さて、ラヂヲでも喋ってその掲載時にも書いたが、誕生日だった。
年こそずれるが、御巣鷹山の日である。
帰って来てから簡単に調べていたのだが、出るわ出るわ。
単に墜落したわけではない、という話がわんさか出てくる。
「撃墜された」という話は、テレビしか見ない人にはピンと来ないかもしれない。ワカランが、恐らく。
それは、現場に残された残骸が証言している。
しかし、仮に「ミサイルではないがミサイルが当たったかのようになった」などという人がいるとして、それでも説明しつくせないものがある。何故か。
それは、中性子爆弾を使われた、ということ。
嘘か本当かは、こちらも調べることが出来ない。が、色々調べている方がいた。
直接リンクを貼るべきではないと少々思ったのと、そのページは当時の雑誌に掲載されていたような事故現場の写真を載せているわけではなかったが、とりあえず、URLを示しておく。
123便 メモ
ttp://gray.ap.teacup.com/123ja8119/
Wikipediaによれば、実際に放射能、というより放射線というべきなんだろうが、出ていたと書いている。それで自衛隊員が現場にすぐに行くなと止められていた、などという話を書いている。
日本航空123便墜落事故
そこを抜き出して引用する。
事故機には多量の医療用ラジオアイソトープ(放射性同位体)が貨物として積載されていた。また、機体には振動を防ぐ重りとして、一部に劣化ウラン部品も使用されていた。これらの放射性物質が墜落によって現場周辺に飛散し、放射能汚染を引き起こしている可能性があった。このため、捜索に向かっていた陸上自衛隊の部隊は、すぐに現場には入らず別命あるまで待機するよう命令されたという。
ああ、じゃあやっぱり事故なんだなぁ、と思うところだが、上記のブログには中性子爆弾の放射線についてはこうある。専門的な話でもないのだろうが。
放射線の放射の場合、通常では放射線が当たっても放射性物質ではないので特に問題ありません。しかし、強力な強い中性子線を浴びたりした場合、物質が放射化してしまい放射能となってしまいます。百科事典で掲載されているように「きれいな爆弾」は爆弾由来の放射性物質をほとんど出さず、見た目の被害も軽微で爆弾自体からの放射線も数時間程度でおさまります。ところが実際に使われた中性子爆弾は大地を放射化させ、中性子線を発しています。しかも、放射化された大地からの放射は短期間にとどまらず21年経っても深刻な線量です。
中性子を吸収した地面や山の原子核も誘導放射化され、中性子線、ガンマ線や電子線を放出しつづけています。
事故当時、献身的に救助活動に当たってくれていた住民が住む、上野村というところがある。
年々、かなりの速度で人口が減っているそうだ。移住ではなく、自然減、つまり死亡で、という。
こうもある。
同位体変換は起きていますが核変換は起きていないようです。 123便ですが、岩の内部や表面に乗客の形に同位体変換が起きています。(同位体変換とはたとえば炭素棒からダイヤモンドができるような意味合いです)これは中性子線を浴び続けていることを意味しています。 また、電波にも周波数成分があるように中性子線にもスペクトルがあります。ですのでどういった機能をもった成分かを考えないといけませんがこれは現代科学ではまだ測定できません。ただ、一般に精神障害の症状が出ることがわかっています。中学生の4人に1人がうつ症状などという報道がありましたが御巣鷹からの中性子線の影響が濃いのではとみられます。調査を進めるうち特に関東在住で精神病として処理されている人のうち、どれだけの方が中性子線障害なのか考えただけでぞっとする状態がわかってきました。123便の事実は明らかにされないとこれから数万年も人々が犠牲になることになります。事実を公にし一人でも多くの方を救わなくてはならないと思います。
