春の宵

2014-04-25 | 日記

今日もいい天気だった。だから、夜への時間もなすべきことなく、あたたかい空気が逡巡しながら上昇して行く。夕陽が落ちると星がだんだん数を増して行く。田んぼもまた、蛙の鳴く声で一層春になっている。だからこそ、与謝蕪村 ( 1716-1783 ) のこの句が今宵の空気を漂わせている、かも知れない。いや、そうではない、かも知れない … 。

     春の夕 ( くれ ) たえなむとする香をつぐ

このアンニュイな雰囲気がなんとも文学的 (?) 時間である。またアンニュイとは、女と男の湿潤的空間でもあるかも知れないのである。やがて、麓の村にも夜の時間が訪れて、またフトンを敷いて眠らなければならない。僕は宵っ張りであるからもう少し春の夜に浸っていてもいい。もう一句、蕪村で一日を閉めよう。

     ゆく春や逡巡 ( しゅんじゅん ) として遅ざくら

 


第20回 『朝活』

2014-04-24 | 日記

         

我が家で27日 ( 日 ) 、記念すべき20回目の 『 朝活 』 があります。都合のつく方はご参加して見てはいかがでしょうか。参加費は500円です。それで今回のテーマは 「 オススメの本をシェアしよう 」 です。今回の時間は10時から11時半を目安にしていますので、少しは日曜日の朝寝ができると思います。でも、遠くから栃堀の山奥に来るとなるとちょっと大変でしょうか。それにも増して、この時季少し早起きのドライヴなんかして、遥かまだ冠雪のある守門岳を目指して来られるのは、やっぱり気持ちいいと思います。

それに、まだまだ咲いている桜の花びらが、ひとひらひとひら風に散り舞う光景は、麓の村のすがすがしいご馳走です。ぜひ、こういう光景も 「 シェア 」 できるといいですね。今日は 「 オススメ 」 の一文でした。 ( 写真は佐藤政夫氏撮影 )

 


装丁と青春

2014-04-22 | 日記

      

この総皮革の 『 フローベール モーパッサン 』 作品集は日下弘 ( 1932-1989 ) のデザイン。彼の名前が記憶に残っているのは、以前、東京創元社から出版された齋藤磯雄全訳 『 ヴィリエ・ド・リラダン全集 全五巻 』 ( 1977年に第一巻が発行された ) が彼の装丁であったからである。当時、リラダン齋藤教授をお慕い申すあまりに、学生時代ニセ学として明治大学文学部なんかの授業に出たことがあったっけナ … 。今思えば、この頃からだろうか … 性格マジメ楽天な理系学生から内向の文系性格に “ 性転換 ” したのは … 。 『 ボヴァリー夫人 』 を読むことは当時の僕の、暗い青春があるのだった。

 


ジャズ・ライヴ

2014-04-20 | 日記

      

長岡市摂田屋・吉乃川株式会社の蔵で行われたジャズ演奏のライブで、ステージ上の演奏家たちの映る影を撮ろうとして、どうも思ったように撮れなかった。アルト・サックスとキーボード、ベース、ドラムスのカルテットのいい演奏だった。サックスはサイモン・コスグローブという英国人の演奏家で、日本語が流暢な方である。彼は毎年この “ 吉乃川 蔵開放 ” のイベントで演奏されるそうで、ジェントルなサックスだった。サックス奏者がこの写真に映ってない、主役の欠如である。

 


昼の桜

2014-04-19 | 日記

          

               悠久山公園の老木もまた咲いている

一葉の処女作は明治25年 ( 1892年 ) に発表された 「 闇桜 」 である。前田愛他編集 『 全集 樋口一葉 第一巻 小説編一 』 ( 昭和54年小学館刊 ) でこれを読んだ。幼い頃から兄妹のように仲のいい良之助と千代の悲しい恋のショートストーリーである。古今和歌集や源氏・伊勢物語など古典文学を踏まえてまた引用した文体は、意味は定かに判じがたい個所もあるけど、花の命を思わせて一葉の 「 言の葉 」 は果敢なく美しい。

「でもよくなる筈がありませんもの」と果敢なげに(千代が)云ひて、打ちまもる睫(まぶた)に涙は溢れたり。(良之助は)「馬鹿な事を」と口には云へど、むづかしかるべしとは十指のさす処。あはれや一日(ひとひ)ばかりの程に痩せも痩せたり、片靨(かたえくぼ)あいらしかりし頬の肉いたく落ちて、白きおもてはいとゞ透き通る程に、散りかかる幾筋の黒髪、緑は元の緑ながら油けもなきいたいたしさよ。

そして下記の文は、死の床に臥せる千代を思いやる良之助の心中を書いて、悲しいかな、花の短命を知るには既に遅かりしであった。

「限りなき心のみだれ、忍草小紋のなへたる衣きて、薄くれなゐのしごき帯前に結びたる姿、今幾日見らるべきものぞ。年頃日頃片時はなるゝ間なく睦み合ひし中に、など底の心知れざりけん、少(ちひ)さき胸に今日までの物思ひはそも幾何(いくばく)ぞ。昨日の夕暮お福(千代の家の女中)が涙ながら語るを聞けば、熱つよき時はたえず我名を呼びたりとか。病の元はお前様と云はるるも道理なり。知らざりし我恨めしく、もらさぬ君も恨めしく、今朝見舞ひしとき痩せてゆるびし指輪ぬき取りて、これ形見とも見給はゞ、嬉しとて心細げに打ち笑みたるその心、今少し早く知らばかくまでには衰へさせじを」

物語の最後は次の一文で終る。

風もなき軒端の桜ほろほろとこぼれて、夕やみの空鐘(かね)の音(ね)かなし。