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元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「チワワちゃん」

2019-02-02 06:30:55 | 映画の感想(た行)

 楽しく観ることができた。もっとも、軽佻浮薄なエクステリアに対して拒否反応を示す観客も多いと思うので、幅広くは奨められない。だが、背後にある作者の確固たる視点と主張には共感する。オフビートかつシリアスな青春映画として評価したい。

 夜ごと遊び回る大学生を中心としたグループに、チワワと名乗る若い女が突然強引に参加する。彼女はその吹っ切れた言動で、たちまちグループ内のマスコット的存在になる。ある晩、政治家への闇献金の600万円を持ったままクラブに来店したゼネコン幹部から、チワワは金を強奪しようとする。派手な追いかけっこの末に金を手に入れたグループの面々は、その金で熱海まで繰り出して豪遊する。

 だが、金が底をつき、彼らは日常に戻ると、以前のように頻繁に会うことは無くなった。そんなある日、チワワがバラバラ遺体となって東京湾で発見されるというニュースが流れる。残りのメンバー達はそれぞれが彼女との思い出を語るのだが、気が付いてみると、誰もチワワの本名や境遇を知らないのだった。岡崎京子が94年に発表した短編コミック(私は未読)の映画化である。

 映画はメンバーの一人であるミキが、チワワの死後に狂言回し的な役どころで他の連中にチワワとの関係を聞き出していくという形式で進む。彼らの話の中から浮き上がってくるチワワ像は、とにかく“完璧”に近いということだ。

 ルックスはもとより、かなりの芸達者。グループに加入する前も、メンバーと疎遠になった後も、芸能界にしっかりとコミットし、モデルや歌手としてのオファーが絶えない。表情や仕草はキュートで、無鉄砲な振る舞いも、実に絵になる。しかも気取ったところが無く、料理の腕は一流だ。言うなればこれは、ミキ達(および作者)の考える“若さ”のメタファーであろう。

 若さは免罪符であり、若ければ誰でもチワワのように無敵で万能。先のことなど考える必要は無い。しかし、いつかは時間と経験が積み重なり、若さは消えていく。その厳しい現実に、儚く去っていったチワワの姿を重ね合わせるとき、切ない感慨が湧き上がってくる。

 二宮健の演出は極彩色の画面をバックに、うねるようなグルーヴを伴って展開する。ヘタすれば悪趣味に終わるところだが、まるで違和感を覚えない。これは一種の才能だろう。キャストの中ではミキを演じる門脇麦が光る。さすがの演技力で、彼女が映画の中心にいる限り、破綻することは無いと思わせる。

 成田凌や寛一郎、玉城ティナ、村上虹郎、松本穂香、栗山千明など、他の面子も良好。浅野忠信が相変わらずの変態ぶりを見せつけているのも嬉しい(笑)。そして本作の一番の収穫は、チワワに扮する吉田志織である。外見は可愛いが、その裏にある狂気性を醸し出し、まさに圧巻。今年度の新人賞の有力候補だ。
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「沈黙の戦艦」

2019-01-18 06:57:23 | 映画の感想(た行)
 (原題:UNDER SIEGE )92年作品。今ではスティーヴン・セガールの主演作をクォリティの面で期待している観客はあまりいないと思うが(苦笑)、この映画はなぜか公開前には“アクション巨編”として賑々しく宣伝され、映画ファンの注目を浴びていたのである。私は封切り日に観ているのだが、客席は満杯だった。そしてロビーでは、業界関係者と思しき人たちが“楽しみにしていた映画がやっと公開ですね”という感じで談笑していたことを覚えている。時代が違えば、興行における扱いも変わってくるものである。

 核を積んだアメリカ海軍の戦艦“ミズーリ”がテロリスト一味に乗っ取られる。それに単身立ち向かうのは、元米軍特殊部隊の強者で、問題を起こして今は“ミズーリ”のコックに格下げになっている(笑)ライバックという人物。圧倒的な武装と人員を誇るテロリストたちに対し、果たして彼に勝ち目はあるのか・・・・という話だ。



 ストーリーは「ダイ・ハード」シリーズと似てるのではないかというとの意見もあるかと思うが、事実、この作品が公開されたおかげで、「ダイ・ハード3」の脚本が書き直されるハメになったという逸話がある。

