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よき生活

2018-12-06 | 雑記
先日、某宗教団体に勧誘を受けて、ついうっかり入ってしまったものの、十日前後だったのでクーリングオフしてきた、と書いた。

電話で辞めると言ったときに、相手にもそういう冗談にしか聞こえない話も言った気がするが、それはおく。


こちらは夜勤明けで、向こうは平日は日中の仕事。正午から昼休憩だろうと思い、十二時を過ぎるまで、例のお店で飲みながら待っていた。

その宗教団体の名前は、「顕正会」という。たまに街中で日蓮大聖人の仏法がどうこうという話をしている人、といえば覚えがある人もいるかもしれない。


顕正会と創価学会は、兄弟みたいな間柄となる。

日蓮正宗の総本山、富士大石寺の一般信徒の集まりを、他の宗派も同じ呼称かは知らないが、「講」と呼ぶ。創価学会という講と、顕正会(破門以前は別名だった)という講という具合で、破門されていない中では法華講というのがある。


何故うっかり入ってしまったのかというと、「創価学会から離れられれば何でもいい」とつい思ってしまったのだが、それがそもそも、間違いである。そのことについては後ほど。

さて。かつて、創価学会の中で読み聞きした話で、「宗門(日蓮正宗のこと)は、学会員を呼び戻すのを折伏だなどと言っている」とせせら笑っていたりした。

そんな彼らは、自分たちの足元を揺るがせにする衝撃の事実が、今年になって色々と沸き起こり、上記の顕正会の言うことに納得して、転向しているのだとか。


例えば、大石寺には、弘安二年に書かれてずっと保存されている曼荼羅がある。

創価学会の現会長の原田氏が、公式に「信仰の対象にしない」と発言したのである。つまりはお達しである。

「授受しない」という言葉で表現していたが、拝む対象にはしませんと言っているのである。

このことだったかは忘れたのだが、数年ほど前に、拝む対象にまつわることで会規を変更したというのが新聞にあった。気が付く人は「これはおかしい」となるレベルのものだったが、大方の人は拙と同等に抜けているので、気にしていなかったものである。そもそも、こちらは気にしていないが、それはともかく。

後は、名誉会長という、まるで上皇かのような役職の、池田大作氏の著作のゴーストライターをやっていたという元幹部が、実は五年ほど前から顕正会に入信しており、それまでずっと黙っていたそうだが、今年になって、ゴーストライターをやっていた時の内実を暴露したのだとか。

ゴーストライター云々は、週刊誌などからだが、ちょくちょく聞き及んでいた。のだが、もう一つあった。

日蓮が書いた手紙の集大成というのがあり、他は当時の幕府に送った、中公バックスという文庫(紅白のめでたい装丁である)にも収められている『立正安国論』などを含めたものを、『御書』という。
学会員の家には必ずある。名前だけ入れてるだけ、とかいうレベルでなければ。

件の元創価学会幹部でゴーストライターをしていたという人物が語るには、その『御書』の現代語訳を、創価学会に都合よく歪曲していたともいう。金の誘惑に負けて、騙し騙しやっていたと、悔悟の念を語っていたらしい。

きっと、新聞配れて書いてるんです、とか捏造したのだろうと笑いそうにはなったが、それは今書きながら思いついたところである。

そんなわけで、「そのことを言わないでくれ」と、件の人物の元へ、創価の幹部が頼みに来たなどともいう。


というのを、顕正会の人に勧誘を受ける際に伺ったところである。かつてせせら笑っていたことが、シャレにならない状態で彼ら自身に降りかかっているようだ。


後は、「曼荼羅をどうしても処分したいなら、こちらで預かることもできる」などというのを言っていた気がするが、どうやらそれにそそのかされてしまったようである。

いや、もう一つあった。

今から一か月ほど前になる。勧誘を受けた日からは二十日と少しの、十一月のある日。

帰宅して宅配の再配達を頼んで待っていたら、折り悪く、近所の学会員が訪ねてきた。普段なら居留守だが、思ったより早く宅配が来たのかと、確認せずに開けてしまったのである。