そうなると、フクシマなんぞは恐るるに足らず、といえるであろう。なんせ、そういう研究結果がチェルノブイリをずっと調査していた人から発表されている。
元は英文記事だが、翻訳された方がいるので紹介しておく。「チェルノブイリの野生動物は事故後の放射能の影響を「受けていなかった」調査結果が英国の王立協会の学会誌で発表される」
別に原発推進だとかいっているわけではない。反対である。その上、電気を使いまくる生活にも反対する。そこはお間違えのなきよう。
アイソトープも劣化ウランも目くらまし、というわけだろう。そもそも、飛行機に乗って高度上空を飛ぶだけでかなり被曝するといわれている。
ちなみに、引用したブログの中にあったか忘れたのだが、自衛隊員が別命あるまで待機状態と厳命されていたとはいえ、命令違反を犯してまで助けに行こうとした隊員もいた。
しかし、だ。射殺されたという話があるそうだ。大きく報道はされてはいないようだが。さてさて、わしが言うのはここまでにする。
しかし、子供のころに楽しく(兄貴と同じ誕生日というのが後になって嫌な気分になったが)ケーキを食べていたら、テレビで「あれから何年経ちました」などとやっている。
今もって、「御巣鷹の日に生まれました。年は違うけど」などといって、場合によっては周りの空気を凍りつかせて遊んでいるような捻じ曲がった人間になったのである。いや、関係ないか。
これを書いている時点では、いわゆる「終戦記念日」である。そんな記事を書いたほうがよかったのではないか?と思ったが、そもそもがラヂヲこぼれ話で、中でも喋った誕生日=八月十二日というわけで、こういう話をしたしだいである。
終戦記念日についてはBeyond 5 Sensesで、短い記事が掲載されている。ついついなにやら持って回ったように文章を書いて煙に巻く気がないのに巻いてしまう奴が何か書くより(わしのことである)、遥かに核心をついた話である。
ところで、葉巻を買ってきたのだが、まだ吸っていないのである。うーん、これから夜食としゃれ込んで、それからゆったり吸おうかなと。タイトルに葉巻とあるが、それだけである。申し訳ない。
そして、自分が言っている事に反することを少々やっている。うん?何かね。肉でも食べたのかね。えー、それはたまにほんのちょっと。いやいや、そっちではない。
誕生月なので、ゲーム仲間だったやつらが移住した、新しく始った新しいけど何も新しくないゲームを覗いてきた。
九月までと区切って、特例でちょっとやってみるかと思って始めてみたのである。ただ、このブログの閉鎖騒ぎの時にやり取りがあった人にコンタクトはとっていない。繋がりはある別の人間とコンタクトをとったりはしていた。
久しぶりにゲームをやるという感覚が体を勝手に動かしていく。前より体が頑丈になっているところがあるとはいえ、実にやりすぎてしまった。
しかし、やりまくってまた確信もした。楽しいものではないのだ、と。
パチンコと同じである。延々玉を打ち込ます単調な作業を続けさせ、精神状態が麻痺するかのようなところへフィーバーが来ると。喜ばしいと思うわけだ。そして結果はダメだったので、ガックリくる。そしてまた玉を打ち込む。以下繰り返しと相成る。
この理屈。オンラインゲーム(ゲーム全般でもあるが、特に顕著だと思われる)は、延々同じ作業を繰り返すところが大きいゆえ、当て嵌まる。そういうと、昔のわしなら「色々動かしたりコミュニケーションとったりしてるじゃないか」と反論していたことであろう。
「色々動かして」も「コミュニケーションとって」もいないのだ。
定型文でやり取りするのが「コミュニケーション」か? ほぼ同じように最適化された、もしくはされていく操作で指先を動かすのが脳への刺激になるのか?
