猫は百年生きると尻尾が二股に割れて、人に化けたりする。
これを猫又という。猫の恩返しは寡聞にして知らない。
ヨーロッパにはウヰスキー・キャットという猫がいる。種類ではない。
ついでに、猫なのにウヰスキーを嗜むとかいう、西洋版猫又でもない。
海外版化け猫は「ケット・シー」というのがいるが、これは直訳すると「猫妖精」だったと覚えている。
その猫妖精も別にウヰスキーを嗜むのかというと、多分違う。
さて、そのウヰスキー・キャット(これで検索しないで正直に「ウイスキー」でやろう!)というのは何かというと、約めていえば猫の門番である。
そうか、猫が酒蔵の前で陣取っているんだな、というと、どう想像しても力不足である。犬では餌に負けるかもしれない。狼では近づけないか、仕事すらしないかもしれない。猫でもしなさそうである。
では何か。
ウヰスキーにはいくつか種類があるが、大体原料と産地で分かれる。
スコットランド発祥で「スコッチ・ウヰスキー」。
アイルランドだから「アイリッシュ・ウヰスキー」。
カナディアンだとかバーボン(バーボンの、という言い方がないようだが)と、色々ある。
ちなみに、Wikipediaによると、英語での表記は二種類あり、whiskyは「スコッチ」を、whiskeyは「アイリッシュ」を指すとの事。
原料は、大麦だけの「モルト」と、他の穀物を使った「グレーン」がある。たしか、グレーンは「穀物」という意味だったと思う。
大抵、スコッチはモルトだけ、バーボンは両方混ぜて作る、といった具合である。これで個性が分かれるのだが、飲まない人にはまったく関係が無いので割愛する。
さて、妖精ではない猫はどこにいるのかというと、麦の倉庫にいる。
何せ、ネズミにとっては宝の山である。人間で言えば「札の山に埋もれる」気分といえよう。わしは化学物質過敏症になりそうだから、お断りする。
余談だが、この化学物質過敏症、海外では化学物質傷害と呼ぶことが広まってきているそうな。そもそもいらないもの(なにやら意図を持った御仁を除き)をばら撒いた結果である。
人が歩いているのに横断歩道に車を突っ込ませるのと同じだというわけである。よし、車を無くそう!
話を戻して、ネズミを捕まえるのが仕事、というより、利害関係の一致という奴である。待っていれば餌が来る。レクリエーションという奴になる。猫と人間にとって、実にありがたいことである。
ネズミにとっては命がけの大仕事となる。寧ろ罠に掛かっているというべきであろう。
人間のようにネズミが「バカ」だったら、倉庫に猫が一匹だけいるのを見て、「待て、これは孔明の罠だ」と言って退却するところだが、ネズミには関係ない。
かくして、馬謖ならぬ鼠謖は何人、いや何匹も軍律に従いて罰せられ、罰しては丞相、落涙する日々を送るのである・・・。これを「泣鼠猫を噛む」とはいわない。なにやら混ざりすぎである。
さて、猫がネズミを捕まえて食べるのはいいとしようか。仕方ない。我々には止める意味がない。止めたら猫権侵害だ!訴訟も辞さない!!
さて、ここからが問題である。そもそも穀物で作っているということが問題だ!というのもあるが、とりあえず。
ウヰスキーを作るとき、大麦を粥のようにして、発芽させたりと、色々行う。簡単に言えば麦粥を醗酵させたものを蒸留し、樽に詰めて色が付いたら完成である。色が付いたらじゃないが。
ご存知(そうでない方もいるだろうが)の通り、ウヰスキーは透き通った琥珀色の液体である。麦茶のようでもある。そもそも麦だった。
日本に「どぶろく」なる酒がある。
あれは、日本酒の造り方と大して変わらないのだが、やらないことがある。それは、「濾過しない」ということである。
そう。あの澄んだ水のような日本酒は、濾されている!