それに対する、拙のバカげた対応を書いておく。

「ごめんよ。元気してたか?」という。その人物は、口を開けばすぐに「ごめんよ」と行ってくる上に、そういう時の顔は実に陰気である。心配して来たのだろうに、こちらを心配させるような顔はよしてもらいたいものである。

「ああ、そうですか。さようなら」と言って、ドアを閉じ、聞こえるように音を出して鍵をかけた。

そして奥で煙草を詰めなおそうとしていたら、またノックがある。今度は覗いて(これこそ確認するまでもないが)、ドアを開ける。

その時に向こうが何を言っていたのかは忘れたが、腹立ちもあったのと、その人物の陰気に嫌気が指していたのだろう。「もう学会に関わりたくないから、来ないでくれ」と言った。

「何かあったの!?」と、慌てふためくが、「何かあったじゃなくて、昔からです。学会も辞めたいぐらいです」と述べ、ドアを閉めた。

部屋の中に戻り、「感情に任せて動くべきではなかったか」と少々後悔もしたものだったが、それが尾を引いたのだろう。

そういう話が先日あったから、今回、この話(顕正会の勧誘)を聞くことになったんでしょうね、などと語ると、相手はひどく驚いて喜んでいた、などということがあったものである。

つまり、創価学会から離れたいというので頭が一杯になっていたが故に、といえる。

他にも「やりたいことはないのか?」というような具合の話である。かつて、結婚したくないという話を、その人たちに、創価学会の家の生まれであることを絡めて話したりしたもので、それに纏わる話なんかもされた。

その時言ったが、「何もしたくない。何もしないというのをする」とは言ってはある。冗談だと受け止めただろうが。


想定していたような、気持ちの悪い感じはなかったのだが、こうも思ったものである。「昔の学会とやらも、きっとこんなノリだったのだろうな」とか、見せてもらった幹部会のビデオ(見た日の前日開催のもの)で、体験談を語っているのも、名詞を変えれば、創価学会でも聞いたこととまるっきり同じ状態であった。

やたら親切で、後はその人の癖らしいが、やたらべたべたと触る。こちらの体躯がひどく細いからと、腕を掴んで「細い」などとやってくる。別れ際の改札前でそれである。

もう反故になったろうが、今度の土曜に昼からあるから行こうなどという。こちらは夜勤の日だというと、「じゃあ車で迎えに行くから、車で寝ていたらいい」などと言い出す。

それ自体は非難の対象ではない。それぐらい行動的だというだけの話である。人目に付くところで腕を掴んで「細い」と二人して(勧誘時の二人)と言い合っていたのは、閉口するが。

それはさておき。これはすごいなと思ったのが、会長の浅井という人のことだった。九十近いというのに、二時間余りの会合で最初から座っており、登壇する会員の方をずっと見ていた。一人だけ椅子が斜めに壇の方へ向いていたのだが、そこに腰かけていた小さな(人のことは言えないが)老人が、会長という。

姿勢をほとんど変えることもなく、壇上の方を眺め続けている。腰が痛くならないのだろうかとも思うほどで、尚且つ最後に登壇した際の内容も驚いたものである。

会の内部にまつわる話をした後(年一度のお布施の額変更や、入信者の数)、十月にアメリカのシンクタンクで行われた会見で、ペンス副大統領の演説の話をしていた。それの要点を話する際に必要と判断した四つを抜き出して、延々よどむこともなく語り続ける。

副大統領の演説というのは、中国の拡大主義への警戒というやつだが、そうなったこと自体、今までのアメリカの態度とは打って変わっている。

その後の米中外相の会談は、まるで喧嘩で、終始罵り合いの如きだったという。


じゃあ、なんでそうなったかというと、池田大作が云々という。


日中国交正常化直前の中国は、悪名高い「文化大革命」の後。中国はボロボロになっており、当時の首相の周恩来は、日本から金をせびりたかったので、都合よく動かせる上に影響力の高いのはいないかと、創価学会に目を付けた。

