小春日和

2019-11-02 | 日記

          

一日、暖かい日だった。写真は11時頃の室内で、日差しが部屋の中まで入ってきてとても暖かくて気持ちよかった。縁側に出て外を見ていると、体もポカポカして来てウトウトと、ボンヤリの時間が過ぎて行ったのだった。まだ頭がボンヤリする前には『 鏑木清方文集 制作餘談 』( 昭和54年 白鳳社発行 ) を読んでいたのである。陽射しのある11月に入ったばかりの晩秋の ( もう初冬かも知れないが ) 、こんな日はもったいないような時間である。それこそ外に出て、山道なんかを歩き回ればさぞかしの景色に出会えるだろうに。だけど、こんな日こそには家の中で静かにして、「 こんな小春日和の 」暖かい時間を読書に費やせることはとても幸せなことだろう、と思うのである。朝の遅い時間にカレーを作っていたから、この時間のこの部屋にはまだ少し、カレーのスパイスの効いた香りが漂っている。写真では分かり難いかもしれないが、そう思ってこの写真の部屋を見ていただくと、また少し部屋の風景が違って見えてくるかも、だろう。嗅覚で見ることも、またちょっと面白いかも、だろう。
折角なので、清方 (1878-1972) の文章を紹介しておきます。昭和9年 (1934) 2月の「我が好む画人」という題の一節である。

(前略) さうは云つても、好き嫌ひを軽々に断ずることの、しかし容易ならざるを知つては、一言も云へなくなつて了ふ。だが考へ方によれば、好き嫌いは判断とはまた別なものである。食べもの、観るものその他何でも、あれは好き、これは嫌ひといふのは理屈ぢやゆかない時がある。ムツソリーニと相馬の金さんとは、偉いのとくだらないのとで比較にはならないとしても、くだらない金さんの方が私は好きだ。定評ある名品だつて、好かないものはいくらもある。私は一体所有欲に執着が淡いと思つてゐるが、好きな絵といふのが同時に欲しい絵であるやうな場合には、不思議に、どうにか少しばかり工面をすれば購へる程度のものに惹かれる。今云つた徽宗皇帝は別として、雪舟だの、ミケランゼロだの、いかに名画だつてつひぞ欲しいとは思わない、どうせ手におへぬと極まつてゐるものだからかもしれない、して見ると好き嫌ひがいつか分相応の所有欲に支配されてゐないとは云へないやうだ

 


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