その濾されたものが酒粕になったりするわけである。粕汁になったり粕漬けになる。美味い粕で美味い肴が出来上がる。一石二鳥である。
ウヰスキーのほうも、日本酒で言うところの酒粕のようなものが出る。
これはどうなるのかというと、酒粕にはならない。脱水して固めて砕いてパンに混ぜればいい気がしないでもないが、どうだろう。
これは、家畜の餌になるという。この話を紹介していたところは「無駄になってない」という風に書いていたと覚えている。
欧米諸国の家畜というと、主に牛というところか。豚もいるだろう。後は羊がいる。鳥は元から穀物を食うから除外しよう。
何が除外かというと、四足の草食動物というのは、文字通り「草」を食べるから草食動物である。山羊は紙を食うぞ!というのは冗談であるのは周知の通り。パルプに草木の匂いがあるからつい食べるだけである。
豚は何を食べるのかはそういえばよく判らないが、元が猪なら薯を掘って食うのであろう。好物はトリュフかもしれないが、間違って食うと食われるので、訓練された豚はトリュフを食べることが出来ない。
トリュフの話は措くとして、家畜とは人間の都合に合わせて、本来食べることのなかったものを代々食べてきた存在なのである。
穀物を育てるのには広大な土地がいる。水がいる。人が口に出来るようにしようとしたら、手間がかかる。
モンサントは農薬も売りたいのと他にもきっと何かしたいので、遺伝子組み換えの種を売る。植物すらも家畜化してしまった。
と、ここまで書いたら、何か気付いた方もおられよう。
「家畜とは~の都合に合わせて~である」、の波線部分に好きな言葉を当てはめてみよう。
さて、穀物を人が食べるもの、もしくは食べてもいいものとして話を一度進めるとしよう。
世界の食糧危機というものがある。
このままでは全人口をまかなうことが出来ない。こりゃ大変だ、と、こちらも人の事はいえないが、腹いっぱい食える人が騒いでいる。腹が減っている人もいっているに違いないが。
牛に食わせる穀物を、足りていないところに回すだけで実際は回避できると言う。でもやらない。牛が食べたいから!ではなく、牛を食べたいからである。どっちでも意味が同じになった。
実際、牛が喜んで食べる餌は穀物飼料だったりするが、とりあえず。
かといって、牛を食わない、もしくは余り食わないようにして、全世界にパンやらコーン・フレークをばら撒くのがいいのかというと、これもまた違う。よし、蕎麦を撒こう!
世界の穀物の流通を牛耳っているのが、アメリカにある、巻尺ではない「メジャー」と呼ばれる大企業達である。
穀物価格が高騰!とかなんとかやっているのは、そういう奴らが投機をしているからである。なんでもそうだが、あるところにはある。
肉大好きな人達がやっているのなら、牛にばら撒く方に優先するだろう。それだけではなかろうが、儲かるようにやるわけである。
ただ、儲かるからというだけではなく、食糧事情をコントロールすることによって戦争を仕掛ける以上に外国をコントロールできる。
仕掛けられているほうは、戦争だとかテロのようにわかり易くない、隠微な支配を受けることになる。支配と思われない支配が完成するわけである。
美辞麗句でいえば、「相互依存」とでもいうのだったか。そういうものは、お互いの足りないものを補い合う立場で言うべきである。そもそも足りないように仕向けられたと言うべきか。
かつてライヒが『性の革命』で、「大企業の社長や政治家や独裁者は、それぞれ親戚や友人ばかりである」と述べたが、「メジャー」とやらも同じである。今は昔ではない。
石油についても同じである。こちらも「メジャー」と言ったりするが、「セブン・シスターズ」と呼ばれる七つの企業があるとか。今もあるのかは知らない。
大体、アメリカのそういうやつらはロックフェラーの子飼いだったりする。これからは石に躓いたらロックフェラーのせいにしよう。
ポストが赤いのはロスチャイルドのせいにする。
冗談はさて置き、仮に、全世界が肉食を減らして穀物を「分け合う」ようになったとするならば何が起こり得るか。なんとなく想像できるだろう。
