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ナチスの遺産

2014-09-20 | 雑記
このごろ、というより、今年に入ってからのブログの題材は、まあ、あの豚の尊師とのイザコザから見出したことを普遍的なところへ持っていこうという、元から無謀なことをやってきたのだが、それとはまた別なことがある。

何か着目して、それについてあれやこれやと思いふけっていると、ついダジャレを思いつくという。この間の「センミンゼミ」なんぞは判り易い例ではある。
「センミンゼミ」については、ダジャレを思いついたからではない。その本質がダジャレのようだったからというわけで、わしに責任はない!ダジャレが寒くてもわしには何の咎もないのである!!


と、冗談は終わりにして、しばらく前から気になっていたことを一つ。


尊師のことについて書いていたら、かつての関係者からメールを貰い、そのタレコミで記事を書いてきたりもした。

その方(「まろん」さんである)と何度かメールでやり取りをしてきたし、先月はその旦那さんとと共に三者会談をしたものである。

タイトルの話に持っていくのに時間をかけると何を書くか忘れるし、疲れて忘れる可能性も大だが、分けて書くのも問題ありなので、もうしばらく。

たいしたことじゃない。

いつか本人にメールでお伝えしようかと思っていたのだが、これもまた、個人だけの問題ではないので、何かお困りの方へのヒントになったり、わしのダジャレのネタ・・・にはならんが、まあ、それはともかく。

以前、おしかりを受けた話は書いたが、「まろん」さんがうっかりこちらの本名を書いてコメントしたというアレである。

ご本人はそのことなども含めて何度か言っていたのだが、「何度も失敗して痛い目見て覚えようとしてるけど、なかなか上手くいかない」と。

たしか、そういう風な言い方をしていたように思う。


こりゃなんじゃろうなぁ、とつい思うわけである。で、前々から仕入れていたけども出す機会を逸していた話にもっていける。

DJあおい、という、世の悩める女子に恋愛やら生き方について相談を受けたりブログで記事書いたりしている人がいる。
完全素人のわしとは違う、そーゆー仕事の人なんだろうが、詳しくはしらん。

で、その人が言っていた。またもや記憶で言うので、丸写しではないことをお断りしておく。

「その人自身の間抜けさというのは、咎めても直らない。そのままでよい」

これはまあ、どこでも聞く話であろう。だが、続きが違った。

「そのままでよいというのは、矯正しないということではない。許して受け入れることで、気づいて直っていくのである」

と、こーゆー風に述べていた。

あんまりしつこいと嫌がられるかもしれないが、「まろん」さんのコメントの件があった記事で、「マザコンは間抜け」という風に書いた。

マザコンが間抜けとは何事だ!とお叱りを受けたわけだが、わしの話の前提にあったのは上記のことであったことをご承知願う。

それを踏まえて書き直せば、こういうことになる。

「間抜けだなぁと気がついて許して受け入れれば、自然とマザコンに振り回される間抜けさも消えていくのである」とでもしておく。


許す、というのはやはり、余裕が無ければ出来ぬこと。「まろん」さんも恐らく、余裕がないのだといえる。まあ、周りが咎めてくるから、それで余裕がなくなるというのも人間世界では詮無きことゆえ、まずは「余裕が無いのダナァ」と、そこから始めるとよいのかもしれない。

尊師も余裕がなくて首が回らなくなったから、尊師になったのであろうナァ。ありがたやありがたや。


さて、ここからは、わしの余裕がなくなるような話である。なんのこっちゃ。



タイトルの話である。おどろおどろしい。もうね、ナチス、なんて言葉がおどろおどろしい。まあ、それだけである。


ナチスってなんぞや、と、説明するようなもんではないが、第二次世界大戦時のドイツの与党である。代表はヒトラー。
国民投票でもって、ヒトラーは初代総統に就任した。総統、なんというものはそれまでなかったわけである。そんな話はいいとして。


