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元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「暗いところで待ち合わせ」

2006-12-21 06:48:10 | 映画の感想(か行)

 一軒家に一人で暮らす盲目のヒロインと、そこに侵入してきた殺人事件の容疑者との奇妙な“共同生活”を描く若手作家・乙一の同名小説の映画化。

 登場人物に対する作者のポジティヴな視点が心地よい映画だ。もっとも、脚本が万全ではないのは認める。まず、いくらこの“侵入者”が人畜無害のように思えても、すぐ近くで起こった事件の容疑者が逃走中であることは主人公は知っているはずだし、少しは警戒してもよさそうなものだが、彼女はそんな素振りも見せない。それ以前に目が不自由であっても臭いや気配で別の者が家に入り込んでいることは勘付くはずだが、それを暗示させるシーンもなし。かなりの御都合主義なのだ。中盤あたりで事件の“真相”が割れてしまうのも痛い。

 しかし、主人公二人の内面を丁寧に掘り下げる展開を見るにつれ、多少のアラも見逃してやろうかという気になる(笑)。感心したのは、二人が孤独に陥った理由を簡潔に示していること。

 小さい頃に失明したヒロインは自分は価値のない人間だと思い込み、印刷工場で働いていた容疑者は周囲との折り合いの悪さを“中国人とのハーフである”という自分ではどうにもならない“生い立ち”のせいにしてしまう。要するに不器用なため自ら孤独を招き入れているのだが、その二人が同居するハメになったことにより、自らの不器用さを自覚してゆくプロセスには説得力がある。

 天願大介の演出は平易ながら時折ドラマティックなシーンを挿入して作劇のメリハリを付けている。特に印象的な場面は、むかし父と離別した母が父の葬儀に来たものの、娘に会う勇気がなくそのまま家を出て、駅のホームで電車を待っているところにヒロインが“お母さん!”と叫ぶくだりである。目の見えない彼女が心に描く母親は、現在の悲しみに暮れた姿ではなく、白い服を着た若き日の母だ。現実の映像とヒロインの内面とが連続して映し出され、観る者の心を揺さぶる。

 主演の田中麗奈は珍しくスッピンに近い格好で出てくるが、何やらデビュー当時の初々しさを感じさせて好印象。演技面でも申し分ない。容疑者役のチェン・ボーリンも最初は固いが、後半ではそれが逆に活きてくる。岸部一徳や佐藤浩市といった脇も悪くない。乙一による原作も読んでみたくなった。
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「幻の光」

2006-12-20 06:57:08 | 映画の感想(ま行)
 95年作品。製作当時のヴェネチア映画祭に邦画としては久々に正式出品された話題作。大阪近郊で幸せな結婚生活を送っていたヒロイン(江角マキコ)は原因不明の自殺により夫(浅野忠信)を亡くす。5年後、縁あって奥能登の漁村に住む子持ちの男(内藤剛志)と再婚。しかし、彼女の心の中には前の夫の死が重く根を張っている・・・・。宮本輝の短編を映画化したのはテレビマンユニオンという番組製作会社で、監督はこれがデビュー作となった是枝裕和。

 観終わって感じたのは、作者はさぞや撮っている間は気持ち良かったろうなー、ということ。冒頭の大阪の下町を映す場面は、雰囲気がもろ台湾映画だ。侯賢孝かエドワード・ヤンの作品といっても違和感がない。そして小津安二郎風のカメラワークとアッバス・キアロスタミとよく似た作劇。ラストなんぞ“東京も見たし、熱海も見たし”というセリフがいつ老父役の柄本明の口から出てもおかしくない(笑)。

 映像が美しい。どのショット、カットをとってもそのまま芸術写真として通用する。撮影の中堀正夫もテレビ出身で映画は初めてだが、下世話な画面しか撮らせてもらえなかったうっぷんを晴らすように、ひたすら静的な映像美を追求する。左右対象の構図を多用し、黒を基調とした登場人物の衣装を活かすような、微妙なライティングとアングルが印象に残る。