難しい話ではない。今度は、直接口に入れる量を調節するだけの話である。入れるまでに多大な苦労をさせたりするわけだ。
すんなり入るようになったとしたら今度は・・・。遺伝子組み換えと大量の農薬が待っている。自分のところで作ろうと思えば高い石油を買わされることになる。
支配のための準備は至るところで着々と進んでいることであろう。
一見、競争しているように見せかけながら。
人間の心理というものは、「支配を受け続けたものは、支配できそうだと看做したものを支配しようとする」という。
心理学者のアリス・ミラーがそういう論を述べていた。その観点から、「全ての教育(善意も悪意も関係なく)は虐待である」とすら。親の子に対する躾、教師の生徒に対する教育、社会の個人への抑圧(政治や伝統、しきたり等)。これは一世代に限った話ではなく、遡り続ける。それは最早ありとあらゆるものと言えるが、その話をしようというわけではない。
穀物で支配しているつもりで、実際は穀物に支配されているということである。
穀物メジャーだけでなく、「伝統」というもの、それに基づく「教育」というもの全部である。
支配されてきたから支配しようとする。
ライヒは「己の感情を支配する」という風なことを述べていた。
オーガズムを得、神経症から立ち直った人は、他律的ではなくなる。
他律的な意味での道徳から離れてしまうが、決して道徳的でなくなったわけではないという。
「自らに由る」と書いて「自由」という。
自らに由らない存在が語る自由とは?
ネズミにとってのウヰスキー・キャットは敵のように見えるかもしれないが、実は警告者なのである。
「己の感情を支配せぬものは、他者に支配されるであろう」と。猫にとってはご馳走が舞い込んだだけには違いないが。
今日もどこかでウヰスキー・キャットは、入りこんだネズミを捕まえている。では、また。
これを猫又という。猫の恩返しは寡聞にして知らない。
ヨーロッパにはウヰスキー・キャットという猫がいる。種類ではない。
ついでに、猫なのにウヰスキーを嗜むとかいう、西洋版猫又でもない。
海外版化け猫は「ケット・シー」というのがいるが、これは直訳すると「猫妖精」だったと覚えている。
その猫妖精も別にウヰスキーを嗜むのかというと、多分違う。
さて、そのウヰスキー・キャット(これで検索しないで正直に「ウイスキー」でやろう!)というのは何かというと、約めていえば猫の門番である。
そうか、猫が酒蔵の前で陣取っているんだな、というと、どう想像しても力不足である。犬では餌に負けるかもしれない。狼では近づけないか、仕事すらしないかもしれない。猫でもしなさそうである。
では何か。
ウヰスキーにはいくつか種類があるが、大体原料と産地で分かれる。
スコットランド発祥で「スコッチ・ウヰスキー」。
アイルランドだから「アイリッシュ・ウヰスキー」。
カナディアンだとかバーボン(バーボンの、という言い方がないようだが)と、色々ある。
ちなみに、Wikipediaによると、英語での表記は二種類あり、whiskyは「スコッチ」を、whiskeyは「アイリッシュ」を指すとの事。
原料は、大麦だけの「モルト」と、他の穀物を使った「グレーン」がある。たしか、グレーンは「穀物」という意味だったと思う。
大抵、スコッチはモルトだけ、バーボンは両方混ぜて作る、といった具合である。これで個性が分かれるのだが、飲まない人にはまったく関係が無いので割愛する。
さて、妖精ではない猫はどこにいるのかというと、麦の倉庫にいる。
何せ、ネズミにとっては宝の山である。人間で言えば「札の山に埋もれる」気分といえよう。わしは化学物質過敏症になりそうだから、お断りする。
余談だが、この化学物質過敏症、海外では化学物質傷害と呼ぶことが広まってきているそうな。そもそもいらないもの(なにやら意図を持った御仁を除き)をばら撒いた結果である。
人が歩いているのに横断歩道に車を突っ込ませるのと同じだというわけである。よし、車を無くそう!