そのヒトラー、以前もアリス・ミラーの話などで引っ張り出してきたものだが、今回はアリス・ミラーはお休みである。


アドルフ・ヒトラーというのは、なにやら霊感のあった感じの人で、色々な逸話や、彼自身が残した発言などが伝わっている。

その発言の内容は、後々のことを指摘していて、現代においてことごとく的中している。「ヒトラーの予言」といわれたりしているそうな。

例を挙げるのは別にここでの主要な問題ではないし、ご自身でお調べいただいた方が面白いと思うので、特に出さないが、色々と戦慄するやもしれぬ、と、わざと煽っておく。


実はこの話は、今年の暴露ラヂヲでも触れた覚えがあるが、もはや昨日のことも遠い昔のことなので、思い出せない。
重複することを厭わぬ、弛まぬ精神とオホメいただければ光栄である。


さて措き、ナチス時代はどういう風潮だったか。

労働賛美、健康的な肉体賛美、伝統的なドイツ賛美、あとは純血なアーリア人種という神話。
こーゆー感じを宣伝していたのがナチスの時代だったといえる。

労働賛美?と思った方はちょっと鋭い。いや、鋭いかどうかはしらん。なちすなちすと言うが一体なんなのかはよく判らん人が多いだろう。

ナチス、という名は、ドイツ語の党の名前からだが、正式名称は「国家労働社会党」である。

全体主義の国が、例えばその当時の日本(のイメージ)みたいに、極右なのかと思ったら、つまるところ、ドイツは極左政権だったといえる。細かいところはともかくとして、「社会党」として動いていたのが、ナチスだったわけだ。
まあ、政治でいう右とか左の始まりは、実はどっちも具合の違いで、向きは一緒なんだそうだが。

というわけで、労働賛美。働くって素晴らしい!働かない、働けない存在は社会のゴミだ!金貸しユダヤは排除しろ!となる。

健康賛美もまた、不具者はフグイカだ!刺身にしろ!となるわけだ。何を言っているんだこれは・・・。

伝統的なドイツ賛美はよくはしらんが、いつの時代も、当時の閉鎖的な状況を否定し、新しい道を模索していた存在、例えば芸術、学問、思想。こういったものを否定していた。
実はそれらはイルミナティが吹き込んだもので・・・と、アイクだとかは言いそうだが、どうでもいい。

古代の支那は、始皇帝の時代。もうこれを言ったらある言葉が浮かぶだろう。

焚書坑儒、である。実際に本を焼き捨てたし、まともな学者は殺したり逃げたりした。芸術作品もことごとく破壊されたものである。

純血なアーリア人種云々だが、彼らは「アーリア人こそ最も偉大な人種」という神話を吹聴していた。
誰でも知っていようが、ヒトラー自身はユダヤの血が混じっている。
細かい話はしらんが、別にアーリア人が偉大と彼自身が言っていたのかは判らない、という風な話を聞いた気もするが、別に気にしない。

というわけで、世界に冠たる第三帝国のために、「正しくない」存在を排除しようと働いていたのが、ナチス時代のドイツである。


ヒトラーは、健康に気を使っていた。本当に使っているのか?という風な感じだが、主張としては、菜食主義を推奨していた。タバコは吸わない、酒も飲まない。

気持ちの悪いほど規則正しい世の中にしようとやっていたのである。それがナチスの時代。

「怠け者」は殺されたのである。政治犯や精神病患者、挙句には同性愛者も収容所に送ったそうだ。


さあ、ナチスの紹介はここまで。


第二次世界大戦終結後、連合国はある声明をしていたそうだ。

「ナチスの遺産は全て破棄する」という風な。

ところがどっこい。今現在、ことごとくが実際はナチスの遺産から出ている。ロケットの構想もヒトラーは言っていたそうだ。

ヒトラー自身も、それに近いような予言をしていた気がするのだが、パッと見たところ、それらしいところに出くわさなかった。そーゆー解釈を記したところだったのかもしれないが。

さて、ナチスの遺産。世の中の政治やその上層部で何やらしている(陰謀論)というのも、まったく的外れともいえないわけであるが、そんなものを超越した!とほざいているやつらも、ナチスの遺産で生きているのである。


別に、科学技術だとかではない。頭の中身が、である。


ナチスの時代について、もう一度キーワードを。

一、労働賛美
二、健康的な肉体賛美
三、伝統賛美
四、純血な人種


さあ、皆で考えよう!と、昔あったクイズ番組の台詞はいいとして、解き明かしていこう。


果物と葉野菜が人間にとって正しい食生活である、そうしないと人間は狂う!狂っている!と、そう狂ったように主張している神人がいる。

果物食って体動かして、森に従って生きるのが正しかったから正しい、というわけである。

そーゆーのを自然に沿った、と皆判で押したように言うが、森に従っていただけであろう。ともかく。


森の時代の労働賛美。木に登って果物食って、天敵を見たら逃げて、また木に登って果物を食う、という労働生活は素晴らしい。正しいね!

