いつも誰かの批評という名の悪口を書いてばかりいるが、今回はちょっと矛先を変えて、ラクダ達以外の話に行き当たったので、少し書いておこうと思う。
とはいえ、これ自体は特に話の中心ではないし、きっかけは例のラクダ達に関係があるといえばあるが。
以前、拙の弟の調子がよくなくなり、今年の頭に働き始めたが結局辞めてしまったと書いた、と思う。
自分のことは自分でどうにかしろ、というのが本音なのだが、どうにかするには本人に踏ん張るところ、いわば基礎体力のようなものがないとどうしようもない。
というわけで、然るHPに載っていた呼吸法を教えた。呼吸法を教えるのがメインのサイトではなく、いわば基礎体力アップのための方法だと思ってくれればいいが、一昔前かそれより前だと確実に眉唾だと無視されるであろうタイトルである。
記事の題に「オーラ視の獲得」とある。この呼吸法をしっかりやっていけば、オーラが見えるようになるかもしれないというのである。
とはいえ、それが目的ではなく、そういう呼吸法をやっていくと、底力が出てくる。
かくいう拙も、そのサイトで学んだわけではないが、古くは野口整体の背骨呼吸だとか、魔術だとか仙道の呼吸法を色々試してきた結果、ここ数年ほど、それまでならすぐ疲れるようなところが平気になったものである。おかげで財布がすぐばてる。
何やら靄のようなものがあらゆるところで見えるようになったのは、そのせいなのか元からなのかはよく判らないが、これは元々かもしれないと、知り合いとの雑談で思ったところである。
弟には、そのサイトで気になるところがあれば、よく読んでおけと伝えておいた。拙が自分なりにやってきて思い当たったことを、その人物は既に書いており、信頼できるだろうと踏んだからである。
とはいえ、それだけでは心もとないかもしれぬ、と思っていた矢先、件のサイトを見ていたら、とある石の話をしていた。巷でも当たり前になってきた、パワーストーンというものである。
その話については、以前読み漁っている時に見出したものだが、特に気にしていなかった。が、改めて注目してみようと思ったら、近い内容の別の記事で色々書いていた。
石の名は「アズライト」という。組成としては、酸化銅の一種といえる。酸化が進むと、マラカイトという緑の石に変貌する。
一口にパワーストーンといっても、その石が合うのか合わないのか、もっと遡れば、掘り出した場所や掘り出した人、また加工して販売する人が良いか悪いかというのが多大な影響を及ぼすという。
寧ろパワーストーンとかいう、いわば科学的に根拠がないといわれるようなものだからこそ、こういう話は気になるところである。とはいえ、普通はそこまで気にせず扱うのが大多数だろう。
さて、そのアズライトというものはというと、その人物が言うには、「誰が持っても、どこに置いていても大丈夫」と太鼓判を押している。
理屈はというと、ネガティブをポジティブに反転する構造なのだとか。そしてこれはアズライトの結晶構造由来なので、勝手になり続けるという。
アズライトの存在はそこで読み漁っていた時に知ってはいたし、そういう話を書いていたなとは覚えていたが、ついでに水晶もセットで完璧だというのは忘れていた。
しかし、お高いのでしょう?と思って忘れていたのである。が、まあ、見るだけ見てみようと検索してみたところ、東北の方の天然石販売店の通販で、安くて一個千円少しから買えるというのが判った。
然るパワーストーン辞典のサイトで効能を調べると、精神によい影響を与えるものだとか。花言葉ならぬ石言葉というものが書かれており、「瞑想力」とあった。
そのサイトで、病状ごとに向いている石から検索すると、「うつ(欝)」の項目にもアズライトの名があったので、実家に送りつけようと考え、帰宅後(帰宅したら夕方だったのは秘密)に直接実家に送り届けるよう手配した。
いきなり石ころ一個が家に届くと、不審なことこの上ないので、母親と弟にそれぞれ話をしておいた。「パワーストーンって知ってるか?」と母に聞くと「うちもしてる」といっていたが、何をつけているかは聞いていない。
後二つを自宅に向けて購入し、そのうち一つは仕事場のロッカーに入れておくことにした。
夜勤中に調べて、「うつで困っている弟にこういう石を送ってやろう」などと話していたら、上司が「こっちの方がストレスたまってウツになりそうだから、俺にくれ」などと言うので、やらぬ代わりに我がロッカーに放り込むことにしたのである。
この石は、古くは二十世紀の超能力者とか予言者とか言われている、「エドガー・ケイシー」という人も持っていたそうで、彼は「喋る石」と呼んでいたそうな。