 さて、あまりにも見事な映像に対し、肝心の人間ドラマはどうだったのかといえば・・・・これが何とも“薄い”のだ。なるほど、冒頭のヒロインの子供時代に祖母が行方不明になるエピソードや、最後まで夫の自殺の原因をわからないままにしておく筋書きなど、センチメンタリズムを廃して、日常の隣に住む“死への誘惑”とでもいうものと、それを“幻の光”として許容して生きていく人間の心の不思議を描き出そうという作者の意図は何となくわかる。テーマとしては実に斬新で興味深いが、それが美しくシンボリックに磨き上げた映像にどれだけ表現できていたか。正直言って不十分だと思う。

 セリフで延々と説明しろとは言わないけど、少しはヒロインの心の揺れを鮮明にあらわす暗示なり伏線がないと映画が平板になってしまう。日常を淡々と描くだけでは文字通りの“日常の映像化”にしかならないのだ。ま、あざとくならない程度の事件を盛り込んだり、小道具を使ったり、いろいろと方法は考えられるのだけどね。

 ただし、いろいろ不満はあるにせよ、現時点ではこれが是枝監督の最良作なのだから、何ともはや・・・・である(汗)。江角は本作が映画初出演。モデル出身らしく立ち振る舞いのシルエットの美しさには惚れぼれしてしまった。
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「武士の一分(いちぶん)」

2006-12-19 06:46:36 | 映画の感想(は行)

 主演が木村拓哉ということで観る前は若干の危惧を覚えたが(激爆)、なかなか抑制の効いた秀作に仕上がっている。

 一番のポイントは「たそがれ清兵衛」「隠し剣 鬼の爪」といった過去二本の藤沢周平原作&山田洋次監督作品とは違い、話の中心が主人公と妻との関係性にある点だ。藩から反乱分子を始末することを命じられ、強制的に決闘に出向いた前二作とは異なる。本作では妻に手を出した不逞の輩を懲罰するため“個人的に”果たし状を叩き付けるのだ。

 ただしその立ち回りのシーンは作劇において取り立てて大きな部分を占めていない。単なる“余興”と言っても良いだろう。映画のかなりの部分を占めるのは、主人公と妻、そして初老の使用人との“家族”の有り様だ。夫婦が会話するシーンや食卓を囲む場面もかなり多い。これがラスト近くの決闘場面が無く、全編が目が見えなくなった主人公を妻や周囲の者たちがフォローしていく展開だけであったとしても、十分感慨深い作品に仕上がったはずである。

 市井の人々の凛とした美しさを描こうという点は前二作と共通しているが、本作は(お上の生臭い事情が云々といったネタが少ない分)徹底している。それだけ前二作より幅広い層にアピールできよう。

 山田監督の静謐な演出が光るが、キャストの頑張りも特筆ものだ。キムタクは敢闘賞。序盤こそ若干の“キムタク臭さ(謎 ^^;)”が気になったが、ドラマが進むにつれ立ち振る舞いがサマになってくる。殺陣も万全で、なぜもっと早く時代劇映画に出てくれなかったのかと不平のひとつも言いたくなった(笑)。

 使用人役の笹野高史、コメディ・リリーフに徹した桃井かおり、悪役が実によく似合う板東三津五郎も良い仕事ぶりだが、最大の収穫は妻に扮した檀れいだ。楚々とした風情が役柄に完全にマッチ。気品もある。山田監督は「たそがれ清兵衛」で前衛舞踏家の田中泯を出演させて大きな効果をあげていたが、映画初出演となる今回の彼女の起用といい、人材を見つけてくるのが上手い。ノーブルな魅力を持つ女優が少ない中、檀れいには今後も映画に出て欲しい。
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「フォー・ルームス」

2006-12-18 06:41:47 | 映画の感想(は行)
 (原題:Four Rooms)95年作品。大晦日。ロスにあるホテル・モンシニョールでベルボーイのテッド(ティム・ロス)が遭遇する奇妙な客とのトラブル。クエンティン・タランティーノが製作総指揮を務める四話のオムニバス映画。

 第一話「お客様は魔女」(監督:アリソン・アンダース)は、魔女の親玉をよみがえらせるためにホテルの一室に集うヘンな女たちの話。マドンナやサミ・デイヴィスも出てくるのだが、ハッキリ言って全然面白くない。いったい何が描きたいのやら。意味不明のまま終わる。

