(原題:Avalon)90年作品。バリー・レビンソン監督の最良作だ。まずオープニングが素晴らしい。夜空を飾る花火、鮮やかなネオン、はためく星条旗に包まれた独立記念日のボルチモアの夜。賑わう街の中を、東欧からこの地に移住してきた若き日のサム・クリチンスキー(アーミン・ミューラー=スタール)がゆっくりと歩いて行く。そこに彼が劇中で何度もつぶやく“1914年、私はアメリカへ渡った。そこは見たこともないような美しい街だった”というセリフが重なる。
歳月は流れ、サムの息子であるセールスマンのジュールスとその子供のマイケルが登場する。ボルチモア出身者でもあるレビンソンからすれば、マイケル少年のキャラクターが彼の分身なのだろう。
時代を表現する小道具としてテレビが実にうまく用いられている。1940年代にはじめてクリチンスキー家にテレビが入り、家族全員がテストパターンも番組だと思い込み、真剣に見入りながら、“これじゃラジオの方が面白いよ”と言い合う場面には笑ってしまった。
テレビの登場以来、クリチンスキー家の生活に徐々に変化が現れてくる。テレビに夢中になることで、家族同士の会話が減少してしまうのだ。それが遠因になって、以前より仲の悪かった嫁と姑の関係がさらに悪化しジュールス家の両親と息子夫妻は別居することになる。
しかし、クリチンスキー家に入り込んだテレビは、弊害ばかりをもたらしたわけではない。収容所から奇跡の生還をはたしたマイケル少年の従妹のエルカは、英語が全然理解できなかったが、マイケル少年とともに子供向け番組を見るうちに、ナレーションとセリフを通して自然に英語がしゃべれるようになる。
さらに、テレビを中心に家電のサービスに乗り出したジュールスは、当時としては珍しいテレビ放送によるコマーシャル・フィルムという“先鋭的”なマーケティングを展開する。その後、ジュールスが選んだ第二の人生は、テレビのCMをメインにした新しいタイプの広告代理業だったのである。
ジュールスが経営するデパートが開店初日に全焼してしまい、マイケル少年は当日、従弟と地下室で火遊びをしたことが原因ではないかと思い、悩みに悩んだあげく、父親に正直に打ち明けると、実は漏電が原因で火遊びのせいではないことがわかる。叱られると思ったマイケル少年は逆に父親からその正直さを認められる。心暖まるエピソードだが、全然説教臭くなく、素直に感動できる。
その他たくさんの出来事が描かれるが、どのエピソードもアメリカという異境で自らのアイデンティティを失わず、なおかつアメリカの市民としての地位を得た一族を通して、ひとつの壮大な“アメリカ現代史”を構築しようという作者の意気込みが伝わってくる。
“こんなに何もかも変わってしまうなら、もっとしっかり記憶に刻みつけておけばよかった”と当時を回想する年老いたサムが見ているテレビには、現在のボルチモアの独立記念日の街の模様の中継が映っている。それはいつしか、あの美しい1914年の7月4日の夜の光景へとオーヴァーラップしていく。そんな見事なシーンで終わるこの作品。公開当時はさほど話題にもならず、アカデミー作品賞の候補にもなれなかったが、よく知られた映画であるレビンソンの前作「レインマン」よりも、こっちの方が断然好きである。
歳月は流れ、サムの息子であるセールスマンのジュールスとその子供のマイケルが登場する。ボルチモア出身者でもあるレビンソンからすれば、マイケル少年のキャラクターが彼の分身なのだろう。
時代を表現する小道具としてテレビが実にうまく用いられている。1940年代にはじめてクリチンスキー家にテレビが入り、家族全員がテストパターンも番組だと思い込み、真剣に見入りながら、“これじゃラジオの方が面白いよ”と言い合う場面には笑ってしまった。
テレビの登場以来、クリチンスキー家の生活に徐々に変化が現れてくる。テレビに夢中になることで、家族同士の会話が減少してしまうのだ。それが遠因になって、以前より仲の悪かった嫁と姑の関係がさらに悪化しジュールス家の両親と息子夫妻は別居することになる。
しかし、クリチンスキー家に入り込んだテレビは、弊害ばかりをもたらしたわけではない。収容所から奇跡の生還をはたしたマイケル少年の従妹のエルカは、英語が全然理解できなかったが、マイケル少年とともに子供向け番組を見るうちに、ナレーションとセリフを通して自然に英語がしゃべれるようになる。
さらに、テレビを中心に家電のサービスに乗り出したジュールスは、当時としては珍しいテレビ放送によるコマーシャル・フィルムという“先鋭的”なマーケティングを展開する。その後、ジュールスが選んだ第二の人生は、テレビのCMをメインにした新しいタイプの広告代理業だったのである。
ジュールスが経営するデパートが開店初日に全焼してしまい、マイケル少年は当日、従弟と地下室で火遊びをしたことが原因ではないかと思い、悩みに悩んだあげく、父親に正直に打ち明けると、実は漏電が原因で火遊びのせいではないことがわかる。叱られると思ったマイケル少年は逆に父親からその正直さを認められる。心暖まるエピソードだが、全然説教臭くなく、素直に感動できる。
その他たくさんの出来事が描かれるが、どのエピソードもアメリカという異境で自らのアイデンティティを失わず、なおかつアメリカの市民としての地位を得た一族を通して、ひとつの壮大な“アメリカ現代史”を構築しようという作者の意気込みが伝わってくる。
“こんなに何もかも変わってしまうなら、もっとしっかり記憶に刻みつけておけばよかった”と当時を回想する年老いたサムが見ているテレビには、現在のボルチモアの独立記念日の街の模様の中継が映っている。それはいつしか、あの美しい1914年の7月4日の夜の光景へとオーヴァーラップしていく。そんな見事なシーンで終わるこの作品。公開当時はさほど話題にもならず、アカデミー作品賞の候補にもなれなかったが、よく知られた映画であるレビンソンの前作「レインマン」よりも、こっちの方が断然好きである。