ある取材で、中国の外務省の官僚に「創価学会をどう思うか」と尋ねれば、しばし考えこんだのちに「とても利用価値があります」と述べたというのがあるほどである。

で、作家協会の交流で度々訪中していた、阿川佐和子に「池田大作に会わせてほしい」と伝え、昔、創価の会長もしていた幹部の秋谷に話が伝わって云々。というわけである。

この流れは、創価学会の自慢話として、何度も聞いたものである。

池田と周の会談の後、公明党の幹部が訪中し、周の頼み事を全部メモして(その人物がメモ魔だというのは、創価でも聞いた)、田中角栄に渡し、それから日中国交正常化と相成ったというのである。

その後の中国がどう動いてきたかは、言うまでもない。簡単な例だと、ODAの横流しだとか、覇権主義的拡張を続けて、軍事力は世界有数となっている。ミサイルが日本に向けられている、というのも有名な話であろう。

チョット考えれば、殺しまくっていた毛沢東の右腕なんぞをやっていた人物が、綺麗ごとだけで動くとはいえない。

池田は、その前後にローマ法王を大石寺の本堂落成に呼ぼうとしたりしていたそうだが、ノーベル平和賞は貰いそびれたそうだ。代わりの名誉会長なのかもしれない。名誉という文字は貰えた。

簡単な話である。

周も池田も、お互い野心満々だったから、うまく噛み合って、こういう流れになったのである。

いいことはいいことを呼び込むが、ろくでもないことが呼び込むのはやはり、ろくでもないことなだけである。


浅井会長は、前述のスピーチで、呼び捨てにしてはいたものの、口ぎたいな罵倒はしていなかった。

顕正会がかなりのスピードで伸びてきているのも頷けるものであった。


日蓮が言に、「災いは口より出でて身を破る」とある。

かつて創価で見ていたが、うまく飼い慣らせなかった宗門側に噛みつかれたからと、まるで人でなしだと罵りまくっていたものであるが、それらが返ってきているのであろう。

とはいえ、別に顕正会が正しいという話ではなく、これは世の中の摂理なだけである。


辞めると電話する際に、件の店で、店主のネパール人と話していた。拙が入信してしまった件は向こうも承知なので、最終確認でもあった。


というのも、である。


勧誘をしてきた人物は二人組だが、その内のメインの方が、ネパール人と結婚したという。勧誘を受ける一か月前に、お店のイベント終わりに訪ねてきて、そんな話をしていた。

拙は飲んでいたので余り憶えていないが、店主はこういう目にあったと語った。

「旦那さんがネパール人なんですか。じゃあ友達になれそうですね」と手を差し出し近づくと「なれませんよ」と撥ねつけられたという。冗談染みてやったのか、その後フォローしたか、という流れや雰囲気までは聞いていないが、その行動だけで、傷つけるには十分である。

それが大きく響いているのか、それ以外に何かあったかは分からないが、「あんな人達はもう来なくていい」と憤っているほどである。近所には住んでいないので、何某かのイベントで休みが重なった時だけの程度の人たちではある。


辞めると電話した際に、改めて尋ねた。

「顕正会は、時が来たら、今ある施設は国に寄付するんですよね?」(書いてなかったが、勧誘された際に具体的な期限は忘れたが、そう公言していると語っていた)と。そしてこう告げた。「なら、僕も期限なんで、抜けますね」と。

いきなりのことなので、向こうも面食らったらしい。電話自体かけてくることが予想外だったようである。知り合いに電話をかけられるのが予想外?というのも、今となっては不思議だが。

前提となる細かい話は前回の記事を読んでいただくとして、彼女たちが勧誘しようと拙を呼び出した時、いきなりこう言ってきた。

「最近いいことあった?」

なんてことはないように聞こえるが、前回の話を踏まえて考えてもらうとして、これは「こいつは不運の塊だろう」と認識しているのではないか?となる。推測なのか?と思われるだろうが、つい人は「自分はガンです」と間違えた認識をしがちなのだから。指している意味は同じだが、同じ結果にはならないのである。