また、こう述べていた。「人類にはまだ早い。だが、二十一世紀にはその助けが必要とされるだろう」という風に。この場合の人類は二十世紀の時点となる。
エドガー・ケイシーについては、昔、ある話を聞いたことがある。なんでも、「揚げ物料理は人間の食べ物ではない」のだとか。
二千年代になってからだが、アクリルアミドと呼ばれる化学物質が発見された。これは強烈な発がん性物質で、炭水化物に高熱を加えると発生する。炊き込みご飯のおこげだとかもそうなる。
その話が混同されて、焼き魚の焦げ目に発がん性が云々というのもついでに現れたが、本来はこちらである。
アクリルアミドの原因は、モンなんたらの農薬のせいじゃないか、という話もあったがともかく、科学者でもない人物が、かつてそういう指摘をしていたのである。
さて、買った日はよく判らなかったのだが、自宅で、また仕事の合間にロッカーで持ったとき、不思議な感覚があった。
以前から拙は、気がどうこうという話をしているが、つまるところ、気功のようなことが多少出来るようになっている。
何かで人を後から触れずに倒すとかいうのがあるが、申し訳ない。そこまでは出来ない。出来たとしても見世物のためにやってきたわけでもない。
それはともかく。物を持ったときに、ただの温度だけとは言い難いものを感知したり出来るといえる。
アズライトの話に戻すが、これを持って手のひらの乗せると、腕に熱が出る。別に石がお湯のように熱いというわけでもない。
腕に熱が伝わる感覚は、実は普段から出来るのだが、石を持っただけでこういう風に熱が出るという経験は初めてである。
右手は自分の意志で出来るが、左はあんまりである。気功の話を色々と聞くと、右は出す方で、左は吸い取る方というのがあるので、問題はないようではある。
それで、左手のひらに載せると、左腕が熱くなる。石ころ一個に驚かされるという目にあったものである。
アズライトのことを紹介していた人物も語っていた。「石を触っただけで、筋力が弱くなったり強くなったりする現実に衝撃を覚えてください」と。本当に衝撃だったナァというところである。
というわけで、知り合いに教えてみようと思い、アズライトって石がすごいぞと話をしたら、いきなりこう返答してきた。
「見たことないけど、なんだか青だと思った」と。青い石だという前にである。
長い前振りは終わり、これから本当の戦いが始まる・・・。
というのは嘘ではない。
ここでたまに存在を匂わす程度に紹介していた、とある魔術関係のことを書いているブログがある。
上記の知り合い(正確に言うと、元姉弟子)と、何ゆえかそのブログの話になった。
どうしてそうなったのかはあまり思い出せないのだが、実はそのブログの人は、昔はHPを運営していて、その記事の一つがかつてのヒトコブラクダのHPの記事ネタになっていたのである。
そういう話をすると、先方も承知していた。それだけならまだしも、なんと、その人とメールをやり取りしたことがあるとも語っていた。
そのブログは、以前はちょくちょく見に行っていたのだが、今は見る気が起きない。理由は簡単で、つまらないからである。
どうつまらないかというのを掻い摘んで書くと、元姉弟子の一言が判り易い。
「オタクなんですねぇ」と。
色々と解せぬのだが、『魔術入門』を所持し、アイクの著作を全部読破したというのに、どうしてこうも、俗世間の目から離れた視点を持とうとしないのか?というのがずっと引っ掛かっていた。
『魔術入門』で著者のバトラーは魔術の定義を、師匠の言を借りてこう述べている。「思うがままに意識に変革をもたらす技術」なのだと。
それでもって、アイクもいう。「全ては意識なのだ」と。
上記の元姉弟子にオタクと評されたブログの人物は、アイクを「魔術教団のバックアップを受けている」と指摘しているのだが、寧ろ魔術教団で薫陶を受けた人物だとするなら、どうして宇宙人のせいにするのか思い至らないのだろうか?という話を元姉弟子にしたというわけである。
それで、すこしピンと来たのである。
かつて、彼はヒトコブラクダの言動を詳しく知らぬからこそだろうが、かつてのHPで関わりを持てたことが嬉しかったのか、「大人の男」だとか言っていたものである。
そして、今も昔も、ラクダは俗世間の目、つまりは常識から一歩も外に出ない理屈で物を言っている。
ここでいう常識というのがちと範囲が広いかもしれないが、我々という存在は地上で確認されている物質のみで出来ているという視点である。
