菊花一輪
死んだ母のために白い菊を一輪、青い瓶に挿してその霊魂を祀る。一昨日は、四か月遅れの四十九日法要をしていただいて、やっと納骨の日を迎えたのだった。今まで、きっと母は死んだ気がしなかったに違いない、不肖の息子のやることに呆れていただろうから、母はきっと、死んでも死んだ気がしなかったに相違なかっただろう。仏壇の父の遺影に並べて、母の顔はほっとしているように見えるのだった。母は言う、ヤレヤレだよ。
菊を飾ったところは母の指定席だったが、今ではやっぱり、本の増殖に侵されてしまっている。母の嘆きが聞こえて来るようだ。しかし、これも仕方ないことである。従って、いつもこのテーブルの上には何かの花を飾ってやって、死人に口なしとは言うけれど、母の口封じをするのである。
ところで、写真の左下に写っている『風景の諷刺』(昭和14年刊) という本は割とレアな詩集である。吉原重雄 (1902-1936) は、(現)長岡市中之島に生まれて、慶応義塾大学に入りその後病を得て大学を去り、鎌倉・腰越の丘の家で、闘病二年の後死んだ。生前には詩集『難漕』(大正14年刊) を出版、また『ハーディ詩集』(昭和5年刊) を翻訳出版、没後には詩集『風景の諷刺』が出版されたのだった。野口米次郎 (1875-1947) が昭和14年のこの詩集に序文を書いている。野口は大学時代の吉原重雄の先生であった。
今彼の遺稿を読むに、特に晩年の作に、読むに堪へざるほど痛ましいもののあることを知り、病室の一角から人生を考へ、自然を把持した彼の態度は荘厳であつたとさへ感じる。吉原重雄は正直であつた、純粋であつた。彼は「ほたる」と題する詩に、破れた肺の蟇となつて静かに呼吸をつづけ、骨の棒切れを布団の外へ投げだし、手指の骨をその端に食ひいらせ、敷布の上に幽かにひかる一疋の蛍を眺めてゐる。また「河原」といふ詩に、彼は隣の部屋から聞える童謡に耳をそばだてながら、春の自然を想像してゐる。彼は虎杖や蕗が赤い芽を石の間から出して来るのを感じ、土筆が砂地を持ちあげるのを思ひ、そして彼はいふ
『 やがて この河原は いちめん あをい雑草に おほはれてしまふ
かたく 根を はりめぐらしてゐる 雑草の したかげから
これらの つよい根を むつ むつ とたちきつて わたしは
ぴんと起きあがる
となりの部屋の 童謡は きれぎれに つづいてゐる
注射器を わたしはとりよせる 木つぱのやうに やせた腕に
注射針(はり)をつきたてる 』
ああ、若くして死んだ魂は痛ましい、…… 吉原君は春になつて、虎杖や蕗や土筆のやうに生気を盛りかへしたかつたのである。(以下略)
夕方、外に出てしばらくすると、雨がわずかに当たってきたから帰ろうとして遠くの山を見上げると、円弧のとても小さい虹が山の稜線をなぞるように出ていたのにはビックリもして、稀な虹だな、と感心もしてとても綺麗なのだった。そしてよく見ると、さらに大きな虹がうすくその小さな虹を包み込むようにしてかかっていたのである。しばらく見入っているといつの間に消えてしまった。雨ももう止んでいて、急に太陽が非常に熱く、僕の背に照り付けているのである。自然の現象との一瞬の遭遇である。
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