森の時代の肉体賛美。そうやってたら体が鍛えられるから、力強くて(逃げ足速くなって)素晴らしい。正しいね!

森の時代の伝統賛美。森で長年そうやってたから、森もそれにつられて変わっただけなのを自然だと主張してる間抜けだけど、それで別に十分であるから、素晴らしい。正しいね!

森の時代の純血賛美。森に入るまでの話は一切無視してるのに、森にいたころだけは素晴らしかったから素晴らしい。正しいね!

そーしない「病気」な存在は皆消えてなくなれば、素晴らしい世界になる。正しいね!


・・・書いてて気分が悪くなってきた。


最後の行だけ抜いても変わらん。ナチスの頓珍漢と何が違うのだ?



正しい食事と生活をしていたら、超人になってバカな奴らを駆逐できるかもしれない、という風な話を豚人会館、じゃなかった、暇人会館とかいう、尊師の運営していた掲示板でたまさかに話題になったものだった。


ヒトラーも超人だとか、神人とかいう話をしていたものである。世界は二極化し、劣悪で命令どおりにしか動かないロボットのような存在と、それを動かす超人だか神人だかに別れていくのだと。


果物を食おうが食うまいが、ロボットは元々ロボットである。己のつまらん本能に左右されきることだけが正しい、といいたいだけの間抜けは、そもそもロボットである。そもそも、本能であるかどうかすら疑わしい。

果物を食ったほうが、もっと不具合の少ないロボットになるだけなのだろう。かつては森のロボットだったのだから。

果物を食っているやつらの中にも、ロボットではないような人もいるのであろう。ただ、少なくとも、尊師がそれに値しているとは思わない。


ナチスの主義を、「ナチズム」と呼ぶそうだが、果物(飽くまで果物は代表だが)を食っている奴らが「ナチズム」と変わらないのなら、果物の梨にかけて「ナシズム」と呼ぶことにする。

梨に失礼なので、ロボットに脳みそは無いから、能無しならぬ脳無しの「無しズム」というべきか。
ま、つづりは「ナシズム」でよい。


ナチスの頓珍漢の行いを、素っ頓狂にも押し戴き、祭り上げる豚。

この豚(トン)チンカンのスッ豚教のドグマが、「ナシズム」というわけである。

「無し」なのに教義があるとは、これ如何に。実に哲学的な命題であろう。


だが、「無し」には何もない。無いものは考えることは出来ない。

脳みそもないので、考えることも出来ないから、命令に従うだけである。「自然」と呼び習わしている、森の命令に。

まあ、まるで森は悪い、と言っているようにしか聞こえないから、「幻の桜」みたいに言えば、森のお願いを命令だと勘違いしている、とでもしようか。
ロボットは、「幻の桜」でいう操り人形というのは、命令が欲しくてたまらないのである。
お願いを拒否できない命令であるかのように受け取られると、森の方も迷惑しているかもしれないが、わしにはそんなことは判らん。
ワカランが、その「幻の桜」では、お願いを命令と受け取るとおかしな方向に行く、とは言っていたな。


森のロボットといったが、正に、ヒトラーの予言どおりである。現代は、ビルと森の二極化であり、その二極化はきっと、どっちに転んでもロボットを確保できるように働いているからであろう。誰が働いているのかしらんが。

そういえば、イルミナティだとかいうのは両方から攻撃するのではなかったのかな?
ああこれは、釈迦に説法という奴でしたね。ふっふっふ。


括弧で飽くまで果物は代表とちらっと書いておいた。

毎度のように言うのも心苦しい、というより馬鹿馬鹿しいが、改めて述べておく。

というのも、今回出てきた「ナシズム」も、別にあの豚の尊師だけの話ではなく、世の中に幅広く根付いている病魔である。

そのことをお間違えなきよう、お願い申し上げる所存である。

いいか!命令ではないゾ!



第二次世界大戦のドイツはナチズムの時代であった。

そして、現代は「ナシズム」の時代である。

世界はナチスの遺産に動かされているのである。めでたしめでたし。