ウヰスキーのある風景

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自然

2010-06-22 | 雑記
老子だったか荘子だったか、まとめて老荘、と呼ばれたりするのだが、「自然」という概念がある。

自然というのはあれか、木々が豊かに生い茂って、ではない。その自然とは何かを喩えた一文の概略を下に。

  大きな湖に魚が泳いでいる。自由に泳ぎまわっている。その時、他の魚がいるだとかどこに
  いるだとか考えることもない。仮に傍を泳いでいても気になることはない。
  反対に、小さな水溜りでうごめいている魚たちがいる。お互いに泥をはね掛け合っている。
  やれ、こちらのほうが大きいから小さいお前はどけだの、美しいから俺はえらいだのと。
  これが孔孟の徒で不自然なものである。

と言った具合の喩え話をする。

酔っ払いは酔っ払いらしく、酔っ払いの喩えも載せようか。

  ある人が馬車に乗って夜道を行く。途中、石を踏んだかで転げ落ちてしまう。
  彼は意識のある状態で飛び出したため、着地の際に無理な踏ん張りをしようとして怪我をする。
  反対に、酔っ払いが同じ状態になったとき、無傷で済んだ。
  泥酔で意識がなかったため、「自然」に反した無理な踏ん張りをしなかったからだ。

と、ここまで書いてふと思い出した一文がある。作者はニーチェ。「生に対する歴史の利害について」から。

  君のそばを草を喰らいながら通り過ぎる畜群を考察し給え。彼らは昨日がなんであり、
 今日が何であるかを知らず、跳び廻り、食い、眠り、消化し、再び跳び、かくして朝から
 晩まで、毎日毎日、彼らの快と不快に短く、すなわち瞬間の杭にしばりつけられて、それ
 ゆえに憂愁も倦厭も知らずに過ごす。これを見るのは人間には辛いことである。なぜなら
 人間は動物の前で、われこそは人間なりと胸を張ってみせているのに、動物の幸福に嫉妬 
 の眼を向けているからである―まことに、人間がただ一つ欲していることは、動物と等しく
 倦厭もなく苦痛も伴わずに生きることであるが、しかし徒にこれを欲すのみである、なぜ
 なら人間は動物のごとくこれを欲することができないからである。なぜ君は私に君の幸福 
 について語らず、ただ私をじっと視るだけなのか?と人間が動物に仮に問うたとする。動
 物は答えのつもりでこう言うだろう、それは、私は言おうと欲したことをいつでもすぐ忘
 れてしまうからだ、と―だがそのとき動物はこの答えをまたすぐ忘れて黙り込んでしまう。
 だからこそ人間は動物を不思議に思うのである。
  しかし人間は忘却を学びえず絶えず過ぎ去ったものに固執している自分自身についても 
 いぶかしく思う。彼がこんなに遠くまで、どんなに速く走っても、過去の鎖も一緒に走って
 来る。瞬間は忽ちにして来たり、忽ちにして去るのに、以前にも虚無、以後にも虚無であ
 るのに、なおも幻影として再び来たり、次の瞬間の安らいを妨げる、これは実に驚くべき
 ことである。……動物は直ちに忘れ、あらゆる瞬間が現実に死に、霧と夜のなかに沈み込
 み、永遠に消えうせるのを見る。動物はかくして非歴史的に生きる。
  ……一切の過去を忘却して瞬間の敷居に腰をおろすことの可能でない者、勝利の女神の
 ごとく目まいも恐れもなく一点に立つ能力のない者は幸福の何たるかを決して知らぬであ
 あろうし、なお悪いことには、他の人々を幸福ならしめることを何もなさないであろう。                              
                                             (強調はニーチェ)      
強調は本来では傍点だったが、代替である。気にしないように。 

つまりは、水溜りで泥をはね掛けあい、動物の前でわれこそは人間なりと胸を張る、むなしい存在に
なりさがっていたのだな、と自身を振り返ったが、そう思ったことをまたすぐ忘れることにする。では、また。