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不幸の作り方

2018-12-04 | 雑記
釈迦は言っていたという。「正しい言葉を使いなさい」と。

これを「正語」と称されていたような気がするが、細かいところは忘れた。

判りやすい例でいえば、「お前なんか死んでしまえ!」だとか、「おまえは間抜けだな」というような言葉遣いが思い浮かべやすいだろうか。

綺麗な言葉を使ってそういう言葉には親しまないようにしましょう、という標語のように聞こえる。聞こえているなら、とりあえずは問題ない。


ところが、そういうところではない、と不断の疑問を取りあえずは棚上げして考えてもらう。


これらのことに類する事柄について、先ほど、知人にさらに続けて語った。どういう内容なのかというと、以下である。


正しい言葉遣いというのは人に向けての、上記のごとくだけではなく、明晰な判断を欠いた言葉遣いを指すのだと。


誰にでも覚えがあるだろう。疲れがたまってあなたは風邪を引いた。そして、こういう。

「私は風邪です」

まあ、風邪を引きました、というのが普通だが、何かの拍子に「風邪なんで」とはいうだろう。


風邪ならそこまで気にしないこともないところして、これならば、ご自身の経験がなくても、聞き覚えがあろう。


ある人が、何かで医者に診断を受ける。そして、こう告げられた。

「あなたはガンです」

医者にそう告げられたあなたは、自身の口か内心でこう呟く。

「わたしは、ガンなのだ」と。

そして命尽きるその日まで、闘病生活が続き、そして病院のベッドでこと切れるのだと。


これはどういうことなのかを説明する。


つまり、ガンという疾患、つまりは治っていくはずの、言ってしまえば風邪と同じもの。治るのに時間が掛かるかもしれない、ということは別として、治るか治らないかの話である。


医者は、ガンをとても治しづらいものだと、毎度のように説明する。とはいうものの、治る人もいる。

そこは良いとして、釈迦の「正語」という観点から言うと、妄言となる。


何が?と思われる向きが多いのは承知で言うが、拙もあなたも、風邪になろうがガンにかかろうが、風邪でもガンでもないのである。

風邪にかけて言うならば、「ガンを引きました」となるはずのもの。ガンを引く、だと弾が飛び出しそうだが、引くのは引き金である。


病気は医者が作っている、という話がある。医者にかかってひどいめにあった人たちや、その人たちの証言を集めて、世に訴えている人々がいたりもする。

これは、嘘ではない。嘘ではないが、受け取った当人の問題でもあるという、またひどく不安を煽る話になるのだが、ともかく続ける。


こういう言葉遣いは、「あなた自身をガンという存在として認識する」ということになる。

そもそも。健康な人間の体内では、常日頃からガン細胞が沸いては消えというのを繰り返しているのだと、実際に医者は言っている。

ガンと言われるまでは、皆口々に言うだろう。「わたしは健康です」と。

ならば、人は健康なのである。健康だからといって、仙人だとか魔法使いのごとく、何百年も生きないだろうし、生まれつき細胞の老化が異常で、十歳そこそこで肉体年齢が老人という病気の人もいた。昔、某テレビ局でちょくちょく取材した話を流していたので、知っている人もいるだろう。ここで言いたいことは、死ぬまでは人間は健康だと言いたいだけである。

話が逸れたが、ガンという、風邪と同様に完全に消滅することのない存在だと己に思い込ませることによって、人は本当にその病状に侵されて死んでしまうことができるのだと、知人に語った。

すると、こう返ってきた。

「仕事をさぼるのに、例えばおじさんが病気で、とかいうと、本当にその人が病気になったりだとか、普段はマラソンだとかして頑強な人が、一たびガンの告知を受けたら二週間ほどでなくなったりとかあるんで、わかります」と。