あれがひどく気になったものだ、という話をする。人を不幸の塊か何かと決め付けているのだと、こちらも決め付けておいた。

上記の理屈を説明はしなかった。というより、そういう余裕もなかったとはいえる。

それに、あちらは昼休みだろうから、「実はダブルクロス(スパイの意)なんです」などという冗談を言う暇もなかった。というより、ほんの少し、気を遣っただけである。

実際にはトリプルクロスとも言えるが、別に報告する組織や機関はない。

そして、先日の握手の話をすると、本人は憶えていないという。石を投げた方は忘れるが、投げられた方は憶えているものである。

件のお店の店主から証言は貰ったと伝え、こういった。

「そんなことをする奴がまともな人間なわけないだろう!もう二度とかかわるな」と、電話を切った。

すぐにかけなおしてくるかと思ったが、なかった。夜になって、別の人物に電話で顛末を報告していたら、その間に電話があったらしい。メールで着信の知らせが入っていた。


顕正会が嫌で抜けたい、と言っているようには聞こえないし、何か違うような気もするが、付き合い続ける意味もない。別に悪気があってやっているわけではないだろう、という向きもあるだろうが、普段から気を付けていないと、間違いの善意が人をおかしくしていくものである。


それはともかく。


何がそもそも間違えていたのかというと、拙は宗教をやりたいわけではなかったのである。もう少し正確に言うと、特定宗教に肩入れすることを否定している。

宗教というものは、定義が様々だが、そんな一般に広まっている定義ではない話をすると、それは、生活パターンである。

日本では想像しづらいが、多くの国々は、多民族が混在して暮らしていることが多い。

習慣の違いが軋轢を生み、不安を煽りやすい。そこで、お互いが安心して暮らせるように、共通認識を持とうとなり、それの権威付けに人を超えたものとしての神を設定したという。

つまりは、宗教も神も人の生活のためにあるのであって、宗教や神のために人の生活があるのではない。


日蓮宗及び日蓮正宗は、その教義に、「世界中にこの宗派を広める」というものがある。宗派というよりは、その拝んでいるモノ、であるが。

まあ、そうなれば皆ハッピーかもしれんが、何かに似ているなぁとふと思ったものである。

体内にチップを埋め込んで、それで感情や思考を統一してしまえば、世の中(誰にとってかしらんが)ハッピーになると言っているのも、変わらないなと。

とはいえ、ハッピーかもしれない。戦争も宗教同士の殺し合いも、ご近所のトラブルもなくってしまうだろうから。

そこは皮肉としても、体内にチップを埋め込んで制御しなくても、自身で言葉遣いやら人に対する態度を制御するというのは、洗脳である。

日蓮宗は陰謀団だった?なわけはないが、ともかく、そもそもが古臭い話なのである。

創価学会の創価の意味は、「価値を創造する」から来ているというが、ちっとも出来ていないと言える。

顕正会の顕正は、日蓮宗から出てきたのか知らないが、恐らくは仏教用語に「破邪顕正」というのがあって、悪いものをやっつけて正しさを示すという言葉から来ているのだろう。

とはいえ、日蓮正宗内の教義で正しいか正しくないか、という意味での顕正でしかない。


宗教は人の生活のためにある、ということを指摘している事例は、実は既にキリスト教にある。釈迦の説法にあったかはワカラナイ。


有名な話で、キリスト教の母体と言われている(諸説あるらしいが)ユダヤ教は、現在の日本でもキリスト教国にならって、日曜が休みである。

安息日という奴なのだが、定めたところによると、お休みの日というよりは「その日は仕事をしてはならない」というものであったという。

しかし、ある時、麦だかの収穫がどうしても今日やらないといけないというので安息日に行った人達がいて、こっぴどくユダヤの司祭だか周囲の人々に非難されたが、それをキリストが擁護するという話である。