 セガール御大は相変わらずだ。表情に乏しく、緊張感のかけらもない。それまでも「刑事ニコ/法の死角」(88年)「死の標的」(90年)などの過去の主演作も観ているのだが、印象としては合気道が上手いだけのタフガイにすぎない。戦艦のシージャックという設定は悪くないが、展開が行きあたりばったりで、登場人物の位置関係もハッキリせず、ハデな銃撃戦で場面を繋いでいるだけのようだ。

 政府関係者の対応がステレオタイプで面白くないし、敵の親玉(トミー・リー・ジョーンズ)との決闘も意外性がなくあっけない幕切れ。驚くようなアクションシーンもなく、核ミサイル発射の恐怖も希薄なら、ラストのカタルシスも十分とは言い難い。まあ、監督がアンドリュー・デイヴィスというB級なので、多くは望めないだろう。

 結局、観終わって印象に残ったのは、ヒロインを演じるエリカ・エレニアックの大きいバストだけだった。しかしながら、現時点では作品自体を一種の“ネタ”として楽しむ余地はあるかもしれない。
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「つる 鶴」

2018-11-30 06:29:23 | 映画の感想(た行)
 88年東宝作品。吉永小百合の映画出演100本記念作品として上映されたが、正直、どうしてこのような企画が通ったのか分からない。出来の方も、さほど芳しいものではない。

 もっとも、監督の市川崑はこの前年に「竹取物語」を撮ってヒットさせており、映画会社としては“むかし話の第二弾”(?)として、ある程度の興収が見込めると踏んだのだのかもしれない。だが、古典文学と民話では違うアプローチが要求されるだろうし、加えて主演に吉永を持ってこなければならない立場上、当初から無理筋の話だったのかもしれない。

 民話「鶴の恩返し」の映画化で、今さらこのネタをスクリーン上で展開する必然性があったのかどうかはともかく、作劇面では工夫が足りない。その最たるものは、つるの夫となる貧しい百姓・大寿の造型だ。明らかにコメディ方面に振られたキャラクター設定で、静謐な雰囲気の創出を狙った美術や演出テンポと合っていない。演じる野田秀樹はよくやっていたと思うが、彼が頑張れば頑張るほど違和感は増すばかり。これは脚本とキャスティングの不備かと思う。

 主演の吉永は美しく撮られていたとは思うが、もとより演技力に難のある女優なので、彼女が画面の真ん中に陣取るたびに白々としたムードが漂ってしまう。さらに致命的なのは、機を織る鶴の描写が呆れかえるほど稚拙なことだ。ただのハリボテではどうにもならない。いくらCGが普及していない時代の映画とはいえ、特撮映画を数多く手掛けていた東宝の作品とも思えない。

 樹木希林に川谷拓三、横山道代、菅原文太、岸田今日子、常田富士男といった豪華な面子を並べているのに、大して働かせていないのもマイナスだ。ただ、上映時間が1時間半ほどである点は良かった。この調子で2時間以上も引っ張っていれば、観ているのも苦痛になっていたところだ。

 私はこの映画を封切り当時に観ているのだが、映画本編よりも驚いたことがある。それは何と、劇場の天井にミラーボールが備え付けられており、場内が暗くなって映画が始まる前に起動し、劇場中に小さな光がハデに反射したことだ。どうやら鶴の羽根が舞い踊る様子を表現したかったらしいが、こういう“小細工”に頼らざるを得ないほど、映画会社は本作の興行的な難しさに(完成後に)気付いたということだろうか。なお、谷川賢作による音楽は良かった。
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「飛ぶ夢をしばらく見ない」

2018-11-25 06:35:00 | 映画の感想(た行)
 90年松竹作品。デイヴィッド・フィンチャー監督の「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」(2008年)に似た設定の映画だが、出来はこちらの方が幾分マシである。だが、決して優れた映画ではなく、どちらかというと凡作の部類だろう。いずれにしろ、この“若返りネタ”(?)というのは用意周到に段取りを整えないと、サマにならないということを実感した次第。

 中年サラリーマンの田浦修司は、心労で飛び降り自殺未遂を起こし、負傷したまま入院していた。ある日、都合により一夜だけ他の患者との同室を頼まれる。相手は女で、互いの顔が見えない2人は、言葉だけのセックスをしてしまう。翌朝、田浦は相手の顔を見るが、女が白髪の老人だったことにショックを受ける。