 第二話「間違えられた男」(監督:アレクサンドル・ロックウェル)は、嫉妬に狂う夫(デヴイッド・プローヴァル)に縛られた妻(ジェニファー・ビールス)、しかも夫はピストルを振り回している、という最悪の事態に部屋に入り込んだテッドの災難を描く。不倫の相手と間違えられて立場が苦しくなるテッドだが、演出がド下手で思うように画面が弾まず、ワザとらしい展開にアクビが出た。

 第三話「かわいい無法者」は、ヤクザ(アントニオ・バンデラス)とその妻(タムリン・トミタ)に、留守中の子供二人の子守りを任されたテッドの悪戦苦闘を描く。さすがロバート・ロドリゲスが監督しているだけあって、四話の中では一応楽しめる。二人の悪ガキが次々と面倒を起こし、ベッドの下からは娼婦の死体は出てくるわ、テレビからはアダルト番組が垂れ流されるわ、一番ヤバい時点でヤクザ夫婦が帰ってくるという展開の巧みさでけっこう笑わせてもらった。

 第四話「ハリウッドから来た男」はタランティーノ自身が監督している。主演作一本だけでのし上がったコメディ俳優(タランティーノ本人)から頼まれて、賭けのカタに俳優仲間の指一本を切り落とす手伝いをさせられるテッドの受難を描く。長いカットで延々続くタラン氏の軽口とブルース・ウィリスの飲んだくれぶりを映している間に、ラストのオチが読めてしまった。こんな安手のトーク番組みたいな楽屋落ちを堂々とスクリーン上でやる神経がわからない。思いっきりシラけた。

 結果、1勝3敗で負け越し。(質的に)森田芳光の「バカヤロー!」シリーズを思わせる作りだ。音楽はよかったけどね。
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「めぐみ 引き裂かれた家族の30年」

2006-12-17 07:11:53 | 映画の感想(ま行)

 (原題:ABDUCTION: The Megumi Yokota Story)観終わって、私は怒りを覚えた。それは映画の出来が低レベルだったからではない。北朝鮮への改めての怒りでもない(あのクソみたいな国には、映画を観なくても普段から十分すぎるほど怒っている)。こういう題材をまんまと外国人に持って行かれた日本映画界に対して憤りを感じているのだ。

 拉致問題は最もホットな時事ネタのひとつであり、当事国としていくらでも描き方があると思うのだが、邦画のプロデューサーは見向きもしない。この問題だけではなく、今の日本映画界は社会的な題材に対して実に冷たい。そして生ぬるいメロドラマやノスタルジアにどっぷり浸かった“むかし話”に終始している。これでいいのか? もうちょっと気合いを見せたらどうだ。我々の同胞が他国にさらわれて辛い思いをしている。それに対して何も思わないのか。えっ、そんなネタは客が入らない? 本作を上映している映画館は満員御礼だぞ。こういうテーマを無視して、何がカツドウ屋だ。それとも、こんな題材を扱うのを妨害する“ある勢力”が存在するとでもいうのか。

 それはさておき、この映画は丁寧な作りで好感が持てる。編集のテンポも手際が良い。監督はアメリカのドキュメンタリー作家、クリス・シェリダンとパティ・キム。製作はジェーン・カンピオンが当たっている。カメラが適度な距離を置いて捉える横田夫妻の苦闘には何度かグッときた。「小川宏ショー」での家出人捜索コーナーとか、訪朝した小泉首相と安倍晋三が金正日に会う直前の表情とかいった、貴重な映像も満載だ。

 そして思わず声をあげそうになった箇所がある。それは横田めぐみさん自身の“肉声”が流れるところだ。小学校の合唱コンクールでソロを担当していて、それがテープに残っていたのだ。まぎれもなく彼女が“実在していたのだ!”という厳粛な事実が明らかになり、たまらない気持ちになった。一刻も早い事態の解決を望むものである。
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「我が人生最悪の時」