話を戻して、ネズミを捕まえるのが仕事、というより、利害関係の一致という奴である。待っていれば餌が来る。レクリエーションという奴になる。猫と人間にとって、実にありがたいことである。
ネズミにとっては命がけの大仕事となる。寧ろ罠に掛かっているというべきであろう。
人間のようにネズミが「バカ」だったら、倉庫に猫が一匹だけいるのを見て、「待て、これは孔明の罠だ」と言って退却するところだが、ネズミには関係ない。
かくして、馬謖ならぬ鼠謖は何人、いや何匹も軍律に従いて罰せられ、罰しては丞相、落涙する日々を送るのである・・・。これを「泣鼠猫を噛む」とはいわない。なにやら混ざりすぎである。
さて、猫がネズミを捕まえて食べるのはいいとしようか。仕方ない。我々には止める意味がない。止めたら猫権侵害だ!訴訟も辞さない!!
さて、ここからが問題である。そもそも穀物で作っているということが問題だ!というのもあるが、とりあえず。
ウヰスキーを作るとき、大麦を粥のようにして、発芽させたりと、色々行う。簡単に言えば麦粥を醗酵させたものを蒸留し、樽に詰めて色が付いたら完成である。色が付いたらじゃないが。
ご存知(そうでない方もいるだろうが)の通り、ウヰスキーは透き通った琥珀色の液体である。麦茶のようでもある。そもそも麦だった。
日本に「どぶろく」なる酒がある。
あれは、日本酒の造り方と大して変わらないのだが、やらないことがある。それは、「濾過しない」ということである。
そう。あの澄んだ水のような日本酒は、濾されている!
その濾されたものが酒粕になったりするわけである。粕汁になったり粕漬けになる。美味い粕で美味い肴が出来上がる。一石二鳥である。
ウヰスキーのほうも、日本酒で言うところの酒粕のようなものが出る。
これはどうなるのかというと、酒粕にはならない。脱水して固めて砕いてパンに混ぜればいい気がしないでもないが、どうだろう。
これは、家畜の餌になるという。この話を紹介していたところは「無駄になってない」という風に書いていたと覚えている。
欧米諸国の家畜というと、主に牛というところか。豚もいるだろう。後は羊がいる。鳥は元から穀物を食うから除外しよう。
何が除外かというと、四足の草食動物というのは、文字通り「草」を食べるから草食動物である。山羊は紙を食うぞ!というのは冗談であるのは周知の通り。パルプに草木の匂いがあるからつい食べるだけである。
豚は何を食べるのかはそういえばよく判らないが、元が猪なら薯を掘って食うのであろう。好物はトリュフかもしれないが、間違って食うと食われるので、訓練された豚はトリュフを食べることが出来ない。
トリュフの話は措くとして、家畜とは人間の都合に合わせて、本来食べることのなかったものを代々食べてきた存在なのである。
穀物を育てるのには広大な土地がいる。水がいる。人が口に出来るようにしようとしたら、手間がかかる。
モンサントは農薬も売りたいのと他にもきっと何かしたいので、遺伝子組み換えの種を売る。植物すらも家畜化してしまった。
と、ここまで書いたら、何か気付いた方もおられよう。
「家畜とは~の都合に合わせて~である」、の波線部分に好きな言葉を当てはめてみよう。
さて、穀物を人が食べるもの、もしくは食べてもいいものとして話を一度進めるとしよう。
世界の食糧危機というものがある。
このままでは全人口をまかなうことが出来ない。こりゃ大変だ、と、こちらも人の事はいえないが、腹いっぱい食える人が騒いでいる。腹が減っている人もいっているに違いないが。
牛に食わせる穀物を、足りていないところに回すだけで実際は回避できると言う。でもやらない。牛が食べたいから!ではなく、牛を食べたいからである。どっちでも意味が同じになった。
実際、牛が喜んで食べる餌は穀物飼料だったりするが、とりあえず。
かといって、牛を食わない、もしくは余り食わないようにして、全世界にパンやらコーン・フレークをばら撒くのがいいのかというと、これもまた違う。よし、蕎麦を撒こう!