そして、舞台を森に移しただけである。地球云々は昔から言っているが、レベルは変わらない。
「似たもの同士だったんですねぇ」とはまた、元姉弟子の言である。
両者とも知識偏重な具合で、本質は何かを見ようとはしなかったというわけである。知識の「オタク」というわけで、上記の「オタクなんですねぇ」と相成る。
全ては意識なら、意識に変革をもたらすということは、全てを変えてしまえるということである。
そんな話を入門に書いてあるのに、すっかり忘れて、宇宙人がどうこうだとか、この世を牛耳っている奴らは魔術師だとか、漫画やアニメのシナリオの元ネタは魔術師達で共有しあっているネタ保管庫の如きものがあるだとか、どうでもいい話ばかりだと思ったので、読む気がなくなった。
またもや元姉弟子の言になるが、引用しているのは同感だからである。
「で、それで?っていう内容ばかり」と。
真を見抜くのに方法なんぞいらぬ。ただ、集中するのみ。
『魔術入門』で書いてある修練をしっかりやっていったほうが、成功できるやもしれぬなぁと、お節介なことを考えるのであった。
ああいう色々と目新しいネタを掘り起こしているだけのつもりなぐらいなら、森で生活している方がなんぼかマシである。
そういう意味では、ヒトコブラクダは「大人の男」かもしれないが、あれもまた、前例踏襲主義というか懐古趣味というべきかの古来の宗教復活を願っている点では、知識偏重である。
宗教とは生活パターンである、とは以前に書いたと思う。例えば、ニューエイジも古きよき生活を営むことで安心感を共有しあっているわけで、間違うかたなき宗教というわけである。
現代文明とのハイブリッドを志そうが関係ないのである。宗教は宗教なのだから。
さて、こういう話をしたかったわけでもない。したくもあったが、本題でもない。
キネシオロジーテストというものがある、と何度か書いたものである。筋反射テストだとか訳されるもので、簡単に言えば、良いものには力が入り、悪いものは力が抜ける。
それの考案者が色々テストして、数値化したものがどうこうとある。それを現地で習ってきて、日本で流布している人もいる。
考案者のホーキンズ博士がいうには、誰がやっても同じ結果が出るので、科学的だという。でも、同じようにやっても同じようにならなかったりする、という話もあって、疑似科学だと批難もされている。
キネシオロジーテストの批判をやろうというわけではない。ただ、例えを思いついただけである。
その前に。このキネシオロジーテストというのを実行する際には、ステイトメントをはっきりさせる必要がある、と聞いた。曖昧な質問ではだめで、例えば、コーラは200を越えるのかどうか?と言った具合にやるべし、なのだとか。
それでいて、ホーキンズ博士と同じような計測結果が出ない場合は、やはりその人のレベルの問題なのだろう。そういう話も書いてあった気がする。ある程度のレベルの人が揃わないと、まともな測定は出来ないらしい。
つまり、殺人鬼の二人組みで釈迦を計っても意味がないというわけである。これは極端な例とはいえるが。
思いついた例えの話にする。
フェルマーの最終定理というものをご存知だろうか。大昔のフランスの数学者のフェルマーが、自分の日記だかに一言、この定理を解いたと書いてあったのだが、近年まで誰もそれを解くことが出来なかったという代物である。
余りにも解けないので、嘘じゃないのかと言われ続けた。
イギリスの数学者がこれを解き明かし、話題になったものである。とはいえ、数論という、数学の上に位置する学問は、はっきり言って素人には理解できない。
素人どころか、数論を研究している学者が全員理解出来るのかというと、そういうものですらなかったりするほどのものだとか。
では、何ゆえ認められたのかというと、数論の権威がそれを確かめて、間違い無しとしたからである。
その確認の具合すら、一般には理解できないレベルの話ではある。
キネシオロジーテストというのも、そういう具合のものがあるのかもしれないと、拙は考える。
というより、あるとしかいえない。
キネシオロジーテストは理解できないが、数論は理解できるとでも?数学者でもないのに?ご冗談を。
とはいえ、あなたの心身が健全ならば、体が勝手に反応するものである。ホーキンズ博士と同じ数値になるかどうかなどとは考えなくてもよい。
そのためには、身体全体を通して集中力を養う必要がある。先ほど書いた、両方の意味での頭でっかちではなしえない。
そうなれば、「他山の石」は真価を発揮するといえよう。
なんやかんやと書いたが、ともかく。文字通りの他山の石としても、そういうつもりでなくても、アズライトは勧められる、とだけ申し添えておく。
