同じことを何度も書いてきている。
ここ一年は、どこぞの上人についての悪口雑言重箱の隅といった具合であることは言うまでも無い。
わしはそろそろ新しいことを書こうかと思ったが、諦めることにした。
というのも先日、野口晴哉のエピソードをたまたま目にしたからだ。
こういう話だった。
何度か指導を受けていて、ある日、野口にこう尋ねた。
「先生、何か新しい話はないですか?」といった具合に。
すると野口は
「では、あなたは私と同じように出来るようになったのかね?」と返したら、聞いた人は黙ってしまったそうな。
読んだところの続きでは、「例えば会社の上司が部下に「一度しか言わないからよく覚えろ!」みたいなのはおかしいんですよ」という風な話を書かれていた。
何度も同じことをするにしても、本当は完全に同じことなどなく、新たな視点を見出したりするものである、という話であった。
ま、ここにはそんな大層なものは無いので、読まなかったことにして新しいことでも探しに行かれる方がよろしかろう。
さて、前置きはここまでにして、本題へ。
古代ギリシャの時代に、ソクラテスという哲学者がいた。
その弟子に当たる人に、こちらも高名な、プラトンという人がいる。
プラトンも師匠の衣鉢を継いで、後輩指導をするわけである。
そんなある日。
人間とは、という題での講義をしていた。
「人間とは、二本足で歩く動物である」とプラトンは述べた。
近くで覗いていた、ディオゲネスという、乞食みたいな奴が思いついて、そこに鶏を投げ込んでこう言った。
「これも人間かね?」
プラトンは鶏を焼いて食って、改めて言った。
「人間とは、羽毛のない、二本足で歩く動物である」
さて、またディオゲネスは、鶏を放り込んだ。今度は羽毛を毟って丸裸の鶏である。
「これが人間だってさ!」
余談だが、焼いて食った、は冗談である。
プラトンとディオゲネスのこの手の喧嘩はほかにもあったかは忘れたが、プラトンは腹を立てて、ディオゲネスをこう罵ったそうである。
「狂ったソクラテス」と。
ディオゲネス、という名前は他にも該当があるのだが、キニコスだったか、そういうものの始祖にあたる人物である。
英語のシニカル(cynical)の語源になる。
ちなみに、日本語でそのキニコスだかの学派の和訳は、ひどく皮肉で、犬儒派、というらしい。
野良犬みたいな汚らしい儒者のことだかを犬儒、というのだそうだが、この二名をどちらが儒者といったら、プラトンが該当しそうなものだが、そんな訳を当てられているのだとか。
「狂ったソクラテス」というのもまた、「犬儒」の言葉だったのかもしれないなぁ、などとワケノワカランことを考えて、夜もぐっすりである。
さて、別にギリシャ哲学やらの話をしようというわけではない。そもそも、専門でもないし、アカデミックな脳みそなんぞ持ち合わせておらぬ。
どちらかといえば、こちらの見た目はディオゲネスかもしれんので、ディオゲネスらしく、犬みたいに吠えようと思っただけである。クゥーン
プラトンの講義について、こちらも鶏を放り込もうというわけである。まずは捕まえてこないとならないが、近所にはいない!
