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グノーシスはアザラシに神を見いだすか

2021-03-26 | 雑記
よく見ている動物の動画を紹介しているツイートがある。

大体、ペットの動画が多く、犬や猫が大半だが、他の動物のも紹介されているときもあった。

先日、寝る前に「そういえば、アザラシの動画見たことないな」などと思いながら寝て起きた次の日に、そのツイートを見ると、アザラシの動画が上がっていたという。

引き寄せか!?などと喧伝する気はないが、なんだか面白いなと思ったものである。

とはいえ、振り返ってみると、引き寄せの法則やらを見て回った時に聞いた話に近い流れだったなとは思う。

寝ながらなんとなく考える
    ↓
そのうち考えた事も忘れて眠りに落ちる
    ↓
起きたらびっくり

と、こういう具合である。


引き寄せの法則とやらで言われるこの流れをもう少し踏み込んで書くと、望みを叶えようとする時は、確かに強く願い続けて叶える、という方法もあるようだが、一度願ったら願ったことを忘れてしまう、というのがある。

それは何故かというと、願うということは対象が欠乏しているからというわけで、分かり易い言い方をすれば、「お金が欲しい」と望むとき、それはお金が足りないが故となる。
「お金が足りない」からお金が欲しいと願うことになり、結果、お金がないという願いが叶い続けるのだと説明されている。とはいえ、寝転がってて金が入ってくるというわけではないが。

上述のアザラシの動画の話の流れに当てはめると、こうなる。

アザラシの動画が見たい
   ↓
今は見ている状態ではない
   ↓
見たいと思い続ける
   ↓
見ている状態ではない、が継続
   ↓
いつまで経っても見られない、もしくは時間がひどくかかる

という風になるそうだ。

別に他のところで探せばいいだろうが!とお𠮟りを受けるところだが、一言書き忘れた。
その見ていたツイートでアザラシの動画が上がっているのを見たことがなかったな、が正確なところである。


しかし、海外の然るスピリチュアルの教祖みたいな人が急に辞めてキリスト教に入信し、今までやってきて広めてきたことはいけないことだ!とか言い出したという話があり、公式ブログの膨大な量のうち十二ほど箇条書きに翻訳したのを読んだものだが、「引き寄せはするな!」というのがあった。

翻訳して解説を付けていた人が冒頭で断っていたが、キリスト教に入信したが故の立場からの発言なので、全部真に受ける必要はないとしていた。そのリンクを貼って紹介していた人が「翻訳した人は何か困ったように書いている」と感想を述べていたものである。

きっとアザラシは悪魔なのだな。悪魔は魅力的である。
ついでに、上記のスピリチュアルの教祖は、「ハリーポッターは見るな!」と書いていた。

伝統的にキリスト教は魔術を弾圧してきたもので、大雑把に言えばキリスト教は「神」が人間の上にあって、人間は下僕であるとするが、魔術などのオカルトの教義はその逆とも言えることを提唱する。

グノーシスと言って、異端という意味合いの名称というか分類があり、キリスト教の萌芽時代にも宗派によっては「人は神になれる」ということを提唱していて、主流派から異端扱いを受けて隠れていったり消えていったという流れがあるという。

上記の元スピリチュアルの教祖のキリスト教的見解から行くと、東洋思想はまさにグノーシスになってしまうだろうが、現代社会で主流のキリスト教の宗派内でそういう歴史は習うことはないだろうとは思う。

そのキリスト教が実は弾圧していた魔術の技術を取り入れているなどと言われたら、どういう反応をするだろうか。別にお伝えしようとは思わないが、そのスピリチュアルの教祖の行動には別の意味があろうという見解もある。

何かにつけ、独創的でかつ革新的だったりする主張や行動様式を提唱する人物は教祖的な存在として祭り上げられることが多い。
歴史的に偉大な人物で容易に思い浮かぶのは、釈迦かと思われるが、流れは同じである。

以前にも書いたが、悟った釈迦はもう黙っていよう、人には伝わらないからと考えたが、帝釈天に頼まれて(当人も聞きたいからと)伝導を始めたと『スッタ・ニパータ』にある。

話が逸れた。つまりは、人に道を説いて自力で歩んでもらおうというものだったのに、教えてくれた人についていけばいいのだな!と勘違いするというのが古来からの人の習性であるといえる。
ヒヨコの刷り込みと同じ状態になってしまう。意図せず起きるし、意図して起こせばカルトになる。

それなので件のスピ教祖は「子供たち」に自力で道を歩んでもらおうと、独り立ちしてもらおうと考えたが故の今までの経歴の全否定なのではなかろうかとのことである。当人がそう考えているかは分からない。

それを聞いて思い出した話があった。

整体の創始者、野口晴哉が何かで書いていた。例の如くうろ覚えで引用ではない。

整体を教えているのは、自身で自身の健康を保つための訓練であるのに、道場に通う人達は「ここで整体指導を受けてるから大丈夫」だなどと言っている。誰もそこから上に出てこようとはしない。
とぼやいていた。

これもどこかで読んだが、晩年の野口の記述に「整体で人を治す意味なんてあるのか?」という具合なこともあったようである。

スピでいう「その人の選択だから」とでもいえばいいだろうか。実は死ぬ定めの人を無理矢理延命していただけではないのか?と、そのような懐疑を抱いていたようである。

教祖には教祖の悩みがあるのだ、などと言ってしまうのは簡単である。

最初から人心掌握して栄華を誇るためなら悩むことはなかろう。別の悩みが出るかもしれないが。

野口の場合は、当初は治療家、後にのその技術を教えていき、晩年の方は児童教育を考えていた。

本当に人を健康にしていくには、子供のころからそういうことを考えられるようにしなければならないと考えたのだろう。

その志は一貫して、人を、世の中を健康にしたい、といった具合だったのかもしれない。

『整体入門』の活元運動の話の最後のところに、そのようなことを述べていたものである。


実はまた話が逸れていたので戻す。


さて。あなたが教祖でそのような局面に遭遇した場合、どうするか?
これを考えてみるのは実にいい機会である。
演劇の役作りの手法として昔聞いたものだが、その役柄になり切るのではなく、あなたがその役の立場だったらどう振舞うか?を考えるというものだそうな。
欧米でその手法が出る前までは、真にその役になり切るというもので、これが実に演劇をつまらなくしていたという。ただただ、生々しい話を架空であるはずの舞台で見せられるという退屈なものに成り下がっていたという。
この手法を提案したのは、ベルトルト・ブレヒトだったとも聞いたが、詳細は忘れた。


人は役者で人生は舞台だ、という考え方がある。

あなたは「あなた」の教祖だとして、「あなた」に対してどう振舞うか?こう考えてみるのも一興であろう。


では、よき終末を。