では、よき終末を。
とはいえ、これ自体は特に話の中心ではないし、きっかけは例のラクダ達に関係があるといえばあるが。
以前、拙の弟の調子がよくなくなり、今年の頭に働き始めたが結局辞めてしまったと書いた、と思う。
自分のことは自分でどうにかしろ、というのが本音なのだが、どうにかするには本人に踏ん張るところ、いわば基礎体力のようなものがないとどうしようもない。
というわけで、然るHPに載っていた呼吸法を教えた。呼吸法を教えるのがメインのサイトではなく、いわば基礎体力アップのための方法だと思ってくれればいいが、一昔前かそれより前だと確実に眉唾だと無視されるであろうタイトルである。
記事の題に「オーラ視の獲得」とある。この呼吸法をしっかりやっていけば、オーラが見えるようになるかもしれないというのである。
とはいえ、それが目的ではなく、そういう呼吸法をやっていくと、底力が出てくる。
かくいう拙も、そのサイトで学んだわけではないが、古くは野口整体の背骨呼吸だとか、魔術だとか仙道の呼吸法を色々試してきた結果、ここ数年ほど、それまでならすぐ疲れるようなところが平気になったものである。おかげで財布がすぐばてる。
何やら靄のようなものがあらゆるところで見えるようになったのは、そのせいなのか元からなのかはよく判らないが、これは元々かもしれないと、知り合いとの雑談で思ったところである。
弟には、そのサイトで気になるところがあれば、よく読んでおけと伝えておいた。拙が自分なりにやってきて思い当たったことを、その人物は既に書いており、信頼できるだろうと踏んだからである。
とはいえ、それだけでは心もとないかもしれぬ、と思っていた矢先、件のサイトを見ていたら、とある石の話をしていた。巷でも当たり前になってきた、パワーストーンというものである。
その話については、以前読み漁っている時に見出したものだが、特に気にしていなかった。が、改めて注目してみようと思ったら、近い内容の別の記事で色々書いていた。
石の名は「アズライト」という。組成としては、酸化銅の一種といえる。酸化が進むと、マラカイトという緑の石に変貌する。
一口にパワーストーンといっても、その石が合うのか合わないのか、もっと遡れば、掘り出した場所や掘り出した人、また加工して販売する人が良いか悪いかというのが多大な影響を及ぼすという。
寧ろパワーストーンとかいう、いわば科学的に根拠がないといわれるようなものだからこそ、こういう話は気になるところである。とはいえ、普通はそこまで気にせず扱うのが大多数だろう。
さて、そのアズライトというものはというと、その人物が言うには、「誰が持っても、どこに置いていても大丈夫」と太鼓判を押している。
理屈はというと、ネガティブをポジティブに反転する構造なのだとか。そしてこれはアズライトの結晶構造由来なので、勝手になり続けるという。
アズライトの存在はそこで読み漁っていた時に知ってはいたし、そういう話を書いていたなとは覚えていたが、ついでに水晶もセットで完璧だというのは忘れていた。
しかし、お高いのでしょう?と思って忘れていたのである。が、まあ、見るだけ見てみようと検索してみたところ、東北の方の天然石販売店の通販で、安くて一個千円少しから買えるというのが判った。
然るパワーストーン辞典のサイトで効能を調べると、精神によい影響を与えるものだとか。花言葉ならぬ石言葉というものが書かれており、「瞑想力」とあった。
そのサイトで、病状ごとに向いている石から検索すると、「うつ(欝)」の項目にもアズライトの名があったので、実家に送りつけようと考え、帰宅後(帰宅したら夕方だったのは秘密)に直接実家に送り届けるよう手配した。
いきなり石ころ一個が家に届くと、不審なことこの上ないので、母親と弟にそれぞれ話をしておいた。「パワーストーンって知ってるか?」と母に聞くと「うちもしてる」といっていたが、何をつけているかは聞いていない。
後二つを自宅に向けて購入し、そのうち一つは仕事場のロッカーに入れておくことにした。
夜勤中に調べて、「うつで困っている弟にこういう石を送ってやろう」などと話していたら、上司が「こっちの方がストレスたまってウツになりそうだから、俺にくれ」などと言うので、やらぬ代わりに我がロッカーに放り込むことにしたのである。
この石は、古くは二十世紀の超能力者とか予言者とか言われている、「エドガー・ケイシー」という人も持っていたそうで、彼は「喋る石」と呼んでいたそうな。