ギリシャ哲学、だとか言われたりするし、例えば宗教なんかもそうだが、別に最初から今で言うオカルトだとかスピリチュアルものという設定ではなかった。
変な話だと思うかもしれないが、ああいうのは当時の最先端の科学、というべきものだったりするのである。
話が横道に入るが、インドにジャイナ教という宗教がある。
彼らが歩くときは、専用の箒のようなもので、自分の前を掃きながら歩く。
これは別に道が汚いからではなく、そのまま歩いた場合、自分の先祖だったものが生まれ変わって地を這う虫になっていた場合、それを踏み殺してしまう可能性があるので、その箒でどかしているのだそうな。
名前は聞いたことがなくても、そういう宗教があるとは耳にしたことがあるだろう。
こりゃなんだというと、成立時のインド(今もかしらんが)では、輪廻するというのが当然の認識であり、彼らはその「科学」的な根拠を突き詰めたものを行っていた、というわけである。
科学というからには、電子顕微鏡だとか実験で云々と思い浮かべそうだが、そーゆーもんである。
しかし、その箒でうっかり殺したりしないのかな?とはいつも思う。
話を戻して、現代の世にも「プラトン」がイッパイいる。
ああ、また上人のことですね?といえばそうである。プラトン上人とでも呼ぼうか。
もう少し正確に言えば、上人は飽くまで具体例である、とは何度も書いた。が、そこは措く。
そのプラトン上人は、前々から、「世の中はおかしい、具体的には生き物が食べるべきものを食べなくなったから皆おかしくなっているんだ」と言っておった。
で、人間も生まれた状態で自然に手を伸ばすもの以外を口にしているとおかしくなる、とおかしくなったように言っておったわけだ。
人間は猿と近いから、果物と葉っぱを生で食うのが体に一番いい!健康だ!穴掘って木を登り、とても正しい!というわけで、農地を買ってそこで自給自足をしようと、去年だか始めた。これも前々から書いたことである。
それの根拠の一つとして、アメリカのスポーツドクター、ダグラス・グラハムの本を読んで、「これだ!」と言い出したわけである。
内容は、すぐ上に書いたことと同じである。その中身はジャイナ教徒が歩くときと同じように面倒極まりないが。
最近は自分に柔軟性があることをアピールしたいのか、発酵食品も食べます、と始めたというのも書いた話。
彼らは言う。「これこそが人間だ」と。
ちんちくりんのプラトン上人と、スポーツドクターで現役で競技出たりするグラハムには共通点がある!!
それは・・・五体満足だということ。
何を馬鹿な・・・と、思うわな。
だが待って欲しい。
世に健康法を謳う者はゴマンといる。わしも別にその全員の姿を知るわけではないとはいえ、敢えて言うが、その中に五体不満足な奴はいるだろうか?
小指がケッソンしている、という奴がいるかもしれんが、そこは冗談である。
いや、そこではなく。
以前皮肉めいて書いた話で、グラハムの如き(如き、というのはそういう手合い、という程度の意味である)の脳内は、ナチスが称揚していた、麗しき社会そのまんまだとやった。
しつこいが、別にDr.グラハムだけの脳内ではない。上記にも書いたように、具体例である。
ははぁん、お前は上記の二人の講義を覗き込んで、「人間とはこれこれこうである」とやってたら、「五体不満足」の人を放り込んでやるんだな?
と、思われるだろうが、ちょっと違う。
プラトン上人がそれをやっていると仮定して、わしならこうやる。
等身大のプラトン上人そっくりのマネキンを放り込んで言うのだ。
「これ以外は人間ではないのですね?」と。
訂正してきたら、次は「五体不満足」を放り込んでいう。
「これは人間ではないのですね?」と。
グラハムの如きの場合も、ほぼ同じである。
人間が生まれた野性に立ち返る、とかいっている。この手の人たちは。
生まれた時ってなんだ?と考えたら、母親の乳房に吸い付いていた時か?
ああ、これは人間ではございませんねぇ。五体を満足に動かせませんからねぇ。
じゃあ、ハイハイしだしたら?
やっぱり人間じゃございませんねぇ。木に登れないし、穴掘りも出来ないので。
体を健康に鍛え上げて、これが人間です!といったら?
ああ、ちょっと体重計乗って。はい、だめー!昨日より筋肉の量が減ってます。昨日言った人間の枠から外れてますよ!
「二本足で歩く動物」か?
脚が片方折れて、車椅子乗ってます?ああ、いけないいけない。あなたは人間ではありません!
プラトン上人の理屈に正直に付き合っていたら、赤ん坊も人間ではなくなる。
プラトンが当時どういうことを思って、「人間とは~」とやったかは知らんが、それを見て鶏を放り込んだディオゲネスの気持ちはなんとなく、こうじゃないかと思うところがある。
そもそもプラトンの師匠たるソクラテスは、「自分が何も知らないことを知っている」という一種のアイロニーでもって、知の巨人たるに至った。
それに引き換え、プラトンは、人前に立って、言ってしまえば「わたしは人間が何たるかを知っている」と公言していたわけである。
鶏染みた人間がいるかもしれないわけで、ソクラテスならそういう風には言わなかったんじゃないのかね?という皮肉だったのかなと。
本当は知らないのに、知っていることにして無知をひけらかしているのではないか?と。
少々持って回った言い方をした。
話を戻すとして、わしはこう思う。
五体満足の人間が想像し、説く理想の姿というのは、五体満足の物から外れることはないだろう。
それ即ち、己自身を神と崇め奉り、有頂天に至った、痛々しい姿ではないのかね?
