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真のエゴイスト

2014-09-07 | 雑記
先月だったか、その前か。はっきり覚えていない。確認も出来るのだが、一々しようとは思っていない。


メッセージボックスから一つ、何やら来た。


掻い摘む必要もない短い内容だが、以下のようにあった。


「為清さんと連絡を取りたいのですが、ご連絡先をご存知ではないでしょうか?あなたは関係者なんでしょう?」

という風に。


急にメッセージを送って失礼ですが、などと意味のない(一般的な感覚なんぞしらん)一言も添えて。



とても失礼だなと感じたので、「どこに目をつけているんだ」と返した。それだけではつまらないので、尊師の愛人のブログを紹介し、春ぐらいに本を出していたから、読者カードでも送ればいいんじゃないですか?と返した。

さらにダメ押しで、その御仁が以前、尊師とやり取りをしていたことを実はこちらも把握していたので、その理由と内容を教えて差し上げたら、「連絡を取るのはやめます」と来た。


その内容はというと、尊師が運営していた会員制掲示板でやり取り内容を公開していたからである。仲間に引き込むかどうか、という吟味のために。


だから、ここでやり取りの内容を書くというのは、その御仁の逆鱗に触れかねないなぁと思いつつ、触れなくてはならないと感じた話があったので、つい筆(筆ではないが)を執ったしだいである。



「どこに目をつけているんだ」と最初にしかりつけるようなことを記した、と書いた。


最新記事に目を通すだけでも、今、わしと尊師が関係があるように見えたら、頭がおかしいといわざるを得ない。

穿った物の見方をすれば、わしが一種のステルスマーケチングでもやっていると言えなくもない。あれでマーケチングになるんなら、マーヂンを貰ってもバチは当たるまいな。

それはともかく、その御仁は、昔の記憶だけを頼りに、出掛けに思い出してこちらに連絡をしてきたそうである。もちろん、記事には目を通さずに。


そのことを指摘したら、こう返ってきた。

「人が嫌がることはしない、自分にして欲しいことを人にする、という自分の信念に反することをしてしまった。ごめんなさい」

と、いう風なことを。



なんとも腑に落ちない言葉だな、というのが最初の感想であった。


それならばと、「なら、自分に自分でして欲しいことをしたらどうですか?」と返しておいた。

オルテガの命題も添えて。「わたし」とは、わたしとその環境である、というやつである。


その後来たのには、「エゴイストでなければ、人と分かち合いたいと思うものでしょう?」と言っていたが、何も言う気が起きなかったので、放置して今にいたる。


この「人が嫌がることは云々」は、昔どこかで聞いた覚えがある。


かつて、創価の大学、その名も創価大学で、同期のバカ女がバカみたいな笑顔で言っていたなぁと。

なんの話をしていたか、わしがその論語(で合っているのか自信はないが)の「己の欲せざるところは云々」を言うと、「でも、私たちは自分たちがいいと思うものを人にすすめるのよ」、みたいなことを気持ち悪い笑顔で語っていたのを思い出す。



昔話は措く。古傷がうずくから。こら!突っ込むんじゃあない!



平たく言う。


どのようにして人の嫌がることを察知し、自分が欲しがることは他人も欲しがると決め付けられるのか?


あなたが腹を空かしているからといって、相手も腹を同じく空かせているのか?そうだとして、同じものを食いたがっているのか?


エゴイストでなければ分かち合うのが筋でしょう、などというが、そもそも上記の考え方がエゴイズムではないのか?
しかも、道徳的な粉飾で。


こういう、謙遜ぶったものの言い方を好むのは日本人独特、というと単純に過ぎるきらいがあるが、どこぞの尊師も似たようなものである。


「わたしはこの地球と人類のために正しいことを知りかつ行動してきたが、誰もまともに理解し、行動してくれなかった」とのたまい、HPを閉めたあの尊師となんら変わらないのである。


地球がいつ、「あなたの行動は地球のためになってますよ」などとお墨付きを与えたのかまったく不明であり、また、人類や地球が存続することが絶対的に覆せない正しいことだという根拠も実際はありえない。