また、こう述べていた。「人類にはまだ早い。だが、二十一世紀にはその助けが必要とされるだろう」という風に。この場合の人類は二十世紀の時点となる。
エドガー・ケイシーについては、昔、ある話を聞いたことがある。なんでも、「揚げ物料理は人間の食べ物ではない」のだとか。
二千年代になってからだが、アクリルアミドと呼ばれる化学物質が発見された。これは強烈な発がん性物質で、炭水化物に高熱を加えると発生する。炊き込みご飯のおこげだとかもそうなる。
その話が混同されて、焼き魚の焦げ目に発がん性が云々というのもついでに現れたが、本来はこちらである。
アクリルアミドの原因は、モンなんたらの農薬のせいじゃないか、という話もあったがともかく、科学者でもない人物が、かつてそういう指摘をしていたのである。
さて、買った日はよく判らなかったのだが、自宅で、また仕事の合間にロッカーで持ったとき、不思議な感覚があった。
以前から拙は、気がどうこうという話をしているが、つまるところ、気功のようなことが多少出来るようになっている。
何かで人を後から触れずに倒すとかいうのがあるが、申し訳ない。そこまでは出来ない。出来たとしても見世物のためにやってきたわけでもない。
それはともかく。物を持ったときに、ただの温度だけとは言い難いものを感知したり出来るといえる。
アズライトの話に戻すが、これを持って手のひらの乗せると、腕に熱が出る。別に石がお湯のように熱いというわけでもない。
腕に熱が伝わる感覚は、実は普段から出来るのだが、石を持っただけでこういう風に熱が出るという経験は初めてである。
右手は自分の意志で出来るが、左はあんまりである。気功の話を色々と聞くと、右は出す方で、左は吸い取る方というのがあるので、問題はないようではある。
それで、左手のひらに載せると、左腕が熱くなる。石ころ一個に驚かされるという目にあったものである。
アズライトのことを紹介していた人物も語っていた。「石を触っただけで、筋力が弱くなったり強くなったりする現実に衝撃を覚えてください」と。本当に衝撃だったナァというところである。
というわけで、知り合いに教えてみようと思い、アズライトって石がすごいぞと話をしたら、いきなりこう返答してきた。
「見たことないけど、なんだか青だと思った」と。青い石だという前にである。
長い前振りは終わり、これから本当の戦いが始まる・・・。
というのは嘘ではない。
ここでたまに存在を匂わす程度に紹介していた、とある魔術関係のことを書いているブログがある。
上記の知り合い(正確に言うと、元姉弟子)と、何ゆえかそのブログの話になった。
どうしてそうなったのかはあまり思い出せないのだが、実はそのブログの人は、昔はHPを運営していて、その記事の一つがかつてのヒトコブラクダのHPの記事ネタになっていたのである。
そういう話をすると、先方も承知していた。それだけならまだしも、なんと、その人とメールをやり取りしたことがあるとも語っていた。
そのブログは、以前はちょくちょく見に行っていたのだが、今は見る気が起きない。理由は簡単で、つまらないからである。
どうつまらないかというのを掻い摘んで書くと、元姉弟子の一言が判り易い。
「オタクなんですねぇ」と。
色々と解せぬのだが、『魔術入門』を所持し、アイクの著作を全部読破したというのに、どうしてこうも、俗世間の目から離れた視点を持とうとしないのか?というのがずっと引っ掛かっていた。
『魔術入門』で著者のバトラーは魔術の定義を、師匠の言を借りてこう述べている。「思うがままに意識に変革をもたらす技術」なのだと。
それでもって、アイクもいう。「全ては意識なのだ」と。
上記の元姉弟子にオタクと評されたブログの人物は、アイクを「魔術教団のバックアップを受けている」と指摘しているのだが、寧ろ魔術教団で薫陶を受けた人物だとするなら、どうして宇宙人のせいにするのか思い至らないのだろうか?という話を元姉弟子にしたというわけである。
それで、すこしピンと来たのである。
かつて、彼はヒトコブラクダの言動を詳しく知らぬからこそだろうが、かつてのHPで関わりを持てたことが嬉しかったのか、「大人の男」だとか言っていたものである。
そして、今も昔も、ラクダは俗世間の目、つまりは常識から一歩も外に出ない理屈で物を言っている。
ここでいう常識というのがちと範囲が広いかもしれないが、我々という存在は地上で確認されている物質のみで出来ているという視点である。
そして、舞台を森に移しただけである。地球云々は昔から言っているが、レベルは変わらない。