こういえば、「わしならこうやる」と言った所が理解できるかと思う。
すぐ上で、「プラトンが当時どう思っていったかは判らないが」と断ったのは、この点である。
生きている人間についても多分に推測があるとはいえ、死んだ人間なら余計に推測の域を出ぬからな。
ところで、プラトン上人たちはかつて、「精製された塩分は毒だ!ミネラルは生の食べ物からとるだけでいい!」と、グラハムの理屈に則り、やっていた。
グラハムの本に書いていたかは忘れたが、果物だけではミネラルが不足するので、葉野菜を食うというのである。ここは書いている。
そこではなく、野生動物は、時折、地表に湧出するミネラルを含んだ土を食ったりなめたりして補給する、というくだりが、あったかどうかは忘れた。なかったかな?どっちでもいい。
もしグラハムが書いてないとしたら、これはグラハムの無知である。書いていたら、そこは「人間らしく」知恵を働かせて、葉野菜を食うとやっているわけである。
そこを突っ込むわけではなく、プラトン上人のほうに話を戻していく。ミネラル摂取、という点である。
動物は感覚がするどいので、食うべきものと食うべきでないものを、自ずから区別している。人間にはその感覚がないか弱いので、精製した塩分なんぞという毒を平気で食うのだ、と述べていた。
申し訳ないが、地表に湧出した塩分は、自然とやらが精製した「食塩」ではないのか?自然だろうとなんだろうと、精製されたものだ。
「動物」ならそんなもの毒だとして食わない、という理屈はなりたってないようなのだが?
野口晴哉がこんな風に言っていた。
人間は、頭で判って無くても、体が受け付けないものは吐いたりして、自然に健康を保つように出来ている。
なのに、赤ん坊が乳を吐いたのは体を壊したからだの、腹が壊れたから下痢をしただのと、馬鹿なことをいって何かいらん工夫をして、本当に体を壊していく、と。
飽くまで、人間が自身の自然の流れに逆らっていらんことをするから、という意味であって、何もしなければいい、といった野放図の自然ではないことをお断りしておく。
そうすると、土を食ったら後で吐いているかもしれないな、野生動物は。
ジャイナ教徒は、掟に従い、歩くときには目の前を箒で掃く。これによって、殺生していない、と思うわけである。
これで正しいのだ!となる。実際は、その箒で虫を大量虐殺しているかもしれないことは無視されるとしても。
ま、現代科学的視点に立てば、料理したら野菜やら牛乳(彼らは乳は問題ないそうだ)の中にいる、「ゴセンゾだったかもしれない微生物」を殺してるんではないか?という突っ込みをしたくてたまらないが、ジャイナ教成立時の「科学」になかったことなので、誰も気にしていない。
プラトン上人は、自然の流れに沿った生活が健康になれるのだ、という宗旨のもと、山篭りしている。
その宗旨たるや、ジャイナ教徒の箒と大差ないのではないか?
