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センミンゼミの生理学

2014-08-22 | 雑記
夏である。

いや、これは先日やったな。



前回の記事は、ダジャレばかり書いていたら肝心の本題に入らなかった。これぞ、空記事の術。



さて、センミンゼミの生理学、と題打って、彼らの生態をご紹介いたそう・・・。



分類:セミ目 センミンゼミ科 アホノケン属

生息地域:人のいる所なら大抵

生息時期:年がら年中四季折々


センミンゼミは、一般によく知られている他の種のように、長らく至福、ではなく雌伏の時を過ごした後、地表に現れては喧しく鳴く、という点では同じである。

ただし、このセミは雌雄の区別なく、鳴く。区別するのを泣く泣く諦めそうになるが、そもそも区別しようとは思っていなかった。

鳴き声は、色々と鳴らしたてる。彼らは色々と奏でているつもりだが、「センミン」としか聞こえないので、鳴き声からセンミンゼミと名づけられた。

この種の発生には諸説あり、定かではない。

厳密に言えば二種類に分類されるという。同じ鳴き声なので、呼び習わす際、面倒になったようである。

彼らは、直接の子を持たない。持つといえば持つが、持ち方が独特である。生殖行為では増えないのである。

増え方はというと、色々な音を奏でているつもりだがセンミンとしか聞こえない独特の鳴き声で聞くものを教化し、センミンゼミに作り変えるという。妖怪のようではある。

夢は、地球を己らにとって都合の良い数だけのセンミンゼミだけにすることである。ああ、地球と言ったが嘘である。地表だけ。

センミンゼミの楽園・・・それは、年がら年中心落ち着くことのない、生存への闘争のような気がしないでもないが、セミのように逃走しているようにも見える。


余談だが、子供のころ、「セミヌード」なる言葉を聴き、「蝉のヌードってなんじゃい」と言っていたら、蝉じゃなくて、半分とかいうような意味だった。

わしの頭は蝉の腹のように空っぽなゆえ・・・。脳みそが空蝉の術を使っているらしいが、酒を飲んだらいつもそうだったので、気にできなかった。



とまあ、冗談は措く。



前回と今回の記事で、何を指しているかは理解できたかと思う。

センミンとは、「選民」のことである。これは、一読しただけで十分だろう。

先日のコメントで、「例のブログを見ていると、特別な感じをひけらかしているのが鼻につく」とあったり、タレコミの「まろん」さんも、「選民意識が閉鎖した過去のブログの時点で強くなってきていた」と言われていた。


特別な感じをひけらかすというのは、選民意識で相違ない。

ユダヤ教徒も派生のキリスト教徒もイスラムも根本は同じだが、神に選ばれたゆえに「選民」というそうである。

神に選ばれたことは素晴らしい!だから神のために生きる、というのが彼らの根本である。

それが変な感じになって今に至っているのは、誰も根本を見直さないで、教条的な道徳に仕立て上げた故、と思われる。


センミンゼミは、科学的にも覆しえないような神に選ばれた!そう。それが地球というわけである。


ほう、じゃあ彼らはすごいんだね!うん、まあすごいのかもしれないね。


では、何故「選民意識」というものが出来上がるのか。これについて述べる。



ユダヤ教の始まりは、モーセが神と契約し、十戒を賜ってからというわけである。

その契機はというと、エジプトで奴隷になっていて、そこから抜け出したから、である。出エジプト記という奴である。

平たく言えば、「俺たちはエジプトでは奴隷だが、神に選ばれたものなんだ!約束の地に帰るぞ!」ということである。


現在、ユダヤ教徒と呼ばれる人たちがそういう(捻じ曲がった意味での)コンプレックスの元で生きている、というわけではないが、ほんの些細なボタンの掛け違えが、個人を、はたまた社会や民族を動かしてしまうことは多い。
些細、とは書いたが、実地にいないものにとっては皆些細であるという程度の話だと、ご承知おき願う。
「些細」なボタンの掛け違えにまつわる話はかつてやったが、『ハラスメントは連鎖する』という書籍のことや、それの元ネタに近いアリス・ミラーの業績についてお調べいただければすぐにわかると存じる。


ユダヤといえば、インボーの話が出るだろう。フリーメーソンだとか、イルミナティだとか。いい例えなのでついでにやっておく。


イルミナティとかいう奴ら?も、実際はユダヤ教徒だったりする。偽者の、というわけだが。

アイクが言うには、ロスチャイルド・シオニストなどというのが動かしている、とかなんとか。

アシュケナージだとかなんとかいう、ユダヤ人もどきだが、彼らはかつて、キリスト教とイスラムのどっちに付くか迫られ、ユダヤ教を選んだものの末裔、といわれている。

モーセの末裔を自称しているイスラエルの支配者は全然関係なくて、近くに住んでるパレスチナ人のほうがモーセらの子孫だったりする。ひどい話もあったもんだ。


お分かりだろうか。選民を自称している存在は元は「」であるということが。



尊師は、母御殿からそれはそれは厳しく育て上げられたようである。わしがタレコミで聞いたのは「過干渉だった」とかなんとか。響きだけ聞くと、イシャのいう病名のようではある。

母親という呪縛からある程度「出エジプト」したと思ったら、オナゴにもてないという化。以後、ソープの奴隷と化し、雌伏の時を過ごす・・・。

そして時は至りて「出エジプト」なさり、森にてジッカイを頂き、センミンゼミとして君臨なされるようになった。ありがたやありがたや。



尊師の伴侶もまた、母御殿の影響の下、すくすくととして育て上げられたようである。この場合は、不干渉である。同じ響きの別の言葉を出すでないゾ!

かの者は移ろい、なんとなく結婚し、二児を儲け、作る気の無かった二人目は男だったせいか、溺愛なされた。雌伏の時である・・・。

そして時は流れ・・・。尊師と運命の出会いをする。

尊師の伴侶は、後々、こう述懐されていたそうである。

「娘と息子、まさしく違うものなり。尊師に見えることなくば、妾(ショウ。漢籍で女性の自称)は子離れが出来ぬ親になっていた。」

大きな息子のムスコを溺愛なさる。ありがたやありがたや。



さて、また冗談めかして書いてしまったが、締めよう。一瞬、諦めようにも見えた。



選民意識の裏側には、「意識」がある。喜びか苦しみかの両極端は、別のものに見えるようだが同じものである。

本能、「生存」本能の猛りに翻弄された結果を、一つのコインの裏表で見せているに過ぎない。



彼らはとても母親が恋しいのである。だから、地球という母親を仕立て上げた。

マザーコンプレックス。これは自律した成人が持っているのは間抜けな話である。

だからといって、消えるものではない。自分の間抜けさをそのまま認めればよいだけの話である。

ああ、こりゃ間抜けだなぁ、と思えば、勝手に間抜けな行動はなくなっていくものである。

それを払拭しようと躍起になればなるほど、「センミン」ゼミになってしまうのである。


以上が、センミンゼミの生理学である。