ウヰスキーのある風景

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されど疎外する

2013-03-03 | 雑記
ラジオかと思ったら申し訳ない。何やら書いてみようかと思っただけである。もっと為になる話は他のところへ。


さて、先月のことであった。


労働現場の某ホテルへ、ある客からメールが届いた。

ネットからの予約で、宿泊後に定型文で「どうでしたか?」と伺ったものへの返信であった。



要するに苦情である。で、どうやらこちらの態度が悪かったようで、メールを返してきた客の母御殿がご立腹だかご機嫌斜めだとか。



「突き放された感じだった」とかなんとか。年に数回、定期的に病院通いのために利用しているという。病院なんぞいかなくなれば、嫌な思いをしないで済むものを・・・その先の心がけ次第では健康になろうものを・・・いや、違う。



なんとなく身に覚えがあるので、こういうやり取りだったのではないかと。上にも伝えた話を掻い摘んで。



チェックインの際に、こう訊ねてきた。「前と値段が違う」と。


ネット予約だったので「いつも通り」、曜日によって設定が違うので、と言った。それだけである。


それだけであるが、色々とこれまた邪魔臭い話がある。


その客はいつも決まった曜日に泊まっていたようで、値段もほぼ同じ。その日だけ比較的高くなっていた。とはいうものの、通常価格よりはかなり安くなっている。客にとってはどうでもいいことだろうが。


問題は、その月である。二月である。

二月は、これまた受験とかいう、かつてこちらも経験したことのある、奴隷間闘争の時期である。

というわけで、商売の論理である。値段を少々高くする。繁忙期はどこも値段が高くなるであろう。同じことである。

それを、客が知らんのは仕方ないとして、こちらもこちらで、忙しいのが当たり前だとよく判らなくなったのか、「いつも通り」答えたと。


値段はわしが決めたわけではない。一人でやっているなら、自由裁量で「では五百円負けましょう」とやるだろうが、個人商店ではない。

ホテルもわしのものではない。公的な所有者とやらは、社長やら本社やらその上だろうが、言ってしまえば誰のものでもない。あんな産業廃棄物、邪魔なだけである。

そして、フロントで収受される金は、わしのものでもまた、その客のものですらない。どこまで行ってもお互いのあずかり知らぬところで漂いつつ、我々を縛る。



マルクスにこういう言葉がある。「疎外された労働」などで調べるとすぐ出てくるだろう。曰く


労働者は、労働の外部ではじめて自己の
もとにあると感じ、そして労働のなかでは
自己の外にあると感ずる。
    (マルクス『経済学・哲学草稿』城塚登・田中吉六訳)



果たして、あの客は「労働の外部」にあったであろうか?今これを書く己も同じであろうか?否。


有機的身体と非有機的身体に分かれ、自然に抗う「自然疎外」が起こることで生命が始まったように、近代的・私的所有制度が普及し、資本主義市場経済が形成されるにつれ、資本・土地・労働力などに転化する。それに対応し本源的共同体も分離し、人間は資本家・地主・賃金労働者などに転化する。同時に人間の主体的活動であり、社会生活の普遍的基礎をなす労働過程とその生産物は、利潤追求の手段となり、人間が労働力という商品となって資本のもとに従属し、ものを作る主人であることが失われていく。また機械制大工業の発達は、労働をますます単純労働の繰り返しに変え、機械に支配されることによって機械を操縦する主人であることが失われ、疎外感を増大させる。こうしたなかで、賃金労働者は自分自身を疎外(支配)するもの(資本)を再生産する。資本はますます労働者、人間にとって外的・敵対的なもの、「人間疎外」となっていく。Wikipedia-「疎外」の項より


何を書いているのか訳が判らないが、つまり。


金を使うのも金を稼ぐのも、どちらもどこまでいっても労働である。

労働とはつまり、疎外することである。分裂である。



ホテルのフロントに立っている事に何の意味があろうか。客はその「疎外された労働者」に対して己もまた「疎外された」存在であると訴える。






ニーチェは「人間は超克されるべき存在である」と述べていた。文脈によって多少意味合いが変わろうが、少なくとも、「人間」というものは留まり続けるべき一定の基準などではないということである。



だが、人間は「疎外」されている。



超克すべく、まずは疎外された「人間」を取り戻すところからである。日々疎外し、疎外されながら・・・。




と、久しぶりにニーチェを帰りの電車で少々読んでいたらこうなった。否、があるくらいで、影響も何もない気がするが。



最初から妙な話だが、妙な話をもう少しして終わろうと思う。


マルクスとやらも、ロスチャイルドの支援やら薫陶を受けていたという話があるという。

ムーン・マトリックスに出ていた話だったか。違ったら申し訳ない。


そういえば、共産党の旗は赤い。ポストも赤いし、味の素も(現役で今も)赤いが、ロスチャイルドはドイツ語で、ロート・シルトと読む。

赤い楯だとか印になる。


もう一つ。


マルクスの系譜にあたる社会学者(嫁がマルクスの娘だったか)が、こう批判していたそうだ。

原文を読んだわけではないが、砕けた文章で紹介していたものを。

曰く、マルクスは「労働の権利」というものを語っていたが、これじゃあ「もっと働け」と言っているだけだ。
そうじゃなくて「休みの権利」といわなくちゃ、という風に。



労働で「人間疎外」といいながら「労働の権利」とのたまう。専門に読んだ人がいうなら、これこれこうで違うのだ、というだろうが、聞こえたまんま聞こえない人も多い昨今、ダブルスタンダードにしか見えない。
マルクスがどう書いたのかは詳しくは判らないが、そう捉え得る。



労働は疎外し、そして阻害するものである。とはいいつつも現代は労働の世界。お互いを阻害するとはいえ、やらざるを得ないと思われている(だけではあろうが)ものというのは、つまり必要悪である。必要悪に満ち満ちた世界と。

労働の権利を!などと、必要悪とやらを振りかざすのは偽善も甚だしいといえるだろう。


マルクスが赤いところからの薫陶でそういうことを書いていたというのなら、これもまた必要悪だったのかもしれない。


誰も彼も疎外されているのである。では、また。