※今さらで申し訳ないが、別にジャイナ教を非難しようというわけではない。
彼らは言う。「健康だからこそ人間だ」と。健康でないものは人間ではない、とすら言い出す。
ほう。じゃあ、彼らの「健康」の理想たる、野生動物らしく、土でもなめるのか?といったら、やらない。
人間のご先祖とやらは森にいたというのにか?森で土食わなかったのか?退化したものだな。退化した、とはプラトン上人がいってたが。
改めて、彼らが講義をしていた(と仮定した)ところの話をする。
中心に立って、かのプラトン上人は言う。「人間とは、健康な状態であって初めて人間である」と。
そこで等身大のマネキンを放り込んで言う。
「これこそ、病気にもならない、完全な人間ですな」と。
訂正がこう来たとしよう。
「人間とは、血が通っていて健康な状態であるのが人間である」と。
さっきは「五体不満足」とやったが、こうした方がいいだろう。
マネキンを改造して、ポンプを取り付け、赤いインクでも流れるようにしておいたのを放り込む。
「これは人間ですね?」
もちろん、プラトン上人そっくりのマネキンである。
さらに訂正がこう来たとする。
「人間はマネキンではなく、健康で生きている状態である」と。
そこで初めて「五体不満足」を投入する。
「マネキンでもなく、健康にご存命でございます」と。
彼らはギョッとするかもしれない。なんせ、「五体不満足」な状態の存在については一切考えておらず、考えていたとしてもそれらは、彼らの定義からしたら、「健康ではない」からだ。
やけっぱちになってこう言ってきたらしめたもの。
「人間とは五体満足でないと健康とは呼べないのだ!」と。
そうしたら、今度は何も放り込まない。かのものを指差してこういう。
「五体満足たるあなた以外は人間ではない、といいたいのですね?」と。
かくして、講義の聴衆からもわしは抗議を受け、野良犬の如くたたき出される。そして嗤いながら外を駆け回り、こう叫ぶのだ。
「知りもしないで、知った口をきく。まるでしゃべるマネキンだ!」と。
かつて、斯様な事を申す者共、つまり、上記で言うプラトン上人らが目指す健康とやらは、マネキンになることだ、と書いた。
繰言になるが、彼らは、彼ら自身の姿を理想といっているだけで、それは、例えば昔のキリスト教が異教を撃ち滅ぼす時の理屈と変わらない。
もう少し近い時代でいうならば、ナチスと思考回路が同じだというわけである。
健康的な肉体万歳!伝統的な秩序による生活こそ至高!アーリア的美風は正義!というやつである。
それでもって何をしたかというと、心身障害者を収容所に放り込んで殺した。
「ドイツの健康のために邪魔だから」と。
その理屈で行くなら、プラトン上人はおろか、グラハムですら、恐らく、かつての「偉大なる正しい野生の人類」に適う所がないことになるので、収容所送りになっても致し方なかろう。
「人類の健康のために邪魔だから」と。
体をマネキンのように健康にしたいのなら、それはそれで結構。
その結果、脳みそまでマネキンになる。
かくして、しゃべるマネキンの出来上がりというわけである。
プラトンは言った。「人間は二本足で歩く動物だ」と。
もじってこう言おう。
「マネキンは五体満足以外は人間でないと断ずる動物だ」と。
では、よき終末を。
ここ一年は、どこぞの上人についての悪口雑言重箱の隅といった具合であることは言うまでも無い。
わしはそろそろ新しいことを書こうかと思ったが、諦めることにした。
というのも先日、野口晴哉のエピソードをたまたま目にしたからだ。
こういう話だった。
何度か指導を受けていて、ある日、野口にこう尋ねた。
「先生、何か新しい話はないですか?」といった具合に。
すると野口は
「では、あなたは私と同じように出来るようになったのかね?」と返したら、聞いた人は黙ってしまったそうな。
読んだところの続きでは、「例えば会社の上司が部下に「一度しか言わないからよく覚えろ!」みたいなのはおかしいんですよ」という風な話を書かれていた。
何度も同じことをするにしても、本当は完全に同じことなどなく、新たな視点を見出したりするものである、という話であった。
ま、ここにはそんな大層なものは無いので、読まなかったことにして新しいことでも探しに行かれる方がよろしかろう。
さて、前置きはここまでにして、本題へ。
古代ギリシャの時代に、ソクラテスという哲学者がいた。
その弟子に当たる人に、こちらも高名な、プラトンという人がいる。
プラトンも師匠の衣鉢を継いで、後輩指導をするわけである。
そんなある日。
人間とは、という題での講義をしていた。
「人間とは、二本足で歩く動物である」とプラトンは述べた。
近くで覗いていた、ディオゲネスという、乞食みたいな奴が思いついて、そこに鶏を投げ込んでこう言った。
「これも人間かね?」
プラトンは鶏を焼いて食って、改めて言った。
「人間とは、羽毛のない、二本足で歩く動物である」
さて、またディオゲネスは、鶏を放り込んだ。今度は羽毛を毟って丸裸の鶏である。
「これが人間だってさ!」
余談だが、焼いて食った、は冗談である。
プラトンとディオゲネスのこの手の喧嘩はほかにもあったかは忘れたが、プラトンは腹を立てて、ディオゲネスをこう罵ったそうである。
「狂ったソクラテス」と。
ディオゲネス、という名前は他にも該当があるのだが、キニコスだったか、そういうものの始祖にあたる人物である。
英語のシニカル(cynical)の語源になる。
ちなみに、日本語でそのキニコスだかの学派の和訳は、ひどく皮肉で、犬儒派、というらしい。
野良犬みたいな汚らしい儒者のことだかを犬儒、というのだそうだが、この二名をどちらが儒者といったら、プラトンが該当しそうなものだが、そんな訳を当てられているのだとか。
「狂ったソクラテス」というのもまた、「犬儒」の言葉だったのかもしれないなぁ、などとワケノワカランことを考えて、夜もぐっすりである。
さて、別にギリシャ哲学やらの話をしようというわけではない。そもそも、専門でもないし、アカデミックな脳みそなんぞ持ち合わせておらぬ。
どちらかといえば、こちらの見た目はディオゲネスかもしれんので、ディオゲネスらしく、犬みたいに吠えようと思っただけである。クゥーン
プラトンの講義について、こちらも鶏を放り込もうというわけである。まずは捕まえてこないとならないが、近所にはいない!