「似たもの同士だったんですねぇ」とはまた、元姉弟子の言である。
両者とも知識偏重な具合で、本質は何かを見ようとはしなかったというわけである。知識の「オタク」というわけで、上記の「オタクなんですねぇ」と相成る。
全ては意識なら、意識に変革をもたらすということは、全てを変えてしまえるということである。
そんな話を入門に書いてあるのに、すっかり忘れて、宇宙人がどうこうだとか、この世を牛耳っている奴らは魔術師だとか、漫画やアニメのシナリオの元ネタは魔術師達で共有しあっているネタ保管庫の如きものがあるだとか、どうでもいい話ばかりだと思ったので、読む気がなくなった。
またもや元姉弟子の言になるが、引用しているのは同感だからである。
「で、それで?っていう内容ばかり」と。
真を見抜くのに方法なんぞいらぬ。ただ、集中するのみ。
『魔術入門』で書いてある修練をしっかりやっていったほうが、成功できるやもしれぬなぁと、お節介なことを考えるのであった。
ああいう色々と目新しいネタを掘り起こしているだけのつもりなぐらいなら、森で生活している方がなんぼかマシである。
そういう意味では、ヒトコブラクダは「大人の男」かもしれないが、あれもまた、前例踏襲主義というか懐古趣味というべきかの古来の宗教復活を願っている点では、知識偏重である。
宗教とは生活パターンである、とは以前に書いたと思う。例えば、ニューエイジも古きよき生活を営むことで安心感を共有しあっているわけで、間違うかたなき宗教というわけである。
現代文明とのハイブリッドを志そうが関係ないのである。宗教は宗教なのだから。
さて、こういう話をしたかったわけでもない。したくもあったが、本題でもない。
キネシオロジーテストというものがある、と何度か書いたものである。筋反射テストだとか訳されるもので、簡単に言えば、良いものには力が入り、悪いものは力が抜ける。
それの考案者が色々テストして、数値化したものがどうこうとある。それを現地で習ってきて、日本で流布している人もいる。
考案者のホーキンズ博士がいうには、誰がやっても同じ結果が出るので、科学的だという。でも、同じようにやっても同じようにならなかったりする、という話もあって、疑似科学だと批難もされている。
キネシオロジーテストの批判をやろうというわけではない。ただ、例えを思いついただけである。
その前に。このキネシオロジーテストというのを実行する際には、ステイトメントをはっきりさせる必要がある、と聞いた。曖昧な質問ではだめで、例えば、コーラは200を越えるのかどうか?と言った具合にやるべし、なのだとか。
それでいて、ホーキンズ博士と同じような計測結果が出ない場合は、やはりその人のレベルの問題なのだろう。そういう話も書いてあった気がする。ある程度のレベルの人が揃わないと、まともな測定は出来ないらしい。
つまり、殺人鬼の二人組みで釈迦を計っても意味がないというわけである。これは極端な例とはいえるが。
思いついた例えの話にする。
フェルマーの最終定理というものをご存知だろうか。大昔のフランスの数学者のフェルマーが、自分の日記だかに一言、この定理を解いたと書いてあったのだが、近年まで誰もそれを解くことが出来なかったという代物である。
余りにも解けないので、嘘じゃないのかと言われ続けた。
イギリスの数学者がこれを解き明かし、話題になったものである。とはいえ、数論という、数学の上に位置する学問は、はっきり言って素人には理解できない。
素人どころか、数論を研究している学者が全員理解出来るのかというと、そういうものですらなかったりするほどのものだとか。
では、何ゆえ認められたのかというと、数論の権威がそれを確かめて、間違い無しとしたからである。
その確認の具合すら、一般には理解できないレベルの話ではある。
キネシオロジーテストというのも、そういう具合のものがあるのかもしれないと、拙は考える。
というより、あるとしかいえない。
キネシオロジーテストは理解できないが、数論は理解できるとでも?数学者でもないのに?ご冗談を。
とはいえ、あなたの心身が健全ならば、体が勝手に反応するものである。ホーキンズ博士と同じ数値になるかどうかなどとは考えなくてもよい。
そのためには、身体全体を通して集中力を養う必要がある。先ほど書いた、両方の意味での頭でっかちではなしえない。
そうなれば、「他山の石」は真価を発揮するといえよう。
なんやかんやと書いたが、ともかく。文字通りの他山の石としても、そういうつもりでなくても、アズライトは勧められる、とだけ申し添えておく。
では、よき終末を。