別に、いわゆるゲーム状態でないところでチャットをしている状態までをコミニュケーションではないとは言わない。
だが、それは「ゲームのため」にあるものではないか。いずれ喋るのに飽きたら「作業」を続行するか、寝るか、また違う「作業」に戻るだけである。
おっと、実はそこが言いたいわけではなかった。
延々歩き回り、涌きだす敵とやらを倒し続けて、何やらレベルアップを図ったり、珍しいアイテムの出現を願いながら続ける。
ランダムで強敵が乱入してきたり、なにやら目標護衛などといった、「スパイス的な要素」が時折起こったりする。
こういう話は以前も書いたし、ラヂヲの一回目はまさにこの話だった。ラヂヲについてはもう少し違う語り口でやってはいたが。
つまり、テレビゲームはパチンコと同じなんだよ、ということである。
その「パチンコ」も楽しかったものである。ここしばらくぶっ続けでやってみたが、それもまた「楽しかった」のである。
しかし、「楽しい」ものではない。そして、この先も「楽しい」ものにはならない。どこまでいっても「楽しかった」である。
あなたはゲームを「楽しい」ものだと思っているだろうが、「楽しかった」からまたやろうとしているのである。
「楽しかった」を思い出して、「楽しくない」今の埋め合わせをしている。
だから、こう言うことにする。それが出来るならゲームをやってもよい。
さあ、改めて問いかけよう。あなたはゲームを「楽しい」と思っているのか、それとも「楽しかった」から続けているのか。
そしてあなたは「楽しいからやっている」というのであろう。しかし、その言葉は実に矛盾している。
何故「楽しい」はずのあなたが楽しみに現を抜かすのか?つまりは、あなたの「楽しい」は存在はするが、「ゲームをやっている時」か「ゲームで楽しいことがあった」というところにしか存在しないのである。
ゲームの中にしか「今のあなた」がいない状態といえる。しかし、どうみても「今」ではない。それは、「楽しかった」から続けている、だからである。
ラヂヲは311からのわしの経緯を話した。身に摘まされるたとえ話が出来ようもの。
あの日あの時、あなたがフクシマ辺りにいたとしたら、あなたは存在できるのか?と。流されて死んだ、とかいう話ではない。
フクシマどころではなく、日本全国インフラが一夜にして消え去ったとしたら、「今」のないあなたは今を生きれるのか?
わしはそこを問うているのである。その矛盾を理解して乗り越えたのなら、やってもよい。物理的に体に悪いからやるべきではないが。
しかし、それが判ったのなら、「楽しかった」という記憶に意味は有れども憑かれる必要など無い、と、悟っているであろう。では、また。
年こそずれるが、御巣鷹山の日である。
帰って来てから簡単に調べていたのだが、出るわ出るわ。
単に墜落したわけではない、という話がわんさか出てくる。
「撃墜された」という話は、テレビしか見ない人にはピンと来ないかもしれない。ワカランが、恐らく。
それは、現場に残された残骸が証言している。
しかし、仮に「ミサイルではないがミサイルが当たったかのようになった」などという人がいるとして、それでも説明しつくせないものがある。何故か。
それは、中性子爆弾を使われた、ということ。
嘘か本当かは、こちらも調べることが出来ない。が、色々調べている方がいた。
直接リンクを貼るべきではないと少々思ったのと、そのページは当時の雑誌に掲載されていたような事故現場の写真を載せているわけではなかったが、とりあえず、URLを示しておく。
123便 メモ
ttp://gray.ap.teacup.com/123ja8119/
Wikipediaによれば、実際に放射能、というより放射線というべきなんだろうが、出ていたと書いている。それで自衛隊員が現場にすぐに行くなと止められていた、などという話を書いている。
日本航空123便墜落事故
そこを抜き出して引用する。
事故機には多量の医療用ラジオアイソトープ(放射性同位体)が貨物として積載されていた。また、機体には振動を防ぐ重りとして、一部に劣化ウラン部品も使用されていた。これらの放射性物質が墜落によって現場周辺に飛散し、放射能汚染を引き起こしている可能性があった。このため、捜索に向かっていた陸上自衛隊の部隊は、すぐに現場には入らず別命あるまで待機するよう命令されたという。
ああ、じゃあやっぱり事故なんだなぁ、と思うところだが、上記のブログには中性子爆弾の放射線についてはこうある。専門的な話でもないのだろうが。
放射線の放射の場合、通常では放射線が当たっても放射性物質ではないので特に問題ありません。しかし、強力な強い中性子線を浴びたりした場合、物質が放射化してしまい放射能となってしまいます。百科事典で掲載されているように「きれいな爆弾」は爆弾由来の放射性物質をほとんど出さず、見た目の被害も軽微で爆弾自体からの放射線も数時間程度でおさまります。ところが実際に使われた中性子爆弾は大地を放射化させ、中性子線を発しています。しかも、放射化された大地からの放射は短期間にとどまらず21年経っても深刻な線量です。