人が宗教のために生きなければならないなら、ユダヤ教徒の非難はごもっともとなるが、本当にそうなのか?とキリストは指摘しているといえる。


キリストや釈迦は、「覚者」と呼ばれる。各々、色々な奇跡を起こしたりしているのに、超人ではなく「目が覚めた人」なのである。

釈迦の呼び名にある、「仏陀」も同じ意味である。


宗教が生活パターンなら、つまりは生活は宗教と相成る。家に仏壇だとか拝むものがあるとかは関係ない。

そして、生活を超えた何かを見出すことを、人は「目が覚める」と呼ぶのである。


脳内に誰かがチップを埋め込むまでもなく、自身で言葉遣いや態度を制御出来るようにするというのは、洗脳である。

チップで制御でなくても、日々の生活という名の宗教の元、それらを学んで自身を制御、つまり洗脳している。

所詮は生活と馬鹿にするのはいけないが、これこそが真理!と勘違いするのも間違いである。ただの手段を貶めるのも礼賛するのも、お門違いである。



よい目覚めのためには、よく眠る必要があろう。睡眠時間が同じだとして、眠りに入った時間が違うのなら、皆、それぞれの時間に起きてくる。

よき眠りとは、よき生活があればこそと言える。よき眠りを過ごせているからよき目覚めになる、とは限らないかもしれないが。


隣の人が起きてこないと、あわてる必要など、この世にはなかったのである。息をしていないとか、そういうのは別として。



さて、妙な話になったが、他に書いておきたかったことがある。


顕正会側の論説、だけではないが、つまりは創価学会員は、野心家の池田に騙されて、アメリカが「これではいけない」と怒り出している状態になるほど中国に肩入れしてしまい、言わば地球規模の危機的状況に陥れる、悪の片棒を担いできたと相成る。

なら、拙は池田を憎んで、この世から消し去ってやろうなどと考えるのか?

ちなみに、件の顕正会員は、「池田大作はひどいことをしたから、楽には死ねない状態になっている」と語っていた。

色々と飛び交っている話からすると、池田は、まともに生活が出来る状態ではないと噂されている。


そうだとして、可哀想とは思わない。上記に書いた通りなら、そうなって当然であるからだ。

なら、ザマミロと笑うのかというと、笑うこともない。


この件は、昔、別の事柄で書いたが、こう考えている。


そういう流れがあったから、自分が生まれてきて、こうしている。創価学会の発展が違ったりと、少しでもずれていたら、もしかしたら、自分は生まれていなかったのかもしれないと。

そういう意味では、感謝するしかないのだろうと思う。彼の者のなしたことが良いか悪いかは関係ない。


某陰謀論者の話で、同じ内容のことを書いたが、改めて書く。


陰謀で彩られた世界を憎んで非難しているが、そういう流れが(本当にあるのかないのかは別として)あったから、生まれてきて、そういうことをしている。

いるのかいないのかワカラン陰謀団に感謝したらどうだ?と。


こういうことを改めて見直す機会を与えてくれた件の顕正会員には、つい怒ってしまったが、感謝するしかないのだろうと、思うのである。


とはいえ、何故抜けようと思ったのかは、恐らく想像もついてないだろうとはいえ。




余談になるが、では、創価学会に置いてある籍はどうするのかとなろう。

簡単な話である。親が宗旨替えでもしなければ、このままでよい。

所属しておいてやるのが、親と拙との生活パターンという奴だからである。

後は、親が亡くなったら辞める、とは考えている。

未入信の親戚に、集団で入れと迫るような親族には未練もない。

そんな親戚に囲まれて、拙の直接の親だけ宗旨替えするというのは、なかなか難しいだろう。



大多数の日本人は、当たり前すぎて考えたこともないが、お互い全然関係のない宗教の施設に平然と行けるのは、日本人ぐらいのものであるという。

それは、無宗教だが、信仰心がないわけではない。無宗教の信仰心なのだという。

意識が進んでいるから、というのである。当たり前が故に気が付かないし、理解できない人々(主に外国)からは、変な目で見られる。

変な目で見てくる方がお互いを殺しあったりしている宗教だったりするのだから、どちらが変かは言うまでもない。

日蓮とその宗派のありようを、なんとなく知っている人なら、今回の話の中心に出てきた彼らがどちら側かは、想像できるだろう。

拙が若い頃に抱いた違和感は間違いではなく、こういう話に行き当たるからだったのだろうと、考えている。


だから、親にも創価学会にも感謝している。欣喜雀躍してありがとう!というような具合ではないが。


では、よき終末を。