2006-12-11 06:41:45 | 映画の感想(わ行)
 94年作品。横浜・黄金町の映画館の2階に事務所を構える私立探偵・濱マイクの活躍を描くアクション篇。モノクロ、シネマスコープというけっこう野心的な外見を持つ映画である。

 結論から先に言うと、意外に楽しめた。監督は林海象で、デビュー作「夢みるように眠りたい」(86年)以外はすべて駄作の、信用できない作家である。しかし、今回に限っては健闘している。昭和初期のレトロな様式にこだわる林監督は、舞台が現代の都会でありながら、どこかノスタルジックであたたかく、しかし実際には絶対に存在しない独特の空間を作りだすことに成功している。

 マイクは、麻雀屋でヤクザにからまれているところを助けた台湾人の青年から、彼の行方不明になった兄を捜すように依頼される。しかしその兄は新興暴力団のヒットマンになっていた。実は弟は台湾の組織から兄を殺すように派遣されていたのだ。マイクの身にも危険が迫る。

 永瀬正敏扮するマイクは、浮世絵柄のジャケットにハンチング、年代物のド派手なアメ車を乗り回し、警察にもマークされる問題児。これ見よがしのキザったらしい造形がなぜかこの映画の雰囲気に合っている。しなやかな身のこなしも悪くない。相棒のタクシー運転手(南原清隆)、親父代わりのベテラン探偵(宍戸錠)、凶暴なヤクザのボス(佐野史郎)など、周りのキャラクターも“立って”いる。

 演出のテンポはかなりいい。殺しのシーンの迫力や活劇場面のスピード感など、邦画の中では上出来の部類だろう。

 しかし、欠点も多い。まず、中盤に登場する台湾ヤクザの存在感が主人公を食ってしまうことだ。特に候徳健扮する殺し屋のスゴ味はなかなかのもの。修健演ずるチンピラも捨て難く、こいつらを相手にするにはこの主人公じゃ力不足だ。それから、アンハッピーに終わる物語に関して、結局主人公は何をしたのだという疑問も残る。周囲をバタバタ駆け回って、話をややこしくしただけと思うのは私だけか。モデルになったらしいミッキー・スピレーン作のマイク・ハマーみたいに、痛快な働きぶりを見せてほしい。昔はけっこうワルだったという主人公のバックボーンも不鮮明。くどくど説明する必要はないが、それを暗示させるような描写をもっと入れるべきだ。

 まあ、いろいろ書いたが、日本映画の活劇もの中ではマシな部類で、ワイド・スクリーンの魅力も相まって観て損はしないだろう。めいなCo.による音楽や木村威夫の舞台美術も要チェックである。
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「時をかける少女」

2006-12-10 07:48:24 | 映画の感想(た行)

 本作はもちろん筒井康隆の同名原作を元にしているが、小説そのままの映画化ではなくオリジナルストーリーによるアニメーションである。

 ただしあの大林信彦監督作品を“下敷き”にしていることは確かで、大林版が製作されてから20数年経っているからか、前回の主人公である芳山和子は今回のヒロインの叔母という設定で、しかも彼女がタイムリープの能力を持っていたのは“20年前”ということになっている。舞台は東京の下町ながら、大林監督の“尾道シリーズ”同様、坂道が大きなモチーフとして使用されているあたりも年季の入った映画ファンとしては嬉しい。

 今回タイムリープの主役になる女子高生・紺野真琴は、突然身につけた能力を、テストの点数稼ぎやちょっとした言い間違いの訂正、果ては好きな料理を何度も食べるためやカラオケを延々と続けるといった、実にくだらないことに使っているのが天晴れだ(爆)。タイムパラドックスなど眼中にないほどの脳天気な振る舞いながら、新人・仲里依紗の溌剌とした“声の好演”もあり、まったく嫌味がない。

 前半はそんな彼女の御転婆ぶりに大笑いさせられるが、中盤以降の男友達二人との関係をじっくり描く段になると、甘酸っぱい青春ドラマとしての側面が強調され始め、観る者の胸を締め付ける。女子一人と男子二人の、愛情に限りなく近い友情が何のてらいも違和感もなく展開されるのは、主人公達の若さゆえか。

