。

 ただし、不満もある。コナーのバンドはデュラン・デュランを“時代の最先端にあるグループ”と認識しリスペクトしているようなのだが、85年にはすでにデュラン・デュランの人気はピークを過ぎていた。この頃にはアイルランドからU2というカリスマ的なバンドが登場していて、いわゆるニューロマンティックの時代は終わろうとしていたのだ。そのあたりを少しでも言及して欲しかった。
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