 退院後、田浦はまたその女・睦子と会う機会を得るが、何と彼女は40代にしか見えない。田浦は睦子とホテルで一夜を過ごすが、翌朝彼女は消えていた。3か月後、田浦の前に現れた睦子は、20代になっていた。運命的なものを感じた田浦は、家庭を捨てて睦子と同棲生活に入る。だが、ある男の警察への密告により2人は引き離されることになる。山田太一による同名小説の映画化だ。

 睦子に扮した石田えりが公開当時に“ヒロインは、ただの病気だ”という意味のコメントを述べていたように記憶するが、主演女優自ら主人公の境遇を“病気”と片付けてしまうのは、本作のモチーフが“その程度”のことにしか扱われていないことを意味する。要するにこの映画、急速に若返ってしまう“病気”に冒された女と付き合う中年男の姿を通じて、身も蓋もないオッサンの願望を表現しているに過ぎないのだろう。

 事実、後半すでに十代に到達した睦子と向き合う田浦の姿には、明らかなロリコン臭が漂う(笑)。演じる細川俊之も好色演技(?)に専念しているようで、あまり広くアピールしてくるものが感じられない。もはやストーリーを進める余地は無いとばかりに打ち切られたラストには、タメ息しか出ない。

 須川栄三の演出は可もなく不可も無し。姫田真佐久による撮影、津島利章の音楽、共に大したことはない。加賀まりこや笹野高史、岡本麗といった他の面子も精彩を欠く。それでも、この映画が1時間40分ほどである点は、「ベンジャミン・バトン」よりも評価できる。何しろあの映画は本作より1時間も長かったのだ。
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「チューリップ・フィーバー 肖像画に秘めた愛」

2018-11-05 06:27:56 | 映画の感想(た行)

(原題:TULIP FEVER )殊更持ち上げたい映画ではないが、観ている間は退屈せず、よくまとまった作品だと思う。吟味された舞台セットや衣装を見るだけでも有意義だし、背景になっている経済史上の重要な出来事は実に興味深い。

 17世紀前半のオランダ。幼くして両親を亡くし修道院で育ったソフィアは、親子ほども年の離れた実業家のコルネリスと結婚し、何不自由ない生活を送っていた。だが、夫が望んでいる子供はなかなか出来ず、気ばかり焦る毎日だ。ある日、コルネリスは夫婦の肖像画を無名の若い画家ヤンに依頼する。ヤンとソフィアはすぐに懇ろになり、コルネリスの目を盗んで逢瀬を続ける。

 一方、屋敷の女中マリアは出入りの魚屋ウィレムと付き合っているが、彼の子を宿した途端、ウィレムとは離れ離れになってしまう。ソフィアは、マリアの子を自分が産んだことにしてコルネリスを欺こうと画策する。デボラ・モガーの小説の映画化で、モガーは脚本にも参画している。

 当時のオランダは、いわゆるチューリップ・バブルの真っ直中にあった。チューリップの球根の値段が際限なく上昇し、人々は希少で値上がりが見込める品種を狂騒的に追い求める。ヤンが分不相応な野心を抱いたのも、ウィレムがオランダを離れるハメになったのも、元々はこのバブリーな状況が原因だった。

 町の一角で繰り広げられた球根の競売の有様や、教会までがこのバブル騒動に荷担していたという事実は、なかなかインパクトがある。ソフィアの計略は無理筋だが、それを可能に思わせたのが、バブルに踊る世相と無関係ではなかったのは言うまでも無い。

 だが、バブルはいつかは終焉を迎え、皆は“素面”に戻る。だから登場人物達も、シビアな現実に直面して手痛いしっぺ返しを食らう・・・・という筋書きには必ずしも直結しないというのが、この映画のミソだ。確かに彼らはしっかりとツケを払うことになるのだが、決して絶望的な結末にはならない。それぞれが収まるところに収まってしまう。だから鑑賞後の印象も悪くないのだ。

 ジャスティン・チャドウィックの演出は奇を衒わず正攻法で、淡々と物語を進めていく。ソフィア役のアリシア・ヴィキャンデルは、いつもながらの“可愛いくてエロい”という持ち味を発揮。画面を盛り上げてくれる。ヤンに扮するデイン・デハーンは幾分チャラいが、画家の雰囲気は良く出ていた。クリストフ・ヴァルツが珍しく“いい人”を演じているのが玄妙だし、ジュディ・デンチの海千山千ぶりも見ものだ。

