ウヰスキーのある風景

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呪縛

2012-04-17 | 雑記
どうも。人間のクズです。

と、先日どこぞの酔っ払いに絡まれて言われたのである。


普通なら、そして前の自分ならとても傷ついた言葉であったろうが、今では褒め言葉でしかない。



その日も普段どおり、あの格好で、新しく仕入れたという泡盛を飲んでいた。


すると、後のテーブル席の先客グループの一人のおっさんが近寄って、なんでそんな格好なのかと問いかけてきた。


「和」の兄さんはその人がトイレに行った瞬間、「大丈夫ですか?」と心配そうに尋ねてきたのだが、その時は「いつもどおりですよ」と答えた。その時はまったくいつもどおりだった。



さて、もどってきたおっさんは自分の隣に席を占めた。


なにやら「どうしてこれこれの人はこういうことをやりたがるのか」などと曰まう。細かいことが聞き取れなかったので、その場しのぎの相槌と皮肉交じりの返答をしていた。


妙に神妙な顔つきになったかと思ったらこう切り出し始める。

「自分はどんだけ酔っ払って帰っても毎日般若心経を唱えているのだ」等等。


般若心経を五年ほどやってきたけど、なんか意味あるのかねぇ、などとなにやら引き込みたがっているようなことを言うので、ちと考える振りをしてこう答えた。

「意味なんてないんじゃないですか」と。

「意味を求めたくなるから苦しくなるんだよ」などと言うので、もう一つおまけに言っておいた。「意味がないという意味があるんですよ」などと。


もっと言ってしまえば、お経なんぞアホみたいに唱えたところで思考能力も感性も奪われると言ってやりたいところだったが、素面相手でも通じない内容なのでここは伏せた。



北のミサイルについてどう思う?と聞いてくる。「年中行事でしょう」と答えた。


順番はどっちか忘れたが、原発についてはと言う。そんなの簡単だ、電気をなるべく使わない生活をすればよい。と答えれば、何故みんなそんな風にしないのだろうかというので、そういう人は表に出られないし、利権が絡んでるからね、と応酬。


いつもこれをやると決めていることは?などと尋ねてくる。

私はこれをやると決めていることはないと答える。

この辺りでおっさんはわしのことを「何も考えていないクズ」と思い始めたのだろうか。

般若心経をやろうとは思わないのかね、という風に聞いてくる。

やろうとは思わないと答えると、何故だと問う。


そりゃ興味がないからだと。あなたは興味がないのに着物を毎日着たいですか?と。おっさんははっきり答えなかったが、般若心経と着物ごときを一緒にされたのが癪に障ったのであろうな。


たしかその後だったろうか。大事なものが死ぬとき、お前はどうするのだ、足掻かないのかと。

何も出来ないのに足掻いたところで意味がないと答える。おっさんさらにヒートアップ。


親や兄弟が死んだらどう思うのだという。「想像でしかないだろうし、その時にならんとわかりませんね」とやった。

いやそうじゃなくて、どう思うのだとしつこく聞いてくる。このセリフを聞けば「人間のクズ」は普通の人なら思うところであろう。

「葬式めんどくさいね」と答えた。


おっさんぶちぎれて「いっちゃわるいが、人間のクズだよ」という。

「ええ、人間のクズでかまいませんよ」と吐き捨ててやると、なんかしらんが立ち上がり、「そんな格好するんじゃねぇ」だとか「キセルやってえらっそうに」などと言いながら戻っていった。

そして、席についても上の話を何度もほざいている。「それで日本人か!」などと。


立ち上がるまでの間に、お仲間のおっさんが突っかかってきた。「あんた冷たいね」などと。勝手に暖かいなどと思うほうがどうかしてるので「たまに言われます」と答えておいた。

リーダー格の人というべきか、別の一人は何度か済まなそうに機嫌を尋ねて来た。


「和」兄さんが助け舟を出してくれて、座敷に避難することになったが、後でわめいているだけで話をしてもいないのに「お前逃げる気か!」などと叫ぶ。

代行の人も到着したので、引きずられるように帰って行った。


と、思ったら、カウンターに戻ってすぐぐらいに引き返してきた。なんか知らんが謝りに戻ってきたそうだ。機転を利かせて兄さんは外で対応して、お引取り願ったそうな。



私はとても悲しい。人間のクズと言われたことが、ではなく。


「大事なもの」が失われる、というのは悲しいことだ、というのは、我々自身を何かの枠組みに閉じ込めておくための詭弁でしかないのである。


彼自身もつまらない何かの枠組みにとらわれ続けた奴隷でしかなかった。言葉の端々、というか態度自体が私を奴隷にしようとする下らない思惑だったことがありありと見て取れた。



奴隷にされ続けた人間は、目下のものを見ると奴隷にしようとする。ちと抽象的な言葉なのでわかりやすい例をいうならば、いつぞやの相撲部屋の話を思い浮かべていただこうか。


「可愛がり」と称して暴行加えて新弟子が死んだ話があっただろう。ああいうのはその時偶発的に起こったものではないのである。

「可愛がり」とやらはずっと前から続いていた。新弟子はそれに耐え続け、そして翌年の新弟子が入門する。

するとどうだろう。喜び勇んで暴行し始めるのだそうな。「可愛がり」と称して。


こういう構造は別に相撲部屋だけでもなく、個人対個人でも、家庭でも、学校や職場でも日常茶飯事に起こりうる状態である。


人はその「可愛がり」を受け続けるだけでは生きる気力とでもいうべきものが枯渇してしまう。そこで、目下のものを見ると「可愛がり」をするのである。自身の生きるエネルギーを補給するために。

「可愛がり」をしてきた相手に反抗、もしくはそこから脱却できれば一番よいのだが、抜けられない状況が多く、そしてその状況にさらされ続けると、上記の状態に陥るのである。


それは、「躾」や「教育」と名をかえて、生まれたときから曝され得るのである。その心は、他人を操作したいという欲求であるそうな。


「子供のためだから」、などと正当化する。相撲部屋の「可愛がり」も、本人たちは「新弟子のため」と正当化するのだそうな。


これをこれ、「魂の呪縛」とでも言おうか。ハラスメントの連鎖構造といったほうがより正確だろうな。


それは、自分のすぐ上の親だけのせいではなく、そのまた親のまたさらに親の、という場合もあるし、社会がそれを助長、もしくは惹起する。


「子供のため」というのを愛情と本人たちも偽っている。偽っていることすら気づかないのがこの構造の陰湿なところである。


そして、我が父我が母もまったく同じであった。その影響を強く受けたであろう我が兄も同様である。


その「魂の呪縛」からまったく不自由な状態である肉親に愛情を感じることなど私には出来ないのである。彼らからは偽の愛情しか受け取れなかったのだから。

「魂の呪縛」の状況が人間であるというのなら、私への「人間のクズ」という言葉はまさしく僥倖である。


大事だと思えるから家族になるのであって、「家族という既成事実」があるから家族にならねばならぬ、というのは正に「魂の呪縛」である。


そして、我々を取り囲む常識だとか慣習だとか伝統だとか地域社会だとか宗教、国家、もっと大きく言えばこの世界という状況。これは惑星規模の呪縛だといえよう。



私はとても悲しく思う。彼の不自由さとそれに振り回されている姿を見て。そして、その不自由さを所与の物として押し付けてきたこの世界に、強い怒りを抱くのである。



私は誰も操りたいとは考えたくない。それは取りも直さず、自分を操られることになるのだから。では、また。