ギリシャ哲学、だとか言われたりするし、例えば宗教なんかもそうだが、別に最初から今で言うオカルトだとかスピリチュアルものという設定ではなかった。
変な話だと思うかもしれないが、ああいうのは当時の最先端の科学、というべきものだったりするのである。
話が横道に入るが、インドにジャイナ教という宗教がある。
彼らが歩くときは、専用の箒のようなもので、自分の前を掃きながら歩く。
これは別に道が汚いからではなく、そのまま歩いた場合、自分の先祖だったものが生まれ変わって地を這う虫になっていた場合、それを踏み殺してしまう可能性があるので、その箒でどかしているのだそうな。
名前は聞いたことがなくても、そういう宗教があるとは耳にしたことがあるだろう。
こりゃなんだというと、成立時のインド(今もかしらんが)では、輪廻するというのが当然の認識であり、彼らはその「科学」的な根拠を突き詰めたものを行っていた、というわけである。
科学というからには、電子顕微鏡だとか実験で云々と思い浮かべそうだが、そーゆーもんである。
しかし、その箒でうっかり殺したりしないのかな?とはいつも思う。
話を戻して、現代の世にも「プラトン」がイッパイいる。
ああ、また上人のことですね?といえばそうである。プラトン上人とでも呼ぼうか。
もう少し正確に言えば、上人は飽くまで具体例である、とは何度も書いた。が、そこは措く。
そのプラトン上人は、前々から、「世の中はおかしい、具体的には生き物が食べるべきものを食べなくなったから皆おかしくなっているんだ」と言っておった。
で、人間も生まれた状態で自然に手を伸ばすもの以外を口にしているとおかしくなる、とおかしくなったように言っておったわけだ。
人間は猿と近いから、果物と葉っぱを生で食うのが体に一番いい!健康だ!穴掘って木を登り、とても正しい!というわけで、農地を買ってそこで自給自足をしようと、去年だか始めた。これも前々から書いたことである。
それの根拠の一つとして、アメリカのスポーツドクター、ダグラス・グラハムの本を読んで、「これだ!」と言い出したわけである。
内容は、すぐ上に書いたことと同じである。その中身はジャイナ教徒が歩くときと同じように面倒極まりないが。
最近は自分に柔軟性があることをアピールしたいのか、発酵食品も食べます、と始めたというのも書いた話。
彼らは言う。「これこそが人間だ」と。
ちんちくりんのプラトン上人と、スポーツドクターで現役で競技出たりするグラハムには共通点がある!!
それは・・・五体満足だということ。
何を馬鹿な・・・と、思うわな。
だが待って欲しい。
世に健康法を謳う者はゴマンといる。わしも別にその全員の姿を知るわけではないとはいえ、敢えて言うが、その中に五体不満足な奴はいるだろうか?
小指がケッソンしている、という奴がいるかもしれんが、そこは冗談である。
いや、そこではなく。
以前皮肉めいて書いた話で、グラハムの如き(如き、というのはそういう手合い、という程度の意味である)の脳内は、ナチスが称揚していた、麗しき社会そのまんまだとやった。
しつこいが、別にDr.グラハムだけの脳内ではない。上記にも書いたように、具体例である。
ははぁん、お前は上記の二人の講義を覗き込んで、「人間とはこれこれこうである」とやってたら、「五体不満足」の人を放り込んでやるんだな?
