ねーさんとバンビーナの毎日

「静」→ 「淡」→ 「戻」→ 「無」→「休」→「解・涛」→「涛・停」→「抜」→24年「歩」 最終章序章スタート!

知人の皮肉

2009年09月29日 21時38分13秒 | 知言葉
最初からそうやってちゃんとやればいいのになぁ。(実にシラッと)
そこを面倒くさがるんだ、この人は。(実にシラッと)




もーっホントにムカつくオッサンだこと。ワハハハハ…

「面倒くさがるんだから」と指摘する「そこ」に時間をかけたくても、

「まだ?」
「早くしてくれ。」
「いいよ、そんなの。ひとまず形にしてくれよ。」
「今日中。」

のくせになぁ。ワハハハハ…

こちとらたいした下地がないまま、あれよあれよとぶち込まれていったんですぜ?(てか、協力したんですぜ。)

おまけにあの手のヤツは表繕いで済まない質の仕事ですぜ?
根回しとかそんなことも関係無い、目に見えない深い部分も見通して誘導しないとやりきれない質の仕事ですぜ?

しかしあれから時が経ちまして、オッサン無しの今回がちゃんと出来てるとはこれいかに。ワハハハハ…

ま、目的が違うからなぁ。
オッサンのは「政治的?活動も込み込み」だから大変なんだよなぁ。

「この浅さでもうそこ行っちゃうんですかっ。
で、協力しろと?
「やってくれ」と?
「標的にした相手側の城の壁を壊すぞえ。ひとまずそれで良しじゃ。突撃ーーっ!」
って、まるで軍みたいじゃないの?へ?」

こうなんだもーん。(シラッ(笑))

だから「そこ」をじっくり整理するのが今に押しちゃったんだよねぇ。以上だけどね。

やっとゆとりが。

2009年09月29日 13時10分55秒 | 考えるねーさん
「やっぱり昔は、今より忙しかったよ」


と、一言つぶやいてみたりして。


あぁ、そんな人生ですなぁ。
なんか手元の仕事をこなすとか、人付き合いとか、そういうことがとにかく忙しくて、「ゆっくり読書する」とか「映画をゆっくり観る」とかに時間が取れなかった。

まったくしてなくもないけど、してないに近い。

確かにあの頃、5~10歳くらい年上のフリーで独立していくような人達には茶化し気味に言われた。

「ゆっくり読書でもしなさいよ?」
「映画とか観てる?」

などと。

いちいち自分の事情説明するのも面倒くさいので(笑)、

「そんな時間が取れないんだよーーー。この仕事の山ですよ?
そう思うんだったら、この仕事一山、受け取って抱えてくれよー。
「面倒臭いからやだーー、そんなのやりたくなーい。そういう仕事はご免。」のくせにーーーぃ。」

「そんな時間がとれねぇんだよぉぉぉぉ。時間がありゃ読むし観るよ。」

と腹で思って、

「そうですねぇ、本も読んでない、映画も観てなくて、困りますね、私って。(笑)」

と、(かわいげがあるように振る舞っておきながらまるでかわいげのない)冗談で交わしていたなぁ。(ウハハハ・・・)



ヘンなのが、ゆとりがある今、世の中は景気が悪い。
しかし懐具合はあまり変わってない。生活の質も変わってない。
だから「昔からそんなに有り余るほどの沢山のサラリーをいただいてない」ってことだ。ほどほどなの。


だから巨額な蓄えも無い。


だけど、ヘンなのが、あんまり焦り感もない。
おまけに精神的なバランスは今のほうがいい。
気負いしなくちゃいけないような人も気負いがなくなってきてる。


これまで経験・体験して積まれてきた結果に、「やっぱりね。」っていう覚悟が出来たっていうことかな。


毛利元就より。その9(ラスト)

2009年09月29日 12時53分10秒 | 考えるねーさん
あとがき

徳川家の者は、将軍より偉いものはないと思っていたのである。長州藩士のように、朝廷にすがりつくことはできなかった。

自分たちより上位のものを見いだせない者たちには、宗祀はすたれてもというような破れかぶれの迫力はもつことができなかった。

その迫力のちがいで、幕臣は長州藩士に負けた。

それにしても、今日の我々は、長州藩閥の明治政府を過去にもっている。ということは、我々もまた、はからずも四百年前の元就の影響を多大にうけているということになりはしないだろうか。