 美術担当サイモン・エリオットによる、当時のアムステルダムの風景の再現。マイケル・オコナーによる素晴らしい衣装デザイン。彩度を抑えたリック・ラッセルの撮影と、流麗なダニー・エルフマンの音楽も要チェックである。
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「ダメージ」

2018-11-02 06:27:08 | 映画の感想(た行)
 (原題:DAMAGE)92年作品。ルイ・マル監督の作品をすべて観ているわけではないが、本作は出来の良い方だと思う。何より、愛欲に溺れている男と女が実は互いに全く違う認識を持っていること、そしてそれがもたらす取り返しの付かない災厄を容赦なく描くあたりに、作者の覚悟をひしひしと感じてしまう。

 英国下院議員のスティーヴン・フレミングは、政治家として着実にキャリアを積み上げていた。ある日、彼は息子のマーティンから恋人のフランス女性アンナを紹介される。ところがスティーヴンとアンナは互いに一目惚れし、マーティンには内緒で頻繁に会うようになる。



 スティーヴンの妻イングリットはアンナに不信の念を抱くが、アンナと離れられなくなったスティーヴンは、イングリットと別れることを決意する。だが、アンナはマーティンと婚約。それでもスティーヴンとアンナの仲は続く。アンナの母エリザベスは事情をすべて知っており、スティーヴンにアンナと手を切るように申し出るのだった。ジョゼフィン・ハートの同名小説の映画化である。

 アンナはスティーヴンにとって宿命の女(ファム・ファタール)であった。しかし、アンナにすれば彼との関係はアヴァンチュールの一つでしかない。マーティンとの安定した結婚生活と、スティーヴンとの不倫は、アンナの中では完全に“両立”するものだったのだ。しかし彼女のそんな性根は、十代の頃に受けた深刻な精神的ダメージに起因することが明らかになるに及び、何ともやるせない気分になってくる。

 また、絵に描いたような謹厳実直な人生を送ってきたスティーヴンと奔放なアンナの違いを通して、イギリスとフランスのそれぞれの“国民性”さえ浮き彫りにしようとするあたり、何とも底意地の悪い構図である(注:これはホメているのだ ^^;)。ラストの扱いなど、まさに身を切られるようだ。

 スティーヴンに扮するジェレミー・アイアンズはまさに絶品で、転落してゆく英国紳士をノーブルに演じきる。アンナ役のジュリエット・ビノシュも熱演なのだが、どうも彼女の当時のキャラクターとは合わなかったようで、アイアンズに比べれば見劣りするのは残念。

 だが、ミランダ・リチャードソンやルパート・グレイヴス、レスリー・キャロンといった脇のキャストが手堅く、あまり気にならない。ピーター・ビジウの撮影とズビグニエフ・プレイスネルの音楽も万全で、全体として観て損の無いレベルに達している。
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「止められるか、俺たちを」

2018-10-27 06:46:10 | 映画の感想(た行)

 思い入れたっぷりに撮られているようだが、私は共感出来なかった。これはいわゆる“世代の違い”に起因するのかもしれない。監督の白石和彌は74年生まれ。団塊ジュニアと呼ばれる年代だが、彼らの親である団塊の世代は、まあいろいろと毀誉褒貶のある(どちらかといえば“毀”と“貶”が多い)人たちだった。特に、新左翼に対するシンパシーについてはしばしば取り沙汰される。

 もちろん団塊ジュニアが親世代の価値観を受け継いでいるとは断定出来ないが、まったく無いとは言い切れないだろう。本作には、団塊世代の特徴だった(と言われる)左傾イデオロギーのモチーフが満載で、団塊世代より下で団塊ジュニアより上の私にとっては、まったくピンと来ない。観ていて疲れたというのが、正直な感想だ。

 1969年春。定職も無くブラブラ暮らしていた21歳の吉積めぐみは、新宿のフーテン仲間の秋山道男に誘われ、映画監督の若松孝二が率いるプロダクションに参加する。そこには当時過激なピンク映画を作り出すことで知られていた若松をはじめ、足立正生や小水一男、高間賢治などの個性的な面子が顔を揃えていた。めぐみは若松プロで助監督として働き始めるが、ワンマンな若松監督の姿勢に閉口しながらも、次第に仕事に慣れていく。だが、秋山の離脱と共に若松プロには政治活動に熱心な若者たちが出入りするようになり、通常の映画製作会社とは違う様相を呈していく。

