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英国紳士

2018-12-12 | 雑記
急に寒くなってきたので、ようやくコートを着ることにした。といっても、ハーフコートという奴だが。

そして、秋から被っている、秋冬用の帽子を被れば、何故だか「英国紳士」などと呼ばれる。

そのことについては、昔も書いたなどというと、いつの間にか一年や二年は過ぎ去ってしまうのだなと感慨にふけりそうではある。

さて、本場英国では、紳士というものの条件がいくつかある。

その中で「駈け出さない」というのがある。例えば、信号がもうすぐ変わるとして、ちょっと走れば渡り切れるという状態。

そういう時に走らず、悠々歩いて、次まで待つというわけである。

では、走ればどうなるのか?と、作家のひろさちやが聞いたそうだが、答えは至って単純だった。

「その人は紳士でなくなるだけです」とのこと。


ここ何日か、信号ぎりぎりを渡って、少し駈け出してしまったので、拙は英国紳士ではなくなったようである。

そもそも日本人なので、英国ですらないが。


これに絡めて、話を続ける。


例えば、作家だとか漫画家とか、陶芸家だとか落語家だとかがある。

フィナンシャルプランナーとか、意味がよくワカラナイ横文字でも構わないが、日本語で馴染み深いのを並べてみた。

作家は、脚本だとか小説だとかの文章を書いて、それで生活をしている人、となる。出来ているかどうかは取りあえず措く。

措くといったが、もう一つ付け加えるとすると、それで生活しようと志している人というのもいえる。

でなければ、連載を持っていた作家が急病で全く書けなくなったとして、その貯金だとか印税だとか保険で療養していたとしたら、その人は作家ではなくなるのか?

普通は言わないだろう。その人は作家だったし、治ればまた作家として書き続けるつもりなのだと判る。とはいえ、そこで引退すると言ったら、作家ではなくなる。


余談だが、画家のゴッホというのがいた。いた、なんぞというと言い方が悪いがともかく、ゴッホの絵は、現代では高く評価されて、著名な美術館に収蔵されていたり、取引されるととんでもない高額になるというのは、美術に造詣がなくても窺い知れるものだといえよう。

そのゴッホだが、生前はほとんど絵が売れなかった。片手で数えるほどだったとも聞く。

では、死ぬまでほとんど絵が売れなかったのに、どうやって生活していたのかというと、それはイルmとかではなく、実は弟が匿名でパトロンをやっていたからだという。

ゴッホはそれを知らなかったので、弟に向かって「お前も画家をやったらいい」などと言っていたとかなんとか。


そんなゴッホだが、画家には違いない。


悪名高いヒトラーは、若かりし頃、画家を志していたが、時代にそぐわない、謂わば古風な絵を描いていたので認められず、挫折した。絵自体のレベルは高かったともいう。

後は余人の知るところとなる、ドイツの総統になってというわけだが、ヒトラーは画家ではなく、政治家である。付け加えるなら、元画家の卵となる。


何々家というなら、政治家もいいかもしれないが、それはともかく、ヒトラーは死ぬまで政治家をやっていた、となる。彼の場合もまた、引退したのは自殺と同時である。

上に書かなかったが、ゴッホも拳銃で自殺した。


上にあげた職業を指す言葉は、廃業するまでなら皆、「その仕事をしている状態の人」を指す。だから、駈け出した英国紳士よろしく、すぐに辞めることが可能である。

その仕事をしない、とか辞めたとなれば、その仕事をしている状態の人ではないからである。


話は、拙のことに続く。


先日から、人は言葉をうっかり間違えて使うせいで、実はひどい目に遭っていると書いてきた。

端的に言うと、上の流れを踏まえて、以下の言葉を考えてもらいたい。

「わたしはガンです」とか、「わたしは不幸です」とか、「わたしは貧乏です」などなど。

医者は医者で、「あなたはガンです」という風な告知を実際にしているかは知らないが、ドラマなどでそういうシーンがあったりするが、ついつい、人に向かって思ったり言ったりする。