ふんふん…。
考えを巡らすオバチャマであった…。

毛利元就より。その8

2009年09月29日 12時38分28秒 | 考えるねーさん
慎重の上にも慎重な元就は、強襲はせず、美作・伯耆に兵を出して、尼子に孤立感を与えることを狙った。

永禄九年になると、尼子方は目に見えて弱り始めた。兵糧攻めが効果を現し始めたのである。兵の動きが鈍い。


ひょうろう‐ぜめ〔ヒヤウラウ‐〕【兵糧攻め】
敵の食糧補給路を断ち、兵糧を欠乏させることによって打ち負かす攻め方。食(じき)攻め。


「祖父様、輝元に城攻めを申しつけてください」

十四歳になって、急に背丈が伸びた輝元は、頬を燃やし、目を輝かせていった。

「敵の御大将の首を取って御覧にいれます」

「勇ましいのう…」

元就は、白い顎鬚を振るわせた。

「さりながら城攻めは、まだまだ。それより逃げ道をこしらえてやりなされ」

「逃げ道…、逃がしてやるのですか、敵を。なぜですか」

「なぜじゃろうな…」

元就は、声を立てて笑った。

「自分で考えてみるがいい」

元就は、隆元や元春、隆景には、こんなふうにはいわなかったなと思った。とくに隆元に対してだったら、

「馬鹿者…。城攻めだと?その前にすることはないのか」

と、叱るようにいったことだろう。厳しすぎる父であった。


翌日、輝元は、逃げ道を作る意味がわかりました、といってきた。

「おお、賢いのう」

自分で考えたか、だれかに教えられたかわからないが、元就も、孫には優しかった。

元就は、これまでは城方から逃げてくる者を許さないで、城へ追い返していた。城米を食いつぶさせるためである。どうやらその目的を達したようで、今度は人減らしであった。

一度投降者を許すと、一日に五十人、百人と逃亡する城兵が出てきた。

その折もおり、尼子義久が老臣宇山久信を斬罪に処した。宇山久信が毛利に内通して毛利兵を城へ引き入れようとしているとの噂が立ち、それを信じたからである。それでいっぺんに城兵たちの心が義久から離れた。重臣・譜代の家来まで城を脱出して毛利方に投降してきた。その中には、亀井秀綱の子安綱もいたのである。

みるみる城兵は減っていった。尼子義久は、これ以上戦っても無駄だとあきらめた。そこで元就のもとへ使者を送って、

「我ら兄弟が自刃して城を明け渡しますゆえ、残る城兵の命を助けて下さい」と、いってきた。

元春、隆景をはじめ多くの者が、この際、尼子一族の根絶やしを主張したが、元就は、

「尼子は、山陰の名家である。断絶させるのは惜しい」

といって、助けることにした。尼子経久という偉人の血を絶やしたくなかった。そして、これはあってはならないことだが、輝元あるいは輝元の子らが、いまの尼子氏のような立場に陥ったときのことを思うと、いっそう義久を殺す気にはなれなかった。

「安芸においでなされ。そして安穏に余生を送られよ」

と答えてやった。

永禄九年十一月二十八日、開城。尼子経久が在住してから八十年、最盛期には十一か国の大守の居城であった月山城は、ついに陥落した。

元就は、義久、倫久、秀久の尼子三兄弟を迎えて、これを安芸へ護送し、最後まで戦った城兵を無事に退散させると、月山城には天野隆重を城代に任命して毛利の北の守りを固めた。天野隆重は、守りの中務といわれる。重厚な性格で、華々しい攻撃より地味な守備に強かった。




ぬにゃー、面白い。

「単にコストが削減されるからではなく、『いずれ枯渇するから』なのです」への疑問

2009年09月29日 11時35分12秒 | 考えるねーさん
とある企業のお偉いさんのお言葉。

例えば、エネルギーや水の使用量を削減しなければならないのはなぜか。
それは単にコストが削減されるからではなく、『いずれ枯渇するから』なのです。
この基本認識を持ち、環境とビジネスの両立のみならず、さらに広い地球的視野に立つことが重要です。



『いずれ枯渇する資源』という認識の上で、ビジネスを行おうとするから人間生活に矛盾が起きる。
『いずれ枯渇する資源』の前で人間は「あれやこれや」と前もって操作しちゃいけない。

自然ってもんは、自然に淘汰されたり、枯れたり、また生まれたり、と繰り返されて活きているもの。

それを覚悟して抱えて生きて活きるのが、人間個人個人の責任。

『環境問題で踊らせたビジネス』には協力したくない。
そういう企業との付き合いもほどほどにしたい。(本音)

ねじれにねじれてっちゃうから。

現実困っていることに協力したい。