その尊師は常々、「日本人はバカだから」と、お題目を唱えていた。バカな日本人の理屈でもって見事にHP閉鎖と相成ったわけである。



道徳とはなんぞや?という話は、よくニーチェの話を引用して、しゃべったことの方が多い気がするが、簡単に書いておく。


そもそも道徳の始まりは、献身だとか自己犠牲の精神からではなく、彼のものが己の利益のためになした事が結果として他を利することになったから、という。

動機としては邪なものですらあるものが、行動の結果は尊いものとして残り、そして、後には「彼のものの行いは素晴らしい心から出たのである」とみなされた。

そして、道徳的な行いには常に「道徳的」な心情がある、とされていく。


彼の「道徳的」な行為は、己が欲したもののための手段であったのだが、手段が目的とされたのである。


手段の目的化。


欧米には、「レディファースト」という習慣がある。

ジンケンだとか女性の権利だとかを考えてのものではない。

あれは、女性を炭鉱で使うカナリヤにしたものである。

なんでカナリヤ?後に立つのがかなり嫌だったからか?と、ちょっと無理なダジャレだったな。

かつて炭鉱では、有毒ガスやらが篭っていたりして危険だから、鳥かごにカナリヤを入れて、前に突き出して確認していたそうである。

カナリヤは酸素がなかったり、ガスがあったりすると、鳴いてすぐ死ぬ。それを見て危険を回避していたという。

というわけで、女性をカナリヤにしていた名残だそうな。別に、炭鉱に放り込んでいたわけではない。


その内実が忘れられ、道徳として残ったのが、レディーファーストという奴である。別にけなしているわけでもないが、習慣の違いという奴で、わしには馴染みがない。


欧米という日本と比べたら弱肉強食的な世界では、女は他所から奪ってくるものなので、男が生き残りさえすればよかった。だから、ああなったというわけだ。


まあ、あまりいい例えではないが、そういうものだったとなんとなく理解していただければよい。それだけでは済まないがな。



手段が目的化されて出来上がった、道徳。


己が欲するところから出てきた手段は、その心情に由来するわけだが、それがないのに手段を行え!と命令するのである。


するとどうなるか。


その行為が行えない奴は、清い心が無いダメなやつだ、と、しかりつけられるわけである。

いずれその魂は冷え切り、ただ命令に従うだけの木偶に成り下がるのである。


ニーチェは、道徳の命令によりそうなった存在を「柔弱なる者」と呼んでいた。


ここは以前、本当に前になるが、たびたび紹介してきた、『ハラスメントは連鎖する』や、アリス・ミラーの業績にも繋がる。


「柔弱なる者」は、芯は柔弱だが、命令に従うこと一日の長ありといえる。


これ以上は言わなくても判るかと存じるが、簡単に言うと、道徳の命令に従ってきたものは、その命に従い、命令を下すのである。

魂が冷え切っているから、本能の命令に従うだけになったりするわけである。道徳というのは、人間の本能に楔を打ち込むのである。



エゴイストぶらない行動を常々心がけるというのは、純然たるエゴイストというよりも、エゴセントリズム(自己中心性)という状態である。


本当にエゴイストなら、彼我の斟酌などしない。己のためにやっているだけだからである。己のために、他者を己が物にしようとしているからである。

「わたしはあなた、あなたはわたし」というわけだな。


わたしとは、わたしとその環境である、と、オルテガの言葉を書いた。


冒頭のやり取りではこう付け加えてある。

「その環境ばかりに気を取られて、「わたし」を無視しているのではないか?」と。



堅苦しい言い方はやめだ。もっとくだけた、無茶苦茶な言い方で終わる。


人に迷惑をかけないようにというが、人間、生きているだけで何かに迷惑をかけておる。

本当に迷惑をかけたくないなら、死なねばならぬ。じゃあどうするんだ?そういうお前(わし)は死なないのか!?


迷惑はお互い様だ。迷惑かけたら死ぬわけでもないのに、ふざけたことを申すな!

さらに、死んだからどうだというのだ!


と、いうわけである。


迷惑をかけないように、などという道徳的な指標というのは、人間にしろ動物にしろ、生き物にはそぐわないものなのである。



で、こう書けば必ず勘違いするのが世の常でもあるので、無駄だと思うが書いておく。

だからといって、迷惑をかけるように行動しろという意味ではない。



手段のために生きてどうするか!望みを叶えるための手段であろう。

己の肉体も精神も(ひっくるめて本能としておくか)、自然環境やら地球とやらも、手段である。目的ではない。


手段のために生きている。これが道徳の奴隷というやつである。実に神々しい豚である。ありがたやありがたや。