中性子を吸収した地面や山の原子核も誘導放射化され、中性子線、ガンマ線や電子線を放出しつづけています。
事故当時、献身的に救助活動に当たってくれていた住民が住む、上野村というところがある。
年々、かなりの速度で人口が減っているそうだ。移住ではなく、自然減、つまり死亡で、という。
こうもある。
同位体変換は起きていますが核変換は起きていないようです。 123便ですが、岩の内部や表面に乗客の形に同位体変換が起きています。(同位体変換とはたとえば炭素棒からダイヤモンドができるような意味合いです)これは中性子線を浴び続けていることを意味しています。 また、電波にも周波数成分があるように中性子線にもスペクトルがあります。ですのでどういった機能をもった成分かを考えないといけませんがこれは現代科学ではまだ測定できません。ただ、一般に精神障害の症状が出ることがわかっています。中学生の4人に1人がうつ症状などという報道がありましたが御巣鷹からの中性子線の影響が濃いのではとみられます。調査を進めるうち特に関東在住で精神病として処理されている人のうち、どれだけの方が中性子線障害なのか考えただけでぞっとする状態がわかってきました。123便の事実は明らかにされないとこれから数万年も人々が犠牲になることになります。事実を公にし一人でも多くの方を救わなくてはならないと思います。
そうなると、フクシマなんぞは恐るるに足らず、といえるであろう。なんせ、そういう研究結果がチェルノブイリをずっと調査していた人から発表されている。
元は英文記事だが、翻訳された方がいるので紹介しておく。「チェルノブイリの野生動物は事故後の放射能の影響を「受けていなかった」調査結果が英国の王立協会の学会誌で発表される」
別に原発推進だとかいっているわけではない。反対である。その上、電気を使いまくる生活にも反対する。そこはお間違えのなきよう。
アイソトープも劣化ウランも目くらまし、というわけだろう。そもそも、飛行機に乗って高度上空を飛ぶだけでかなり被曝するといわれている。
ちなみに、引用したブログの中にあったか忘れたのだが、自衛隊員が別命あるまで待機状態と厳命されていたとはいえ、命令違反を犯してまで助けに行こうとした隊員もいた。
しかし、だ。射殺されたという話があるそうだ。大きく報道はされてはいないようだが。さてさて、わしが言うのはここまでにする。
しかし、子供のころに楽しく(兄貴と同じ誕生日というのが後になって嫌な気分になったが)ケーキを食べていたら、テレビで「あれから何年経ちました」などとやっている。
今もって、「御巣鷹の日に生まれました。年は違うけど」などといって、場合によっては周りの空気を凍りつかせて遊んでいるような捻じ曲がった人間になったのである。いや、関係ないか。
これを書いている時点では、いわゆる「終戦記念日」である。そんな記事を書いたほうがよかったのではないか?と思ったが、そもそもがラヂヲこぼれ話で、中でも喋った誕生日=八月十二日というわけで、こういう話をしたしだいである。
終戦記念日についてはBeyond 5 Sensesで、短い記事が掲載されている。ついついなにやら持って回ったように文章を書いて煙に巻く気がないのに巻いてしまう奴が何か書くより(わしのことである)、遥かに核心をついた話である。
ところで、葉巻を買ってきたのだが、まだ吸っていないのである。うーん、これから夜食としゃれ込んで、それからゆったり吸おうかなと。タイトルに葉巻とあるが、それだけである。申し訳ない。
そして、自分が言っている事に反することを少々やっている。うん?何かね。肉でも食べたのかね。えー、それはたまにほんのちょっと。いやいや、そっちではない。
誕生月なので、ゲーム仲間だったやつらが移住した、新しく始った新しいけど何も新しくないゲームを覗いてきた。
九月までと区切って、特例でちょっとやってみるかと思って始めてみたのである。ただ、このブログの閉鎖騒ぎの時にやり取りがあった人にコンタクトはとっていない。繋がりはある別の人間とコンタクトをとったりはしていた。
久しぶりにゲームをやるという感覚が体を勝手に動かしていく。前より体が頑丈になっているところがあるとはいえ、実にやりすぎてしまった。
しかし、やりまくってまた確信もした。楽しいものではないのだ、と。
パチンコと同じである。延々玉を打ち込ます単調な作業を続けさせ、精神状態が麻痺するかのようなところへフィーバーが来ると。喜ばしいと思うわけだ。そして結果はダメだったので、ガックリくる。そしてまた玉を打ち込む。以下繰り返しと相成る。
この理屈。オンラインゲーム(ゲーム全般でもあるが、特に顕著だと思われる)は、延々同じ作業を繰り返すところが大きいゆえ、当て嵌まる。そういうと、昔のわしなら「色々動かしたりコミュニケーションとったりしてるじゃないか」と反論していたことであろう。
「色々動かして」も「コミュニケーションとって」もいないのだ。
定型文でやり取りするのが「コミュニケーション」か? ほぼ同じように最適化された、もしくはされていく操作で指先を動かすのが脳への刺激になるのか?