 まず、主人公であるめぐみがなぜ映画の世界に飛び込んだのか、十分な説明が成されていない。そして、どうして彼女が映画作りに魅了されていくようになったのか、それも表現出来ていない。少なくとも劇中の撮影風景には、一般人を否応なく引き込んでしまうような蠱惑的な吸引力は感じられない。何しろピンク映画にも関わらず、ちっともエロティックではないのだ。

 ここには“エネルギッシュな若松プロだから、その仕事ぶりには魅力があるのは当然だ”あるいは“この時代の若者は、政治に興味を持っていたものだ”といった御題目しかないと思う。めぐみの心境の変化や、終盤の行動の意味も、描写が不十分だ。扮する門脇麦の高い演技力を持ってしても、説得力を欠く。

 足立正生が後日過激派に身を投じたように、若松プロは赤化の一途を辿るように見えるが、このあたりの扱いは肌に合わない。有り体に言えば、愉快ならざるものを感じる。鑑賞後、この映画を観るよりも、若松監督の昔の作品をチェックする方がよっぽどマシなのではないかと思ってしまった。若松役の井浦新をはじめ、山本浩司や岡部尚、大西信満、タモト清嵐といったキャストは熱演だが、作品自体がこの程度なので、評価は出来ない。
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「散り椿」

2018-10-20 06:15:50 | 映画の感想(た行)
 木村大作の前回の監督作「春を背負って」(2014年)よりは質の面でいくらかマシだが、やはり評価出来るようなレベルには達していない。改めて感じるのだが、この監督は登場人物の内面が描けない。前々作「劔岳 点の記」(2009年)はビジネスライクな(?)話だったのであまり気にならなかったが、本作のような各キャラクターの心理を掘り下げる必要のある題材には、この監督に適性があるとは思えない。

 江戸・享保年間(18世紀前半)、扇野藩で一刀流道場四天王の一人と謳われた瓜生新兵衛は、藩の不正を訴えたために追放されてしまう。それから8年、彼の妻の篠は、病の床で最期の願いを新兵衛に託す。それは、同じく四天王の一人で新兵衛の友人であった榊原采女を助けてほしいというものであった。



 故郷へ戻った新兵衛は早速采女に接触するが、側用人になっていた采女は、藩政をめぐって家老の石田玄蕃と対立状態にあった。そして、かつての藩の不正も揉み消した裏の勢力は、新兵衛をも亡きものにすべく暗躍する。葉室麟の同名小説の映画化だ。

 新兵衛の屈託は相当なもので、采女も難しい立場で悩んでいる。篠の弟である藤吾は新兵衛に対して複雑な感情を抱いており、篠の妹の里美は新兵衛を密かに慕っている。これら登場人物の心理は、映画として説得力があるように提示されてはいない。ただ、設定通りにキャラクターを配置しただけで、あとはキャストに丸投げだ。

 主演の岡田准一は別にしても、西島秀俊に黒木華、池松壮亮、麻生久美子、緒形直人、石橋蓮司、富司純子、奥田瑛二といった手練れの面々を起用しているだけあって、何とか映画は成立している。しかし、観る者の心を揺さぶるような深い感銘や衝撃は無い。どの描写も表面的だ。



 確かに名カメラマンである木村が演出しているだけあって映像は美しいが、これだけドラマが弱いと絵葉書的に見えてしまう。作劇自体も褒められたものではなく、四天王の関係性や、かつての藩のスキャンダルの描出は不十分。殺陣は頑張っているが、かなり変則的で違和感を覚える。

 肝心の剣戟シーンは段取りが悪くて感心しない(ヘタすれば簡単に主人公はやられている ^^;)。ラストの扱いも、決まっているようで全然決まっていない。あと気になったのは加古隆の音楽で、某映画のテーマにあまりにも似すぎている。台詞回しに難のある小泉堯史の脚本も含めて、製作側はもっとチェック体制を整えるべきであった。
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「太陽と月に背いて」

2018-10-12 06:24:00 | 映画の感想(た行)
 (原題:Total Eclipse )95年イギリス作品。19世紀のフランスを代表する天才詩人アルチュール・ランボーの新人時代を、その“恋人”のポール・ヴェルレーヌとの関係を通して描く。監督は「オリヴィエ・オリヴィエ」(92年)や「秘密の花園」(93年)などのポーランドの女流アニエシカ・ホラント。