「あいつはおかしい」と。頭がおかしくなっている、ならまだしも、これは上に並べた三つ同様、意味は通じるが、短絡している言葉遣いである。

何々家をその仕事をしている「状態」の人と書いたが、すぐ上に並べた言葉は、そう指してはいないのである。

「わたしはガンにかかりました」なら、かかってない状態もあることを指している。なら、治るのだろう。

「わたしは不幸な状態です」なら、不幸でない状態があることを踏まえている。なら、不幸は一過性だろう。

「わたしは貧乏な状態です」も、以下同分である。

「あの人はストレスで頭の働きが鈍くなったか過剰に働いてしまっていて、おかしな行動をとってしまっただけです」なら、これもまた一過性の症状である。実際はわからないとしても。


というようなことを書いてきておきながら、実は、拙もこの罠に陥っていた。


度々書いたが、拙の実家は創価学会で、祖父母の代から続いている。

そして、拙も創価学会で云々と。


その上までの流れを読んで、すぐ上の今の自己紹介を読めば、おかしいことが理解できるだろう。


拙も拙の実家の家族や親族は、創価学会員だが、決して創価学会という存在ではないのだと。


これに思い至ったのは、先日書いた、顕正会員とのやり取りの後だった。半ば強引に辞めると言って、向こうも引き下がったようだが、例のお店のイベントやらでまた来る可能性はある。とはいえ、そんな頻繁には現れないが、次があるなら以前にも書いた、「人は宗教という名の生活を超えていく存在だ」ということを説明する。それがだめなら、仏法と仏教の違いやら法華経の成り立ちやら全部説明する。

とはいえ、はっきりいって面倒なので、世間話で帰ってもらうことにしよう。


話が逸れたが、その後思ったものである。創価学会を辞める簡単な方法として、預かっている曼荼羅を丁寧に梱包して、信濃町の本部宛てに郵送するというものがある。

周りの学会員とやらがいるなら、白い目で見られたり、拙の場合はバレたら親やら兄弟(特に兄がなりそう)や親族がヤイノヤイノと言い出しそうである。

しかしだ。こんなものは肩書に過ぎないのだと。肩書一つで人の存在を決め付けるとは、笑止千万だと。

なら、キリストが死んだ直後に、今のキリスト教会があったわけではないのに、その当時のキリスト教徒はキリスト教徒ではないというのか?

それと同様に、日蓮正宗の寺が日蓮の遺命の正統というなら、その寺を離れて何が日蓮正宗か?というのは昔から思っていたものである。寺が正しいのかどうかも今となっては怪しい上に、どうでもよいのだが。

余談が重なるが、創価学会の宗教法人の登記名は、「日蓮世界宗 創価学会」だとのこと。元創価学会員で反創価学会ジャーナリストをやっている人のHPに、画像付きで紹介されていたものである。

日蓮正宗ではないので、好き勝手やっているというわけである。なら、現代の創価学会の「弘安二年のは却下」はやって当然となる。日蓮正宗ではないのに、日蓮正宗の振りをしているから、自他が混乱して、今の有様といえる。とはいえ、本名を名乗るわけにもいかないのだろう。それだけで瓦解することは目に見えている。

弘安二年云々は、顕正会員との話のところで書いたが、要するに、国宝級の代物の曼荼羅が日蓮正宗の総本山にあって、代々保管されてきたのだが、それを拝む対象にはしません、と公式に発言し、取り決めたという。


話が逸れているが、騒がれて親にストレスかけても仕方ないので、肩書は残しておこうと思っただけである。宗教は生活でしかない、ともいえるからである。

そういうわけで、自分が肩書一つで自身の存在を決め付けていたことに、ようやく思い至ったというわけである。

「わたしは創価学会とかいう、存続に固執する人が動かしている組織などではなく、それに所属しているという肩書を持っているのに過ぎないのだ」と。


理屈、といえないような説明することも難しいところなので暴論に聞こえるが、人は見た目で判断して結構。

ただ、肩書で存在を決め付けるのはよした方がいい。

「あなたはガンです」と同様、「あいつは創価学会だ」も、自他を呪う言葉になる。

ガンも創価学会も「存続に固執し伸張しようとする組織」なのだから。そんなものに決め付けるのも、決め付けられるのも、たまったものではない。


英国紳士が駈け出さないように気を付けるのと同様、習慣となった呪いの言葉遣いは改めるべきであろう。

駈け出した英国紳士は、紳士ではないただの人になるが、前述の自身に投げかける言葉の例文も同様に、人を「ガン」認定するということは、文字通り「人でなし」と見なしていることに他ならないのである。

拙もまた、人でなしだったのだなと、深く感じ入ったしだいである。


では、よき終末を。