 懐かしい学校のディテール描写や登場人物の心情を表すかのような青い空の映像が抜群の効果。バッハのゴールドベルグ変奏曲をはじめとする音楽も素晴らしい。

 原画の枚数はテレビアニメに毛が生えた程度で、作画のデッサンも万全とは言い難いが、内容では今年の日本映画全体の中で上質の部類に入る。監督の細田守は「ハウルの動く城」の監督に指名されていたらしく、もしも彼が演出を担当していれば・・・・と思わずにはいられない。
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「狼たちの街」

2006-12-09 07:59:35 | 映画の感想(あ行)
 (原題:Mulholland Falls)96年作品。50年代のロスアンジェルスを舞台に、法の網の目をかいくぐる悪党に正義の制裁を加えるロス市警の4人の刑事“ハット・スクワッド”(ニック・ノルティ、チャズ・パルミンテリ、マイケル・マドセン、クリストファー・ペン)を描く。監督は「ワンス・ウォリアーズ」「007/ダイ・アナザー・デイ」のニュージーランド出身のリー・タマホリ。

 典型的ハードボイルド・タッチの映画だが、同じくロスを舞台にした「ブラック・ダリア」なんかよりもずっと面白い。マフィアのボスを崖から突き落としたりするのは序の口、相手がFBIだろうとCIAだろうとペンタゴンだろうと、全然態度を変えずエゲツない捜査を続ける彼らスクワッドの確信犯的なふてぶてしさがいい。しかも警察上層部が彼らの行動を黙認しているというムチャクチャぶり。4人が並んで通りを歩いたりオープンカーに乗って「パルプ・フィクション」ばりのキレた会話を交わすシーンなんかは結構かっこいいし、時代考証も確かなダンディな衣装も泣かせる。

 でも一番興味深かったのは、舞台がLAの都心部ではなく郊外を中心としていることだ。当時はLAの街自体が外に向かって拡大を始め、宅地開発に伴う利権をめぐって各地からワルが集まってきた。それだけ警察の目が届かない犯罪が増えたということだが凶悪犯罪が都会の路地裏ではなく、何もさえぎるものがない沙漠や荒野の真ん中で横行していたという意外性。西部劇のバリエーションという言い方もできるが、今回の事件は空き地の真ん中に身体中の骨がバラバラになった女の死体が転がっていたことから始まり、郊外のマンションに屈折した覗き魔が登場したり、やがてロスより遠く離れた米軍の原爆実験場に事件の核心があったという設定は(つまり都心から離れるに従って事態は深刻度を増していく)、都市文化を醒めた目で捉える作者のユニークなスタンスがうかがえる。

 ノルティの妻を演じるメラニー・グリフィスや、不倫相手のジェニファー・コネリー(本作でのバストのデカさには感激したぜ ^^;)、上司のブルース・ダーンなど脇もいいけど、やはりノルティと相棒のパルミンテリが最高だ。エグイ捜査やってるわりには繊細で精神分析医に通っているパルミンテリが、ノルティに何かと口実を作って付きまとっていくあたりが愉快。

 アクションシーンはほとんどないが、数少ない暴力場面はかなりのインパクトを与える。画面の飾りに過ぎない“お約束”のバイオレンスシーンではなく、真に必然性のある暴力しか描いていないためだろう。このあたり、ほかのアメリカ映画は見習ってほしいものである。
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「トゥモロー・ワールド」

2006-12-08 06:45:05 | 映画の感想(た行)

 (原題:Children of Men)子供がまったく生まれなくなった近未来、世界中のほとんどの国は無秩序状態になり、強力な全体主義でかろうじて国家体制を維持しているイギリスを舞台に、主人公の官僚(クライヴ・オーウェン)が反政府軍が巻き起こす内乱に巻き込まれてゆく様子を描く・・・・といった設定には、まったく興味が持てない。

 原作のP・D・ジェイムズの「人類の子供たち」というSF小説は私は未読で、それにはもうちょっと気の利いた展開が記されているのかもしれないが、映画を観た限りではいかにも一昔前のディストピア指向の作品といった感じで、平板なストーリーも退屈の極みだ。アルフォンソ・キュアロンの演出がまた必要以上に深刻かつ重く、この程度のネタに何を勿体つけているのかと文句のひとつも言いたくなった。

