ウヰスキーのある風景

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教条

2010-06-01 | 雑記
以前、後輩に当たる人物から「論理的なので数学が得意な人間だと思っていた」といわれたことがある。

そういう彼は現在、東大の大学院で物理学の研究をやっている。
数学の話はしていないのだが、向こうが与り知らぬことばかりまくし立てていたので
きっとそういう誤解を生んだのだろう。


論理的、論理とはすなわち理性の働きによる合理的な論の展開。

理性とはすなわち、明晰な意識による明快な認識というわけだ。なんのこっちゃ。

要するに、1+1=2、というのが論理であり理性だというわけだ。
非ユークリッド幾何学では、1+1=2ではない、という話は忘れてもらいたい。

というわけでこの辺りから怪しくなる。「またあの手の話か」と思った人はここで退くのもよい。


余談はさておき、前回の更新の冒頭を思い出していただきたい。
チェスタトンの箴言、だと記憶しているがこういう内容である。
「狂気とは、理性を失った状態ではない。理性以外全てを失った状態である。」

チェスタトンの物言いは非常に興味深いものがあり、この言葉があったのかどうかチェスタトンで検索すると
名言集も散見される。理性だとか合理だとか論理、というものは欧米の文明の粋のようなものだが
人間の非合理的なものを否定しない箴言は、イギリスの風土が伝統と歴史を重んじていたのだなと感じる。
と、そんな話は置いておく。そもそも別人の言葉かもしれんので。
上の評も思いつきなので興味がある人は本屋でお探しいただこう。

話を戻す。戻すといいながら卑近な上に通じにくいが、上記の箴言がぴったりはまる例がある。

もうずっと昔の話で、本当はその漫画を連載当時に読んでいたわけじゃないのだが、
廃刊した「コミック・ボンボン」という雑誌に掲載されていた漫画に「プラモ狂四郎」というのがあった。

最後の戦いで黒幕の野望を聞き、狂四郎は敵に向かって「お前の頭は狂っている」と言う。
敵は「1+1=2 私のどこが狂っている?」と答える。
ちょっと最終巻が見当たらなくてきっちり引用できてはないが、大意は以上である。

ちなみにその黒幕は人間ではなく、知能を持ったコンピューターなのだが、
これが人間だと問題ありと考えたのか、それとも科学万能の社会に疑義を問うた意欲作なのかもしれない、
などと、その黒幕に負けるとも劣らない妄想を抱いてみたが30年近く前はそういうテーマは多かったろう。

理性といい合理であるというのは、非合理的、つまりは感情などの明確に認識できないものを否定する。

1+1=2に感情を差し挟む余地はない。当たり前じゃないか、と思うだろう。だが少し考えてもらいたい。

ここに犬が2匹いる。犬が1+1=2匹なわけだ。
しかし、ドーベルマンとミニチュアダックスフンドを並べて同じ犬です、と考えは出来るが感じるだろうか。
他人の犬ならまあ、なんとも思わないし犬には違いないのでよしとしよう。

しかし、自分の犬と隣の別の犬を同じだ、と上記の断り無しに言われれば不機嫌にならないだろうか?

そんなびょーきのようなことを考えるほうがどうかしている、と思われるが、我々はいつも
以上のような合理性で持って物事を切り取って生活をしていることには違いない。


ここから「その手の話」になる。お前が家族嫌いなのはわかった!という人は閉じること。


父親自身からかそれとも某宗教団体から言われ続けていたことなのか忘れたが、
「人をイデオロギーや立場で判断するな」と教えられた、もしくはそういう振る舞いを聞いてきた。

以前の「その手の話」を読んだ人ははっきりわかる限りで数人確認できたのだが、
その時も書いた。この考え自体が実は「イデオロギー」というものではないか、と。

イデオロギー。カタカナで示される通り、外来語である。

定義は実際は曖昧で、時代とともに変遷している、とも言われる。

敢えて上記からの立場を取って、といっても独自解釈ではない(受け売り)のだが定義すると
理性に則って合理的に構築された論理による人工的な思想や概念、といえる。

時代とともに変遷している、という部分はおそらく、こういうことではないかといえる。
拙劣な論理は卓越した論理によって人工的に塗り替えられるわけだ。
そこにあるのは合理的に正しいか正しくないか、この一点のみである。

では、「人を~判断するな」はどうなるのか。一見、善意にあふれた公平な視点に見える。

そもそも、特定の思想や立場をかなぐり捨てた人、などという考えが蹉跌である。
地下鉄サリン事件で毒ガスを撒いたオウム信者や幹部ですらも、話し合ってみたらいい人かもしれない、
などと曰うのがこの立場である。
立場や思想をかなぐり捨てればおそらくどのような人も「いい人」だろう。
そういうイデオロギーが根底にあるため、彼らは感情による善意だと信じているが、実は理性の産物である。
ちなみに、父相手ではないが、こういう話の際に、オウムのごときやつらと一緒に暮らせるか?
と、例に出して問いかけたところ、上記のように返答されたのである。絶句するしかなかった。

では、「いい人」とはどこから出てきた思想なのだろうか?