世界の穀物の流通を牛耳っているのが、アメリカにある、巻尺ではない「メジャー」と呼ばれる大企業達である。
穀物価格が高騰!とかなんとかやっているのは、そういう奴らが投機をしているからである。なんでもそうだが、あるところにはある。
肉大好きな人達がやっているのなら、牛にばら撒く方に優先するだろう。それだけではなかろうが、儲かるようにやるわけである。
ただ、儲かるからというだけではなく、食糧事情をコントロールすることによって戦争を仕掛ける以上に外国をコントロールできる。
仕掛けられているほうは、戦争だとかテロのようにわかり易くない、隠微な支配を受けることになる。支配と思われない支配が完成するわけである。
美辞麗句でいえば、「相互依存」とでもいうのだったか。そういうものは、お互いの足りないものを補い合う立場で言うべきである。そもそも足りないように仕向けられたと言うべきか。
かつてライヒが『性の革命』で、「大企業の社長や政治家や独裁者は、それぞれ親戚や友人ばかりである」と述べたが、「メジャー」とやらも同じである。今は昔ではない。
石油についても同じである。こちらも「メジャー」と言ったりするが、「セブン・シスターズ」と呼ばれる七つの企業があるとか。今もあるのかは知らない。
大体、アメリカのそういうやつらはロックフェラーの子飼いだったりする。これからは石に躓いたらロックフェラーのせいにしよう。
ポストが赤いのはロスチャイルドのせいにする。
冗談はさて置き、仮に、全世界が肉食を減らして穀物を「分け合う」ようになったとするならば何が起こり得るか。なんとなく想像できるだろう。
難しい話ではない。今度は、直接口に入れる量を調節するだけの話である。入れるまでに多大な苦労をさせたりするわけだ。
すんなり入るようになったとしたら今度は・・・。遺伝子組み換えと大量の農薬が待っている。自分のところで作ろうと思えば高い石油を買わされることになる。
支配のための準備は至るところで着々と進んでいることであろう。
一見、競争しているように見せかけながら。
人間の心理というものは、「支配を受け続けたものは、支配できそうだと看做したものを支配しようとする」という。
心理学者のアリス・ミラーがそういう論を述べていた。その観点から、「全ての教育(善意も悪意も関係なく)は虐待である」とすら。親の子に対する躾、教師の生徒に対する教育、社会の個人への抑圧(政治や伝統、しきたり等)。これは一世代に限った話ではなく、遡り続ける。それは最早ありとあらゆるものと言えるが、その話をしようというわけではない。
穀物で支配しているつもりで、実際は穀物に支配されているということである。
穀物メジャーだけでなく、「伝統」というもの、それに基づく「教育」というもの全部である。
支配されてきたから支配しようとする。
ライヒは「己の感情を支配する」という風なことを述べていた。
オーガズムを得、神経症から立ち直った人は、他律的ではなくなる。
他律的な意味での道徳から離れてしまうが、決して道徳的でなくなったわけではないという。
「自らに由る」と書いて「自由」という。
自らに由らない存在が語る自由とは?
ネズミにとってのウヰスキー・キャットは敵のように見えるかもしれないが、実は警告者なのである。
「己の感情を支配せぬものは、他者に支配されるであろう」と。猫にとってはご馳走が舞い込んだだけには違いないが。
今日もどこかでウヰスキー・キャットは、入りこんだネズミを捕まえている。では、また。