人は、拙も覚えがあるが、こういい易い。

「わたしは不幸だ」と。

不幸をガンとか風邪に置き換えてもらう。そして上記の話の流れに乗せて考えれば理解できるだろう。

風邪やガンと同様、人によって千差万別の不幸というものは、消えることはない。

そして、消えることのないそのものだと認識することによって、人は不幸そのものになり、自他を苦しめ、場合によっては自身を殺すことになる。


今回のタイトルに戻ろう。


拙は某宗教団体の家系だと、寝言でも言い出しかねないほど書いてきた。

そして、その傍流の団体から、先日、勧誘を受けて、何かの間違いで一週間ほど、登録していた。今も残っているかもしれない。「辞める」といったのはついさっきなので。


某宗教団体というのは、日蓮宗の分派と言われる、日蓮正宗の…というやつだが、知っている人は知っている。

正義を掲げて悪を断ずる、というのが宗旨である。日本風のキリスト教といっても差し支えないのが、それである。


いきなり話が吹っ飛ぶが、アメコミが原作の「スパイダーマン」というのがある。

今から三、四十年前だろうか、日本でも許諾を受けて、特撮ドラマをやっていたそうだ。日本人俳優でやっている。

その主題歌の一節にある。「悪を探し空駆ける」と。探したり求めたりしている。


スパイダーマンはまあ、いいとして、うっかり八兵衛じゃないが、うっかり入ったところも、実家もそうなるといえるが、自分たち以外は悪かそれに近いと考えがちである。そういう宗旨である。

ここの読者なら、もしかしたら閃いたかもしれない。

そう。陰謀論、というより陰謀論者である。ここで何度も語り草にした人物がまさにそうだった。今?知りようもない。人より森やら地球と呼びならわす生活環境を礼賛しているらしいとしか。


それは、この主張を理解しない日本人は馬鹿だ。陰謀団に殺されて当然だ、というノリである。



ガンの告知の話に戻る。


医者は診察に参った人物に告げる。あなたはガンだと。

それを受けた人物は、自分はガンなのだと思い込んでしまい、本当にガン地獄へまい進してしまう。

なにせ、上記で触れたが、ガンは風邪と同じくらい普遍で、ガンではないが、風邪を治療できる薬が出来たらノーベル賞ものだといわれるほどである。

なら、聞かなければいいのでは?となるが、既にそのことは知人の言が示している。

嘘で親戚が病気だというと、本当に親戚が病気になったと。

これは我々の日常の感覚でいうならば、偶然で済ませるところであろうとはいえ。


某宗教団体だけでなく、数多の存在はいう。「人を幸せにしたい」と。

不幸な人を助けたいと。字面は高尚である。

ただし。既に言ったが、前後が抜けているので理解しがたいが、人はそもそも「幸せ」な存在である。別の言葉で「そもそも健康」といったが、ニアリーイコールと思ってくれればいい。

それらに、多くの人が自分に向けて「わたしは不幸だ」と述べるのと同様、彼らは目についた人にこう述べる。実際に口にするかは別としても。

「あの人は不幸だ」と。

不幸でコーティングしたのを、少しほぐしたところで、「霊験があります」という具合にして、本来はもともと、もっと幸福であったものを(可能性ではあるとはいえ)隠し、己たちのおかげだとのたまう。

それが、自他の不幸の作り方なのである。


釈迦は言っていた。己の心のありように気を付けるようにと。


だからといって、別に釈迦は皆を戒め続ける、現代社会に蔓延する宗教団体のごとくではなかった。


わたしが見出した法理というのは、わたし以前の人々も見出し、また、わたしの後の人々も気づいていくものなのだ、と、釈迦はいう。


子供に、大人が経験し、理解したことをいきなり知りえるかというと、その子しだいだとはいえるが、桃園の誓いのごとく、同時にはなりえない。



ともかく。あなたが理解しなくてもよい。まずは己自身が理解を深めることである。


変な例えだが、皆が明日の正午に成仏しましたとなれば、その夜にあった、見たかったスポーツの試合も見れなくなるだろうというもの。


成道するなら、悔いを残したくはないというものである。なにせ、釈迦にも嫁と子供はいたのだから。


どちらもいない拙が人にいえた義理ではないというのは、とりあえずは忘れてもらう。


では、よき終末を。