古代支那では、孔子の弟子筋に当たる、孟子と荀子というのがいて、
前者は性善説、後者は性悪説をそれぞれ打ち出し、喧々諤々やってたかは知らないが
両者とも始まりが違うくらいで、ほとんど同じ結論に収斂されていくのだ、とか中文の教授が言っていた。

だがこれではない。

こういう、どの立場でもない「人間」を想定し、それこそが最も尊い、という風な思想を表明したのは
フランス革命の時代だといえる。そう、といわれて何がそうかしらんが、人権というものである。

フランス革命の直前には、啓蒙思想というものが流行していた。これが革命の原動力になったのだ。

啓蒙とは蒙を啓く、すなわち、無知という闇を理性でもって照らすことだったわけだ。

じゃあ、いいことじゃないか、と思うかもしれないが、その時代とそれ以前までの思想家の質が違う。

それ以前までの思想家というのは某かのしかるべき高級な地位にいるものが普通だった。
まあ、特権階級とでも申そうか。特権かどうかは知らぬ。

さて、我らのフランス革命はというと、現代と似たり寄ったりの状況がある。
売れない劇作家だったり、建築家だったりと、ある程度は教養があるといえるものの、
以前の思想家と比べるとやはり見劣りがする面々だった。そして不満だけはある。

その不満をぶつけてたら啓蒙思想として全土に広がり、やがてぶつけるための土台まで倒れてしまった。

と、いう乱暴な書き方だが、こういう見解も実際にあるらしい。

さて、国王を殺し、教会の権威をも全否定して彼らは「人権」という概念を確立する。
その萌芽は啓蒙思想の時代からあって、という話もあるのだが、考え方があった、というべきか。

教会を否定する、ということは当時全てを規定していたGODの概念を否定することになる。
しかし、人権を規定するには権威が必要だった。「人間は尊いのだ!」と鼻息を荒くしても意味がなかった。

さて、ロベスピエール達は考えた。神ではないが、人権を規定する存在を奉ろうと。

その名も「至高の存在」。人権はこの「至高の存在」が万人に与えたもの。何人たりとも奪えぬ!
そしてこれは(恐れ多くもこれ呼ばわりとは!)神ではない、とロベスピエール達は考えていた。

だが、不満分子たる革命指導者達に振り回された庶民たちは、「ああ、神ですよね?」という風だったそうな。

彼らはどこかの宮殿で、「至高の存在」を奉る祭典を催していた、と記録を調べると出てくる。
Wikipediaを見てみたら、一回だけで終わってしまったそうだが。

人権についてはこういう経緯がある。が、「いい人」についての話が宙に浮いている。
あれだけ書いて横道だったのだから書いている本人も混乱しているようだが、さらに続ける。

啓蒙思想の間では、人の無謬性、つまり、人間は尊いから間違わない、という思想が優勢になる。

人は間違えない(はず)、だから皆必ず正しい答えを選ぶ、だから多数決は間違いない、
という、およそ思想とは程遠い無邪気な、無邪気とも呼びたくないような考えに依拠している。

しかし、実際は人は同じ答えを選ぶはずがなく、多数決は多いほうを選ぶという苦渋の決断を迫られた。

しかし、少数とはいえ、「人間は正しい答えを選ぶように出来ている」はずで、我々は正しいはず、
と、「至高の存在」に規定された尊くも素晴らしい人間たちは考える。

かくて収拾がつかなくなり、ロベスピエールはギロチンによる政治を「正しい」立場によって断行。
ついにはその「正しさ」を身をもって証明することになり、ナポレオンは皇帝となった。

細かいことは忘れた。そもそも専門家でも専門的な勉強をしたわけでもない。
興味があるかたは 長谷川三千子『民主主義とはなんなのか』に詳しく載っているのでそちらをどうぞ。
5,6年前の本なので図書館でも行かないとないかもしれないが。


さて、本人もいつ「その手の話」になるのか首を傾げていたが、最後に手短に行くとしよう。

以前、帰省の際に実家で父とテレビを見ていた際に、父の見解がくだらな過ぎるので腹を立てた、と書いた。

腹を立てて怒鳴ったのはその時だけだったが、腹に据えかねるのは以前からで、ずっと上の
「人を~で判断するな」の部分に端的に当てはまる事柄だった。

これまたTVを見ていた。これから使う言葉使いに違和感を覚えられようがられまいが構わないが
TVには天皇陛下と皇后陛下が御写りになられていた。公務のシーンだったと思われる。
そして父はすかさず言い放つ。まるで哀れな小動物を見るような憐憫とも侮蔑とも取れるような表情。
「あいつらは金もってるから、庶民が悩むようなことを悩まん。だから人間の底があさいんよ。」と、いう。

皇室は税金でたらふく食ってると、思われがちだが、実際はそういうものではない。
敗戦後の財閥解体後、持っていた領地等は全て没収された。今も皇室に当てられる予算は少ない。
仮に、たらふく食っていようが上記の見解こそ底が浅いというべきだが、父は実に論理的だ。

「人」を立場で判断するな、というなら、上記の判断は出来るはずがないのである。
答えはひどく理性的でつまらない上に吐き気を催しそうになるのだが、こうだ。
【人の形と感情をお持ちであろう天皇陛下を人間と思っていなかった】ということだ。

あの見解を庶民的だと思っているのか知らないが、あれこそ狂的な理性だと感じた次第である。では、また。