と、思われるだろうが、ちょっと違う。
プラトン上人がそれをやっていると仮定して、わしならこうやる。
等身大のプラトン上人そっくりのマネキンを放り込んで言うのだ。
「これ以外は人間ではないのですね?」と。
訂正してきたら、次は「五体不満足」を放り込んでいう。
「これは人間ではないのですね?」と。
グラハムの如きの場合も、ほぼ同じである。
人間が生まれた野性に立ち返る、とかいっている。この手の人たちは。
生まれた時ってなんだ?と考えたら、母親の乳房に吸い付いていた時か?
ああ、これは人間ではございませんねぇ。五体を満足に動かせませんからねぇ。
じゃあ、ハイハイしだしたら?
やっぱり人間じゃございませんねぇ。木に登れないし、穴掘りも出来ないので。
体を健康に鍛え上げて、これが人間です!といったら?
ああ、ちょっと体重計乗って。はい、だめー!昨日より筋肉の量が減ってます。昨日言った人間の枠から外れてますよ!
「二本足で歩く動物」か?
脚が片方折れて、車椅子乗ってます?ああ、いけないいけない。あなたは人間ではありません!
プラトン上人の理屈に正直に付き合っていたら、赤ん坊も人間ではなくなる。
プラトンが当時どういうことを思って、「人間とは~」とやったかは知らんが、それを見て鶏を放り込んだディオゲネスの気持ちはなんとなく、こうじゃないかと思うところがある。
そもそもプラトンの師匠たるソクラテスは、「自分が何も知らないことを知っている」という一種のアイロニーでもって、知の巨人たるに至った。
それに引き換え、プラトンは、人前に立って、言ってしまえば「わたしは人間が何たるかを知っている」と公言していたわけである。
鶏染みた人間がいるかもしれないわけで、ソクラテスならそういう風には言わなかったんじゃないのかね?という皮肉だったのかなと。
本当は知らないのに、知っていることにして無知をひけらかしているのではないか?と。
少々持って回った言い方をした。
話を戻すとして、わしはこう思う。
五体満足の人間が想像し、説く理想の姿というのは、五体満足の物から外れることはないだろう。
それ即ち、己自身を神と崇め奉り、有頂天に至った、痛々しい姿ではないのかね?
こういえば、「わしならこうやる」と言った所が理解できるかと思う。
すぐ上で、「プラトンが当時どう思っていったかは判らないが」と断ったのは、この点である。
生きている人間についても多分に推測があるとはいえ、死んだ人間なら余計に推測の域を出ぬからな。
ところで、プラトン上人たちはかつて、「精製された塩分は毒だ!ミネラルは生の食べ物からとるだけでいい!」と、グラハムの理屈に則り、やっていた。
グラハムの本に書いていたかは忘れたが、果物だけではミネラルが不足するので、葉野菜を食うというのである。ここは書いている。
そこではなく、野生動物は、時折、地表に湧出するミネラルを含んだ土を食ったりなめたりして補給する、というくだりが、あったかどうかは忘れた。なかったかな?どっちでもいい。
もしグラハムが書いてないとしたら、これはグラハムの無知である。書いていたら、そこは「人間らしく」知恵を働かせて、葉野菜を食うとやっているわけである。
そこを突っ込むわけではなく、プラトン上人のほうに話を戻していく。ミネラル摂取、という点である。
動物は感覚がするどいので、食うべきものと食うべきでないものを、自ずから区別している。人間にはその感覚がないか弱いので、精製した塩分なんぞという毒を平気で食うのだ、と述べていた。
申し訳ないが、地表に湧出した塩分は、自然とやらが精製した「食塩」ではないのか?自然だろうとなんだろうと、精製されたものだ。
「動物」ならそんなもの毒だとして食わない、という理屈はなりたってないようなのだが?