別に、いわゆるゲーム状態でないところでチャットをしている状態までをコミニュケーションではないとは言わない。
だが、それは「ゲームのため」にあるものではないか。いずれ喋るのに飽きたら「作業」を続行するか、寝るか、また違う「作業」に戻るだけである。
おっと、実はそこが言いたいわけではなかった。
延々歩き回り、涌きだす敵とやらを倒し続けて、何やらレベルアップを図ったり、珍しいアイテムの出現を願いながら続ける。
ランダムで強敵が乱入してきたり、なにやら目標護衛などといった、「スパイス的な要素」が時折起こったりする。
こういう話は以前も書いたし、ラヂヲの一回目はまさにこの話だった。ラヂヲについてはもう少し違う語り口でやってはいたが。
つまり、テレビゲームはパチンコと同じなんだよ、ということである。
その「パチンコ」も楽しかったものである。ここしばらくぶっ続けでやってみたが、それもまた「楽しかった」のである。
しかし、「楽しい」ものではない。そして、この先も「楽しい」ものにはならない。どこまでいっても「楽しかった」である。
あなたはゲームを「楽しい」ものだと思っているだろうが、「楽しかった」からまたやろうとしているのである。
「楽しかった」を思い出して、「楽しくない」今の埋め合わせをしている。
だから、こう言うことにする。それが出来るならゲームをやってもよい。
あなたが、ゲームをしようがしまいが「楽しく」生きているなら、ゲームをプレイしてもよい。
ゲームをやることが「楽しかった」のであるならば、未来永劫、なにも「楽しく」はならないであろう。
ゲームをやることが「楽しかった」のであるならば、未来永劫、なにも「楽しく」はならないであろう。
さあ、改めて問いかけよう。あなたはゲームを「楽しい」と思っているのか、それとも「楽しかった」から続けているのか。
そしてあなたは「楽しいからやっている」というのであろう。しかし、その言葉は実に矛盾している。
何故「楽しい」はずのあなたが楽しみに現を抜かすのか?つまりは、あなたの「楽しい」は存在はするが、「ゲームをやっている時」か「ゲームで楽しいことがあった」というところにしか存在しないのである。
ゲームの中にしか「今のあなた」がいない状態といえる。しかし、どうみても「今」ではない。それは、「楽しかった」から続けている、だからである。
ラヂヲは311からのわしの経緯を話した。身に摘まされるたとえ話が出来ようもの。
あの日あの時、あなたがフクシマ辺りにいたとしたら、あなたは存在できるのか?と。流されて死んだ、とかいう話ではない。
フクシマどころではなく、日本全国インフラが一夜にして消え去ったとしたら、「今」のないあなたは今を生きれるのか?
わしはそこを問うているのである。その矛盾を理解して乗り越えたのなら、やってもよい。物理的に体に悪いからやるべきではないが。
しかし、それが判ったのなら、「楽しかった」という記憶に意味は有れども憑かれる必要など無い、と、悟っているであろう。では、また。