元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「ケンタとジュンとカヨちゃんの国」

2010-06-19 06:54:12 | 映画の感想(か行)

 寂しい若者ばかり出てくる。主要登場人物の3人だけではなく、周囲を取り巻く連中も幸薄い境遇に置かれている。この映画が非凡である点は、彼らが惨めな状況にある原因を自己責任として片付けてしまうのではなく、その背後にある社会の有り様を巧みに糾弾していることだ。つまりは“恵まれないのは、自分のせいだろう!”という身も蓋もない突っ込みを完全に排除するほどの求心力を獲得しているのである。

 ビルの解体現場で働くケンタ(松田翔太)とジュン(高良健吾)は、子供の頃から同じ養護施設で育った仲だ。仕事はハードで、しかもケンタはチンピラヤクザでもある職場の先輩に弱みを握られ、給料を巻き上げられている。ある日彼らは夜の街でカヨ(安藤サクラ)という不細工な若い女を引っかける。行きずりの関係であったはずが、ジュンはそのまま彼女と一緒に住むようになる。だが、切羽詰まっていたケンタは職場の事務所をメチャメチャにし、先輩の車を破壊した上で、会社のトラックを奪って遁走。ジュンとカヨはそれに同行する。3人は誘拐事件で収監されているケンタの兄(宮崎将)に会うため、網走刑務所を目指すのだ。

 ドロップアウトした若者たちのロードムービーといえばアメリカン・ニューシネマの「イージー・ライダー」や「スケアクロウ」などを思い出す。しかし本作には、明るい話ではないそれらの映画にさえも存在していた“若者らしい楽天性”が少しも感じられない。

 ケンタもジュンも社会からの落伍者でありながら、外部への強い攻撃性は希薄だ。職場や車を荒らしはするが、あくまでも狼藉の相手は“物”に過ぎない。ラスト近くのチンピラヤクザとの“決闘”だって正当防衛に近いだろう。他人に喧嘩を売るどころか、傍目には人当たりの良い若者に見える。当然、これは二人が“好青年”だということではない。他人を信用しておらず、また信用してもどうにもならないことを知っていて、トラブルを避けるために適当に対応しているだけなのだ。

 無知と無教養を強いられたことによる、人間および社会に対する深い絶望。それでも、わずかに頼れるものは肉親だけだと思って兄と面会したケンタは、抱いていたその希望も木っ端微塵に崩れ去ってしまう。誰が彼らの生き様を“自己責任だ”と片付けられるのか。施設で育ち、親の顔は知らず、ロクな教育も受けられず、劣悪な環境の仕事しかない。こんな状態こそ“社会が悪い!”と言うべきではないのか。

 主人公達3人だけではなく、親からの虐待で片目を失ったかつての施設での仲間(柄本佑)も、絵空事の“将来の夢”を愚直なまでに信じ込んでいる若いキャバクラ嬢(多部未華子)も、身を切られるほどの寂寞感を漂わせている。こんな寂しい若者達を大量発生させているこの社会って、いったい何なのだ。

 エンドロールで流れる曲は岡林信康の「私たちの望むものは」だが(歌うのは若い女性歌手)、これは昔この歌を支持した世代が“望むものすら存在しない社会”を作り上げてしまったことへの痛烈な皮肉だろう。

 主演の3人はいずれも好演。特に安藤は他の有名女優(満島ひかりや成海璃子など)の“添え物”として扱われていた感があるが(笑)、ここでは冴えない容貌を逆手に取った不貞不貞しい存在感を発揮していて見応えがある。大森立嗣の演出は力強く、この貫禄はとても第2作目とは思えない。また、自らオリジナルの脚本も手掛けているのも心強い限りだ。ラストが冗長なのは残念だが(チンピラヤクザとのバトルで終わっていた方が数段良かった)、異色の青春映画としての価値は高い。
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