 ではまったく観る価値はないのかというと、そうではない。なぜなら終盤30分からの映像がそれまでのズンドコぶりを吹き飛ばすほど凄いからだ。

 ゲットーに立て籠もった反政府組織に対し政府軍が一斉攻撃をかける市街戦の描写は、ヘタな戦争映画が消し飛んでしまうほどリアルで凄惨だ。しかもこれは、現在世界のどこかで勃発している戦火の実態を如実に描出している。

 映画では“人類は子孫を残せない”という絶望的な“結末”はもう決定しているにもかかわらず、目先の利害やメンツにこだわって無用な流血が果てしなく続く惨状が描かれるが、実際の紛争もこれとさほど変わらない。やれ正義だ民族の誇りだといった大義名分はいつの間にか置き忘れられ、戦闘のための戦闘、殺戮のための殺戮が限りなく続き、問題の解決どころか憎悪の連鎖だけがいつまでも残る。この“世界の現実”をスクリーン上にヴィヴィッドに焼き付けたことだけでも、この作品の存在意義はある。

 戦場での主人公の行動を長回しで逐一追いかけるカメラワークも驚くべきレベルの高さだ。
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「ALWAYS 三丁目の夕日」

2006-12-07 06:44:35 | 映画の感想(英数)

 確かに、時代背景となる昭和30年代前半を見事に再現した映像の見事さに圧倒される。集団就職やSL、オート三輪など当時の風俗・事物の扱いには抜かりはないが、それよりCGの使い方には舌を巻いた。これ見よがしの特撮を極力抑えた、あくまで実写のサポート的な位置づけ、そしてその分スクリーンの背景に象徴的にそびえる建設中の東京タワーを精緻に描出するというメリハリを付けた処理は、さすがSFXの扱いには定評のある山崎貴監督だ。

 しかし、そういう映画のエクステリアが醸し出すノスタルジアだけで感動してしまうのは、団塊世代より上の人たちだろう。では他に何があるかというと、実は何もないに等しいのだ。

 肝心のストーリーそのものは単なる人情話、それもこの時代背景があるからこそ、かろうじて成立しているような、手垢にまみれたものでしかない。もちろん、現在に通じるものも感じられない。この点、ノスタルジックな世界を題材にしつつ見事に現代に向けたメッセージを発信した「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲」とは大きな差がある。

 吉岡秀隆をはじめ堤真一、薬師丸ひろ子といった出演陣が好調なだけに、もっと脚本を工夫して欲しかった。

 それにしても、この時代は日本映画の全盛時だったはずだが、それに触れていないのはどういうわけだろうか。製作元がテレビ局だからか?(爆) そういえば映画館で観たときは劇中に不自然なフェイドアウト処理が目立ったが、あれはテレビ放映時のCM挿入を想定している・・・・という見方は下司の勘ぐりかな?(笑)

 さらに、この映画が団塊世代より上の層以外の、幅広い支持を集めてしまったこと自体が、今の日本映画を取り巻く状況を象徴していると言える。現実には目の前に問題が山積し、庶民ベースでは確実に不遇を強いられる状況が昂進しているにもかかわらず、こういった今の時代に通じるものが希薄な“閉じた世界”に作り手も受け手も安住してしまっている。まるで他人の貧乏に対し高みの見物を決め込んでいるような、しかも自らのシビアな生活を棚に上げて“下には下がいる”という感じの、刹那的で自慰的なスタンスを感じてしまう。

 もちろん、映画鑑賞そのものも刹那的で自慰的な娯楽である。“お涙頂戴の人情劇、それのどこが悪い!”と開き直られると、何も言えない(笑)。しかし、いくらその場限りの娯楽でも、何かしらリアルなテイストを挿入しないと退屈極まりないシロモノに堕すると思っているのは私のようなヒネた映画ファンだけなのか。いずれにしろ、このぬるま湯に浸かったようなノスタルジア劇でしかない本作は、とても評価する気になれない。

(注:この映画の感想は2005年の11/17に一度アップしましたが、この書き込みはそれを加筆訂正したものです。なお、前回のアーティクルは削除しています)
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