野口晴哉がこんな風に言っていた。
人間は、頭で判って無くても、体が受け付けないものは吐いたりして、自然に健康を保つように出来ている。
なのに、赤ん坊が乳を吐いたのは体を壊したからだの、腹が壊れたから下痢をしただのと、馬鹿なことをいって何かいらん工夫をして、本当に体を壊していく、と。
飽くまで、人間が自身の自然の流れに逆らっていらんことをするから、という意味であって、何もしなければいい、といった野放図の自然ではないことをお断りしておく。
そうすると、土を食ったら後で吐いているかもしれないな、野生動物は。
ジャイナ教徒は、掟に従い、歩くときには目の前を箒で掃く。これによって、殺生していない、と思うわけである。
これで正しいのだ!となる。実際は、その箒で虫を大量虐殺しているかもしれないことは無視されるとしても。
ま、現代科学的視点に立てば、料理したら野菜やら牛乳(彼らは乳は問題ないそうだ)の中にいる、「ゴセンゾだったかもしれない微生物」を殺してるんではないか?という突っ込みをしたくてたまらないが、ジャイナ教成立時の「科学」になかったことなので、誰も気にしていない。
プラトン上人は、自然の流れに沿った生活が健康になれるのだ、という宗旨のもと、山篭りしている。
その宗旨たるや、ジャイナ教徒の箒と大差ないのではないか?
※今さらで申し訳ないが、別にジャイナ教を非難しようというわけではない。
彼らは言う。「健康だからこそ人間だ」と。健康でないものは人間ではない、とすら言い出す。
ほう。じゃあ、彼らの「健康」の理想たる、野生動物らしく、土でもなめるのか?といったら、やらない。
人間のご先祖とやらは森にいたというのにか?森で土食わなかったのか?退化したものだな。退化した、とはプラトン上人がいってたが。
改めて、彼らが講義をしていた(と仮定した)ところの話をする。
中心に立って、かのプラトン上人は言う。「人間とは、健康な状態であって初めて人間である」と。
そこで等身大のマネキンを放り込んで言う。
「これこそ、病気にもならない、完全な人間ですな」と。
訂正がこう来たとしよう。
「人間とは、血が通っていて健康な状態であるのが人間である」と。
さっきは「五体不満足」とやったが、こうした方がいいだろう。
マネキンを改造して、ポンプを取り付け、赤いインクでも流れるようにしておいたのを放り込む。
「これは人間ですね?」
もちろん、プラトン上人そっくりのマネキンである。
さらに訂正がこう来たとする。
「人間はマネキンではなく、健康で生きている状態である」と。
そこで初めて「五体不満足」を投入する。
「マネキンでもなく、健康にご存命でございます」と。
彼らはギョッとするかもしれない。なんせ、「五体不満足」な状態の存在については一切考えておらず、考えていたとしてもそれらは、彼らの定義からしたら、「健康ではない」からだ。
やけっぱちになってこう言ってきたらしめたもの。
「人間とは五体満足でないと健康とは呼べないのだ!」と。
そうしたら、今度は何も放り込まない。かのものを指差してこういう。
「五体満足たるあなた以外は人間ではない、といいたいのですね?」と。
かくして、講義の聴衆からもわしは抗議を受け、野良犬の如くたたき出される。そして嗤いながら外を駆け回り、こう叫ぶのだ。
「知りもしないで、知った口をきく。まるでしゃべるマネキンだ!」と。
かつて、斯様な事を申す者共、つまり、上記で言うプラトン上人らが目指す健康とやらは、マネキンになることだ、と書いた。
繰言になるが、彼らは、彼ら自身の姿を理想といっているだけで、それは、例えば昔のキリスト教が異教を撃ち滅ぼす時の理屈と変わらない。
もう少し近い時代でいうならば、ナチスと思考回路が同じだというわけである。
健康的な肉体万歳!伝統的な秩序による生活こそ至高!アーリア的美風は正義!というやつである。
それでもって何をしたかというと、心身障害者を収容所に放り込んで殺した。
「ドイツの健康のために邪魔だから」と。
その理屈で行くなら、プラトン上人はおろか、グラハムですら、恐らく、かつての「偉大なる正しい野生の人類」に適う所がないことになるので、収容所送りになっても致し方なかろう。
「人類の健康のために邪魔だから」と。
体をマネキンのように健康にしたいのなら、それはそれで結構。
その結果、脳みそまでマネキンになる。
かくして、しゃべるマネキンの出来上がりというわけである。
プラトンは言った。「人間は二本足で歩く動物だ」と。
もじってこう言おう。
「マネキンは五体満足以外は人間でないと断ずる動物だ」と。
では、よき終末を。