 公開当時に私は本作をキャパ80席程度のミニシアターで観たのだが、朝一回目から超満員であった。それも9割以上が女性客で、年齢層も幅広い。もちろんこれはランボー役のレオナルド・ディカプリオが目当てで、しかも当時の若手アイドルスターが同性愛者を演じるという話題性の高さ所以である。ただし、客の多さと映画の質とは一致しないのも常識なのだ。



 感想はひとこと。“別にどうということのない凡庸な映画”であった。詩人に限らず名を成したアーティストってのは、程度の差こそあれアブノーマルな面があることが少なくないが、この映画は余人の考えの及ばぬ芸術家の生態を表面的になぞったに過ぎない。

 なぜ主人公たちは封建的な時代にあって同性愛に走ったのか。それが彼らの作り出す先鋭的な詩の世界とどう関わっているのか。そんな大事な部分は描かれず、切羽詰まった感情の流れも見られない(だいたい詩人の話なのに、肝心の詩そのものは紹介されていないのだから呆れる)。ここは彼らの詩の世界と映像をシンクロさせて畳み掛ける演出で見せきるべきだった。

 その頃は美少年タイプだったディカプリオがオジサンと懇ろになるシーンにキャーキャー言う女性観客のメンタリティは、男である私には到底理解できない(笑)。ヴェルレーヌ役のデイヴィッド・シューリスは熱演だが、彼の精神的バックグラウンドに映画が言及していないため上滑りするばかり。ヴェルレーヌの妻役のロマーヌ・ボーランジェなんか完全なミス・キャストで、これじゃ誰がやっても同じだ。

 そもそも、フランスが主な舞台なのに皆が英語しゃべっていること自体がヘンだ。まあ、製作元が英国なので仕方が無いとも言えるのだが、ただ主人公が文学者なだけに、これは致命的な欠点だと思う。ヨルゴス・アルヴァニティスのカメラによる映像と、ヤン・A・P・カチュマレクによる音楽とカメラワークは何とか及第点に達している。
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「大楽師」

2018-09-23 06:56:08 | 映画の感想(た行)
 (原題:大樂師 為愛配樂)アジアフォーカス福岡国際映画祭2018出品作品。娯楽作品として面白く、しかもメッセージ性があり感銘を受ける。誰にでも奨められる、香港映画の秀作だ。

 チンピラのヨンは絶対音感を持ち、街にあふれる喧しい音に我慢が出来ない。そんな彼が精神安定剤代わりにしているのが、ネットからダウンロードした未完成の女性ヴォーカル曲だ。ある日ヨンが根城にしている海上に浮かぶイカダの家に戻ると、麻袋に詰め込まれた若い女チーモクが転がっていた。



 彼女は売れっ子歌手の恋人で、兄貴分が身代金目当てに誘拐したのだった。ヨンは監視役を命じられ、何かと反抗するチーモクに手を焼くが、彼女が実はくだんのダウンロード楽曲の作者と知って驚く。そしてチーモクも、ヨンの意外な才能と魅力に気付いてゆく。

 何より素晴らしいのは、音楽の持つ力を可視化している点だ。ヨンが音楽を聴くと、周りの風景が一変して全てが彼自身の心象風景に早変わりする。圧巻は、上納金を取り立てるヤクザ連中とヨン達との立ち回りの場面で、カーラジオからモーツァルトの曲が流れると、殺伐とした暴力場面がミュージカルになってしまうシークエンスだ。一歩間違えればベタなお笑いに終わるところだが、絶妙なタイミングと振り付け(?)により、目を見張る高揚感を味わえる。



 音楽好きのチーモクが、拘束された中にあってもあらゆる手段を使って楽曲を完成させようとするくだりも、実に健気で微笑ましい。ヨンとチーモクとのスクリューボール・コメディ的な展開の一方、誘拐事件とそれを追う警察との駆け引きはスリリングだ。

 後半の、身代金をめぐるサスペンスフルな筋書きから、解放されたチーモクが音楽コンテストに出場するまでの段取り、そして圧倒的なクライマックスとそれに続く気の利いたエピローグに至るまで、監督フォン・チーチアンの手腕が存分に発揮されて一時たりとも目が離せない。

 主演のロナルド・チェンとチェリー・ナガンはどちらも決して美男美女ではないが、見事な演技だ。そしていずれも歌が上手い。劇中でチーモクが作るナンバーがこれまた良い曲で、観た後もしばらくは耳から離れない。クリッシー・チャウやフィリップ・キョン、アーロン・チョウといった脇の面子も万全だ。ぜひとも一般公開を望みたい。
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